3-6【今を充実した日々と呼ぶのだろう】
初めてバイオリンと出会った時のことは、今でもよく覚えている。
フローラと夕方の買い物へ出ていた時に見かけた、演奏会の打ち上げをしに町の広場で集まっていた小さな楽団。
そこに所属するバイオリニストが、酔っ払ないながらも巧みな演奏で場を盛り上げている姿が、特に印象的だった。
バイオリンは異国の貴族が嗜む楽器だと思っていたレイトン。
彼にとってその軽快なメロディーは大衆的であり、それが逆に胸を高鳴らせる。
遠い存在がこれほどまでに近しいものになるという衝撃が、レイトンの脳裏に深く刻まれた。
自分を受け入れてくれたフローラやパラスに、心を開くことができないレイトン。
バイオリニストをぼんやりと眺めるその姿を見て、フローラはバイオリンに興味があるのかと尋ねてきた。
その時は、質問に対し適当な言葉でごまかす。
彼女に本心を口にすることが憚れると、必要以上に恐れていたのだ。
しかし、その時のレイトンの態度はあまりにもわかりやすいものだった。
フローラは完全にその考えを見抜いていたのだろう。
次の日、フローラは準備室から、古びたバイオリンケースを持ち出してきた。
中を確認すると、定期的に手入れされてきたのであろう、ケースに反して新品と見紛うほどの立派なバイオリンが入っていた。
「この弦も大分経ちましたからね、ちょうど張り替えようと思っていたんです」
フローラがそう告げると、ふたを閉じたバイオリンケースをレイトンに差し出す。
「これからは、レイ君にこのバイオリンの手入れをしてもらいましょうっ。大丈夫ですよー、ちゃんと教えてあげますから」
興味があるならば、まずは触ってみることから始めよう、ということだろうか。
こんな貴重な物を預かるなんてと遠慮するレイトンの言葉に耳は貸さず、結局なし崩し的に、このバイオリンはレイトンの私物になった。
――このバイオリンとは、それ以来の付き合いなのだ。
●
空が夜の色に染まりかけた頃。
フローラと別れたレイトンは、帰路とは逆方向の道を進んでいた。
街灯や建物からの明かりに照らされるメインストリート。
仕事帰りの漁師や、店じまいを始める露店の横を通り過ぎながら、港の方角へと坂を下る。
『それならうちで働いちゃいなよ』
イリアスが初めて音楽教室に来たときの、アリシアの言葉を思い出す。
セイレーンであることを隠すには、イリアスが外出するというのは好ましくない。
フローラやパラスも、彼女からお金を受け取るようなことはないだろう。
だが彼女は律義に、居候させてもらっている間のお金を工面するために双子姉妹の家で働いているのだ。
そうなると、どうしても心配になってしまうのが人の性。
レイトンはイリアスを迎えに行くため、道を急いでいた。
「どけ」
背中から押される衝撃。
レイトンはとっさにバイオリンケースを庇うように抱える。
それが逆にバランスを崩すことになり、その場に倒れ込んでしまう。
肩掛けカバンが地面に投げ出され、中身が散乱する。
一体何が起こったのか?
痛みよりも混乱が勝るレイトンは、すぐさま背後を確認した。
「ちょっ、いきなり何を……ッ」
ブロンズィーノが立っていた。
しかし、その顔にはいつもの余裕の表情は見受けられない。
眉間にしわを寄せ、目は鋭く、明らかな怒りの形相でレイトンを見下ろしていた。
普段の様子ならば、抗議の一言くらいは造作もなく言える。
しかし今の彼相手に、レイトンが抗議の声を上げることは出来なかった。
初めて、この男を軍人として恐ろしく思えてしまったのだ。
「ふんっ、給仕風情が。謝罪の言葉もなしか」
今、自分は一体どんな表情を浮かべていただろうか。
ブロンズィーノに対して、感じたことのないような恐怖がにじみ出ていたかもしれない。
それだけ、目の前の軍人が怖かった。五年前の悪夢を想起させる、その表情が。
「貴様らはそうやって、地べたに這いつくばっておればよいものを……」
まるで吐き捨てるようにつぶやくと、ブロンズィーノは立ち上がれないレイトンを跨いで、その場から去っていく。
「大丈夫かい?」
同じように彼の形相を前にして口をつぐんでいた通行人が、レイトンに手を差し伸べる。
「は、はい。ありがとうございます……」
「何があったかは知らんが、あの中佐がおっかない顔することもあるんだなぁ」
散乱したカバンの中身を共に拾い集めながらつぶやく通行人。
その意見には、レイトンも完全に同意だった。
自分よりはるかに年下の少女と言い合いをするような男の顔ではなかったからだ。
「はい、これで全部かい? 無くなっているものは?」
「大丈夫です。えっと、ありがとうございました」
「礼なんていいさ。しかしこりゃ立派な羽根だね、削ってペンにするのかい?」
そう言って手渡してきたのは、前に港で拾った羽根。
あれから入れっぱなしになっていたようだ。
今なら分かる、これはイリアスの羽根だ。
港でこれを拾ったあの日。
頭上を彼女が飛んでいたのか、ジェイソンの船に残っていた羽根が飛んできたのか。
羽根を受け取り、再びカバンにしまう。
「んー……記念みたいなものだから、どうしようかと」
「そっか。ま、これからはお互い気を付けようや。それじゃあね」
頭を下げるレイトンに対し、いいよいいよと手を振りながら、通行人は雑踏へと消えていく。
改めてカバンの中を確認するが、財布を含め中身は揃っている。
バイオリンも、腕でしっかりと抱えていたため無事のようだ。
ひとまず安心し、一息つくレイトン。
服に付いた砂を払い、目的地に向けて再び歩き出した。
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