3-2【衝撃】

 翌日。今日の空模様もまた昨日と同じ、雲一つない快晴だった。

 開け放たれた窓から差し込む光が、一階の教室を明るくする。

 そこに、レイトンとフローラ、そして三人の生徒がいた。


 教室入り口のドア。その向かいの壁には、譜面用の五線が引かれた黒板。

 部屋の中央には並べられた三つの椅子と、その前には教卓用の小さな机。

 そして、窓とは反対側の壁にある、大きな存在感を放つグランドピアノが一つ。

 このピアノの前が、レイトンの特等席だ。

 ピアノ傍のドアは、楽器や教材が置かれた準備室へ繋がっている。


「それではぁ、今日も楽しくやりましょうねぇ」


 生徒の前に立ち、笑顔を振りまくフローラ。

 服装は普段より薄手で、水色の地味なドレス。彼女の仕事着である。

 ここでの授業は、主に午前と夕方前に行われる。

 フローラの体調に厳しいという理由で、気温の上がる時間帯を避けるようパラスが時間割を組んでいる。


「えっと、イリアスちゃんは今日から早速授業を受けてもらいます。皆さん、協力よろしくお願いします」


 イリアスの両隣に座る生徒二人、アリシアとアリスが返事を返す。

 二人に挟まれ、やや肩に力がこもっている様子のイリアス。

 その顔を見るレイトンは、顔に微笑みを浮かべていた。


「まっかせといてよー。イリアス、先輩だからって気を遣ったりしなくて良いからね。あと敬語厳禁」


 笑顔でイリアスの右手を取るアリシア。


「あ、はい。よろしくお願いします、アリシアさん」

「だーめ、かしこまってる。はい、もう一回っ」


 今度はイリアスの右腕に、アリシアの腕が絡む。


「へ? じゃあ、えと……よろしくお願いします、アリシアちゃん?」

「名前はいいけどお願いしますが堅い! もっとこうね」

「アリシア、強制は良くない」


 イリアスの右腕を抱きしめるアリシアと、空いた左手を握るアリス。

 その二人に囲まれ、イリアスは顔を真っ赤にしてとまどっている。


「アリシアちゃーん、静かにしてくださいねぇ」


 フローラに注意され、不満そうに頬を膨らませるアリシア。

 イリアスが来て、確かにこの場は賑わいが増している。

 それが、レイトンには嬉しく感じられた。


「それでは、まずはいつもの発声練習からしましょうー。皆さん立ってください」

「は、はいっ!」


 フローラの言葉に対し、立ち上がると同時に力のこもった返事を返すイリアス。

 体はかなり硬く、想像以上に大きなイリアスの返事に双子姉妹は少し驚いていた。


「イリアスちゃん、体が硬いままだと良い声が出ませんよ。もっとリラックスして下さいねぇ」

「あわわ、分かりましたっ。うぅ、リラックスリラックス」


 余計泥沼に嵌ったような気もするが、何とか心を落ち着かせようとしている。

 本当に大丈夫だろうか。傍から見ているレイトンが、苦笑を見せる。


「過度の緊張はいけない。リラックス」


 アリスが背中をさすり、全身の力が抜けるように促すも……。


「リラックスー、リラックスー。肩の力抜いて、深呼吸してぇ……すぅー、はぁー……すぅー……ぅー……うっくっ! けほけほっ」


 息を吸い込みすぎたようだ。


「イリアスちゃん、とりあえず俺の弾く鍵盤の音に合わせて発声すればいいだけだから。難しいことは何もないよ」


 黙って様子を見ているレイトンも、これには口を挟まずにはいられなかった。


「あ、はい! 分かりましたっ」


 元気のある返事なのはよいが、どうしても力を抜くことは出来ないらしい。

 両方の握りこぶしを胸元に当て、額から汗を流しているイリアス。


 その姿を見て、誰が安心していられるだろうか。

 明らかに緊張してるし、力も入りすぎている。

 見ているこっちまでもが、失敗してしまうのではないかと緊張してしまう様子。

 だが、そういう生徒でも、フローラの指導ならすぐに何とかなる。

 きっと大丈夫。そう思い、白い鍵盤に指を置く。


「それでは始めましょうかぁ。レイ君、お願いしますー」


 緊張の面持ちを見せるイリアス。

 その様子を見つめるフローラに従い、レイトンは鍵盤の一つを、指で強く押した。


 …………世界が、揺れた。



                  ●



 【後日レイトンが目にした、パラス・クリームトの日誌より】


『私ことパラス・クリームトがこの日を語るとすれば、語り始めはポリュヒュムニア始まって以来、最大の天災となるだろう』


『ファンレイン女史と助手のレイトン、そして生徒達が授業を始めたその時、私は少々蒸し暑い事務所の中、机の上で黙々と書類仕事に勤しんでいた』

『その時の仕事は、上半期の帳簿のまとめだったことを覚えている』

『覚えているというのは、前後の記憶がかなり曖昧になっているためだ。なのでこの日誌も、かろうじて残った記憶を書き記しているに過ぎない』


『手元には、日頃から懇意にしているオルペウス船団からの領収書の束。双子の父はいい加減な男だが、船仕事においては信頼のおける奴だ』

『それと、ジュピテル・ファルコニフォメス・クリームト……我が子煩悩の父からの手紙もあった』

『まぁ、それはどうでもいい。事態が動いたのは仕分けした領収書の束をめくり、一行目に楽器修理用の材料輸送費を書こうとした時だ』


『私の語彙では、それを表現することは出来ない。それを果たして音と形容すべきなのか。いや、あれは衝撃といった方が正しい』

『耳だけではなく、全身でその波を受ける。それは私の脳を揺るがし、不快感を全身に巡らせてくる。耳を押さえても無意味だ』


『――これは、一体、何だ!?』


『私はただ声も出せず、ただ頭の中が混乱に包まれてゆく』

『ガラスが割れる音。棚から書類が落ちる音。視界が、徐々に暗くなっていく……』



                  ●



 レイトンの意識がゆっくり現実へと引き戻され、瞼の裏から光を感じる。

 目を開くとそこにあったのは、逆に目をつむり、言われたとおりの発声練習を行った後のイリアスだった。

 気付けば、辺りは静寂に包まれていた。彼女の息遣いだけが教室に響く。

 発声後の恍惚感に、わずかながら酔いしれてしまっているのか。


「へへ……あ……え……? ……ふえぇ」


 ひとしきり満足したのだろう。目を開いたイリアスの顔が、一気に青ざめる。


 彼女の目の前に広がる光景は、きっとひどいものだったはずだ。

 窓側の壁を中心に、床にはガラスの破片が飛び散り、まるでハリケーンでも飛び込んできたのかと思わせる状況。

 隣に立っていた双子姉妹。

 アリシアは泡を吹いて床に倒れ、アリスは椅子にしがみつく姿勢で失神している。

 フローラはどうしたか。

 教卓代わりの小さなテーブルにもたれ掛かり、いっこうに動く気配がない。


「い、リアス、ちゃん……力、入り、すぎです、よぉ」


 まるで寝言のように、フローラが呟く。途切れ途切れの、非常に弱々しい声だ。

 気絶する皆の姿を見て、イリアスは完全に冷静さを失った。


「あ、ああぁ……ごごごごめんなさいぃ!! いい、今お水持ってきますっ!!」


 教室を飛び出すイリアス。

 階段を上り下りする音の後、水差しと木のコップを両手に持って戻って来る。

 開けっ放しのドアを抜け、教室内へ。そしてそこから一歩踏み出した瞬間。


 ……アリシアの脚につまずき、イリアスの身体が浮く。

 体がバランスを失い、手からコップと水差しが離れる。

 コップは窓側に飛んでいき、開けっ放しの窓から外へと消えていく。

 そして、飛び出した水差し一杯の水の行く先には、気絶しているフローラの姿……。

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