3-3【この子を守ろうと思った】

「私、歌がものすごく下手なんです……。だから、すごい人だって聖域でも噂になってたフローラ先生のところに……」


 正座したまま縮こまるイリアス。

 声の音量は急降下し、その姿は普段の二分の一ほどの大きさに見えてしまう。

 その先には、冷たい壁に頭を押しつけ脱力する双子姉妹。

 そして頭から水を被り、水を滴らせるフローラと、疲れ果てた様子で椅子にもたれかかるレイトン。

 この大惨事。全ての原因は、イリアスだったのだ。


「う、歌が下手って、周囲に多大な影響を与えてしまう歌声ってことだったんだね」

「はい……」


 周囲に影響を及ぼす歌声。セイレーンらしいといえばそうかも知れない。

 下手ではなく、実は才能なのではないか。

 そんなことを思うレイトン。

 それをイリアスに言えば傷つくのは間違いない。出かけた言葉を飲み込む。

 だが、どう頑張っても覆らない事実が一つ。

 彼の中でセイレーンが歌の上手い種族だというイメージは、完全に崩壊していた。


「とにかく、授業を中止して掃除しないと」

「そう、ですねぇ。あとガラスは……お部屋のも割れちゃってますよねぇ」

「ごめんなさいごめんなさいっ!」


 弱々しいフローラとレイトンに、再び連続で頭を下げる。

 もう良いよと、謝罪するイリアスを止めるレイトン。

 しかし頭の中では、ガラス代がいくらになるかの不安が、延々と渦巻いていた。


「そ、それより先生、着替えた方がいいよ」

「結構、透けてます」


 起き上がった双子姉妹の指摘で、気付いてしまったレイトンの顔が少し赤くなる。

 確かに、普段着より薄手であるフローラのドレス。

 水を吸ったそれは肌に張り付き、普段布が隠している部分を大胆に晒している。


「え? あぁー、そうですねぇ」


 だが、そんなレイトンの視線を全く気にしていない様子のフローラ。

 水を滴らせ、双子姉妹の言葉でやっと思い出したように手を叩く。


「先生、何か考え事してたの?」

「ええ。イリアスちゃんの声をどうやって直そうかと」


 あれだけ大変なことになっても、教師としての使命は果たすつもりのようだ。

 マイペースさが為せる技、といったところだろうか。


 しかし、壮絶だった。

 第一声の時点で状況判断する余地を奪い、そして気を失うほどの衝撃。

 逃げる余裕すら与えない、イリアスの歌声。

 果たしてそれに挑むことが、レイトン達には出来るのだろうか。

 と、そのとき、けたたましいドアベルの音が家中に響き渡る。


「ファーンレインじょしぃーっ!」


 フロントから甲高い声が聞こえた瞬間、脱力しきったレイトンの体に力が戻る。

 双子姉妹は目を見開いて壁から頭を離し、フローラはずぶ濡れのまま笑顔。


 ――ブロンズィーノだ!


 四人の視線が、イリアスに注がれる。

 レイトンの身体が、真っ先に動いた。


「ごめんっ、イリアスちゃん!」


 ピアノの足に膝をぶつけながら、イリアスの元へ駆け寄る。

 そのまま彼女の小さな体を脇に抱え、教室奥にある準備室のドアへと駆け寄る。


「ふへっ!?」


 勢いよくドアを開け放つレイトン。

 小さな窓があるだけの暗い部屋。

 ドアが開いた反動でわずかに積もったほこりが舞う。


「れ、れ、れれれれぇっ、れ、レイトンさっ?」

「静かにっ」


 その中に入り、ドアを閉めて鍵をかける。

 鍵がかかったのを確認すると、ドアにもたれ掛かってイリアスを解放した。

 古い紙の匂いが漂う狭い準備室。

 大量の楽譜が置かれた棚や数個の楽器ケースが部屋を圧迫しており、二人が入ると結構な至近距離になる。


 少々息苦しさを感じるが、今は我慢するしかない。

 イリアスとブロンズィーノ。この二人を絶対に会わせてはいけないのだ。


「ふへぇ…………」


 しかしイリアスは、赤くなった頬を手で押さえながらその場にへたり込む。

 突然のことで、状況を上手く把握できていないのだろう。


 レイトンがイリアスと準備室に立てこもった直後。


「ファンレイン女史! ご無事でっ!?」


 その声と共に教室になだれ込んだのは、ブロンズィーノと彼の部下数名。

 そして遅れて兵長。

 教室内の様子を鍵穴から覗き込むレイトン。

 表情はうかがえないが、駆け込んできた者達の息は荒い。

 おそらく大通り辺りからここまで走ってきたのだろう。


「あらぁ、ブロンズィーノさん。おはようございますー」


 そんな彼らに、相変わらずの調子で挨拶をするフローラ。

 だが前髪から水が滴り落ちている状態だ。普通に見えるはずもない。


 案の定、ブロンズィーノはそれよりも別の方向に視線が向いたらしい。

 べったりと肌に貼り付いた、その薄手のドレスに。

 当然、その透けた肌も……先ほどまでの勢いが消沈し、沈黙している。


「う……うぅ…………うおぉぉ! こら田舎娘共っ、とっととファンレイン女史の着替えを持ってこぬかっ、ノロマめ!」

「ンな事分かってるわよ! 大体アンタ、人の部屋に勝手に入るなって親に教わってないのっ!?」

「何だとこの芋娘ぇ!」


 互いに詰め寄り、睨み合いを展開するアリシアとブロンズィーノ。

 二人の間に、見えない火花が散る様が目に浮かぶ。


「というかさっき、先生の体凝視してたでしょ。このエロヒゲ!」

「え、エロ!? こンのぉ、無礼者ッ! こうなったらここで思い知らせてやるわ!!」

「えーそうですかっ、やれるモンならやってみなさいよ!」


「二人とも、教室で喧嘩はダメですよぉ」

「「はい」」


 口調はいつも通りだが、この様子だと珍しく怒っているのであろうフローラ。

 一触即発状態から一転、二人はすぐさまおとなしくなる。

 こんな事は滅多にない。初めて見たかも知れない。


「ところで、あの給仕がいないようで。まさかファンレイン女史を置いて一人逃亡かね。使えない男だ」

「はぁ? そんなはずないでしょ! 先輩は今イリアスとむぐぅっ」


 感情にまかせて余計なことを言いそうになったアリシアの口を、アリスが素早い動作でふさぐ。


「ん、何か言ったか?」

「何でもない。こっち見ないで」

「チッ、まあいい。しかしクリームトの奴もいないとは。名門でも化け物にされたとなると、こんなものなのだろうな」


 教室内を見渡すブロンズィーノ。周囲を見渡し、鼻で笑う。

 誰でも分かる。またろくでもないことを考えているのだろう、この男は。


「しかし、先ほどの衝撃は一体? この付近から起きたようにも見えたが」

「そうですねぇ、山よりも大きな人の鼻歌がここまで届いちゃったんでしょうか?」


 もちろん、町に現れたセイレーンが原因などと口が裂けても言えない。


「だとしたら相当才能がない下手くそですな。そもそもも人間ではない訳だが」


 声色が変わるブロンズィーノ。そして一言。


「そんな化け物は、我らが直々に成敗しますよ。ネプチューン派の名において、必ず」


 ネプチューン派。

 現状のレイトンにとっては、嫌悪感を覚えずにはいられない名前。


 だが、その名を聞いてもフローラは表情一つ変えない。

 彼女は一体、その胸の内で何を思っているのか。

 時折それが分からなくなる。昨日の推薦状をもらったときのように。

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