3-5【それを家族というのだろうか】
レイトン・アポロドロスの日常は、一気に充実したものとなった。
いや、少々忙しすぎるとも言うべきか。
そういう日常は、得てして光陰矢の如しだ。
「それでは、今日も楽しく授業を始めましょうねぇー。ぱちぱちー」
妙に嬉しそうに、教室に集まったいつもの面々に笑顔を振りまくフローラ。
一人拍手のおまけ付だ。
イリアスが教室に加わって早三日。
窓の修繕を終えて初めてのレッスンだが、今日のフローラはいつにも増して楽しそうである。
「さて、それではですねぇ、今日も発声練習から始めるのですが」
「あの、先生? ちょっと……」
なぜかフローラの笑顔がレイトンに向けられる。
分かっている。彼女がまるで近所の子犬を見るような顔で自分を見ている理由は。
だが、どうしてもそのことについて、レイトンは彼女に問わねばならない。
「レイ君、今日はそちらでよろしくお願いしますね」
「お願いします……じゃなくてっ。これって一体どういうことですかっ?」
普段レイトンが座るべきピアノの前には、笑顔を浮かべたフローラが座っている。
そして自分の座席はといえば、教室中央に並んだ三つの椅子の真ん中。
双子姉妹に挟まれたそこで、イリアスを膝に乗せた状態で座っていた。
――これはどういう状況なのだろうか?
いくらレイトンが思考を巡らせても、その答えは見えてこない。
しかも、アリシアとアリスの満足げな表情を見ていると、照れくさくて居心地が悪くなる。
「はい。イリアスちゃんが、リラックスして声を出せるようにするんですよぉー」
だとしたら、これは逆効果としか思えなかった。
赤面症のイリアスを、よりにもよって男の膝の上に乗せるのだ。
極度の緊張で声が出せなくなるのが関の山だ。そうとしか思えない。
きっとイリアスだって、今頃身を震わせながら顔を赤く……。
そう思ったところで、緊張で震えるイリアスの振動が伝わってきていないことに気付く。
「レイトンさん……ちょっと、照れちゃいますね。へへ」
こちらに振り返った彼女の横顔は、赤面したままはにかんでいるではないか。
まんざらでもないといった感情が、目に見えてはっきりしている。
「レイ君ならきっと、イリアスちゃんを落ち着かせてあげられると思ったんですよ」
「なるほど、イリアスってお兄ちゃんに懐いてるもんなぁ。もぉ、甘えん坊なんだからぁー」
「そういうこと言わない。無駄に力が入っちゃう」
アリスが注意するも、すでにイリアスは肩をすくめて恥ずかしそうに翼を動かしている。
だが、岩のように固まるような事はない。
フローラの言うとおり、レイトンの側だとそれなりに落ち着くようだ。
それは光栄な話なのかも知れない。
しかし恥ずかしいというのは、レイトン自身の方が強く思っているだろう。
イリアスの保護者としての役割を終えた後。
レイトンはバイオリンケースを片手に、ポリュヒュムニアの町を一望できる崖の上に来ていた。
ここは広い耕作地が広がっており、少し離れたところには町の入り口を守るように、衛兵達の詰め所がある。
それ以外は牧場と、崖際周辺の草原。
町を挟んだ反対側の崖の突端には、この町で最も高い建物である灯台が鎮座する。
レイトンは普段、バイオリンの練習は自室か空いた時間の教室で行っている。
だが今はイリアスも居候しており、何より彼女は自分の演奏を楽しみにしてくれている。
そのため、この一週間の練習は、専らこの人気のない崖の上。
そこでまばらに生える月桂樹の木陰で行っていた。
「んー……」
今日は少々風が強く、練習するにはよくない日和りだ。
室内ならば、弦にシーツをかけて演奏するという方法もあるにはある。
だが、イリアスの第一印象を出来る限り大切にしたいというこだわりが、彼女の目の届かないところでの練習したいという行動に繋がっていた。
「張り切ってますねぇ、レイ君」
背後から聞き慣れた、心地の良い声。
ケースにバイオリンを戻しながら、そちらの方へ顔を向ける。
日傘を差したフローラがそこにいた。
「あっ、先生。どうしたんですか?」
「はい。パラスちゃんがお弁当を用意してくれて」
こちらに向けてきた蔓編みのバスケットには、白く平たい円形のパンで野菜やエビを巻いたものが四つ。
「一緒に食べましょうね」
日傘を閉じ、レイトンの隣に腰かけるフローラ。
彼女に促され、続いて隣に座る。
横から見る彼女の顔は、強い日差しから肌を守るために長袖のドレスを着ているというのに、汗一つ浮かんではいない。
いつ見ても、レイトンにはその姿が不思議に感じられる。
同時に、彼女の整った容姿を前にすると、今でも胸の高鳴りを実感してしまう。
「ごめん、先生。暑い中外出させてしまって。体は大丈夫ですか?」
「いいんですよ。たまにはお散歩したい気分でしたし、イリアスちゃんもみんなが見ていてくれますから」
フローラが見せる、屈託のない笑顔。
本当に美しい。そう思わずにはいられない。
「今日は風が涼しいですねぇ。でも、練習するにはちょっとうるさくなってしまいますね」
「はい。でもできるだけ上手くなりたいし」
「イリアスちゃんのため、ですか?」
そう尋ねてきたフローラの顔は、心から喜んでいるようにも見えた。
「まぁ……はい。別に演奏家とか大した奴じゃないけど」
それを理由に手を抜きたくないと、照れ気味につぶやく。
「いいえ。レイ君のそれは、とても素敵な心掛けです」
傍らに置かれたバイオリンケースを、フローラの白い手が愛おしそうに撫でる。
「レイ君が努力する理由に誰かの為という思いがあるのならば、それはもう演奏家を志す者だと、私は思います」
世界。それこそ聖域にまで名が通るほどの偉大な声楽家。
そんなフローラが向けてくれた肯定の言葉は、きっとどんな宝物よりも貴重なものだ。
胸が熱くなるような感覚を、レイトンは覚えた。
「私の思った通り、レイ君は勇気のある子ですね」
『レイトン君の勇気を感じましたから』
五年前のあの時、フローラは絶望していたレイトンに、そう語りかけてくれた。
本当に勇気があったのか。それは今のレイトン自身にも分らない。
しかし、今のレイトンに勇気というものがあるのだとしたら、それは見ず知らずの自分を受け入れたフローラとパラスが、新しい生活と共に与えてくれたものだ。
だからこそ、新しい家族の為に一人前になりたいと。
そんな思いが、レイトンの心に深く根差している。
「……先生」
だからこそ、フローラにはどうしても聞いておきたいことがあった……。
「首都の音楽学校の件、やっぱ悩んでるんですか?」
「えっ?」
あれから一週間、ブロンズィーノは例の推薦状のことで付きまとってきている。
それに対しフローラは、明確な返答を返すことはない。
のらりくらりと返答を先延ばしにしてばかりだ。
しかしそのようなことで、あの男が引き下がるはずがない。
できることならば、フローラにははっきりと断る旨を伝えて欲しかった。
「確かに、いい話だとは思います。だけど先生、俺は……」
――もっとこの町で、先生達の役に立ちたい。
それが重荷になるかと思うと、最後の言葉を口にすることは出来なかった。
代わりに真剣な眼差しをフローラに向ける。
初めに自分を受け入れてくれたのはフローラ達だ。
だがポリュヒュムニアの町もまた、故郷を失ったレイトンを受け入れてくれた。
先生たちの役に立つことで、町にも貢献したい。
きっと他人行儀な考えだと遠慮されるのだろうが、それが今のレイトンの全てだと言ってもいい。
皆が与えてくれた新しい生活を、何よりも大切にしたいのだ。
「実は、少し困っているんです」
レイトンの真剣な眼差しに対し、フローラはあくまで普段通りの言葉を返す。
「それって、やっぱ推薦状のことで悩んで――」
「はい。どうすればブロンズィーノさんを傷つけずにお断りできるか……はぁ」
一瞬だけ、背中を冷たい感覚が通り過ぎた。
……ただ過ぎ去っただけだった。
続いたフローラの言葉に、レイトンは思わず目を丸くする。
そう、単純な話。彼女は優しすぎるのだ。
例え周りから疎まれるブロンズィーノ相手だろうと。
「適当な返事ばかりでは、やっぱりよくないですよね」
「まぁ、確かに」
「良い話だとは思うんですよ、皆さんが音楽を学べる場所が増えるということは。でも、大人数の生徒さんに向けて教えるのは本当に苦手で」
とほほといった感じで肩を落とし、人差し指を自分のあごに当てるフローラ。
「私って、話すときのんびりでしょう? だから真剣に学ぶ方に失礼なことをしてるんじゃないかって」
「えっ? でも三人にはすごく丁寧に教えてるじゃないですか。気にするほどのことじゃないような?」
「それはアリシアちゃんやアリスちゃんが、私のことを知ってくれてるからですよ」
確かにその通りだ。
あの二人はレイトンよりもフローラとの付き合いが長い。
「イリアスちゃんはとってもいい子ですから、ちゃんと話を聞いていてくれていますし……」
つまるところ、自分がどういう人柄なのかを知らぬ人の前で授業をして、失望させてしまうことが気がかりなようだ。
フローラらしい悩みといえばそうだ。
しかし、果たしてこんな彼女を見て失望などするものなのだろうか。
心から彼女を尊敬しているレイトンには、一生分からない話だろう。
「それに……」
そこに言葉を続けるフローラ。
「私はもう、帰る場所はここって決めて移住しましたから」
その言葉は、レイトンにとって福音だった。
自分と同じ思いを、この場所に抱いていてくれたという確信だったからだ。
「という訳で私、頑張ってお断りの仕方を考えますからね」
そう言って、フローラが胸元で両手の拳を合わせる。
「パラスに頼んだら、色々と教えてもらえそうですけどね……」
フローラは間違いなくやる気だ。
しかし、彼女がその答えを出すにはまだ時間が必要であることは、レイトンの想像に容易いことだった。
同時に、緊張が解けたことによって我慢していた空腹が押し寄せる。
レイトンはパンの一つを手に取り、それを思いっきり頬張った。
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