第三幕【歌を忘れたセイレーンは……】

3-1【それぞれの生きた道】

 夕日は沈み、黒色の海は星空の下で月明かりに照らされる。


 大きな通りを除いて、この町には街灯がほとんどない。

 その分外は暗くなるが、その分星がよく見える。

 そして建物の窓から漏れるランプの明かりは、海に浮かぶ星空のようにも見えた。




 ファンレイン音楽教室の二階。

 皆が食事をするリビングは、階段から直接繋がっている。

 調理台とはカウンターで仕切られており、階段傍にはフローラの私室に続くドアがある。

 今日の夕食が乗っている四角いテーブルには、椅子が二組ずつ向かい合って配置され、イリアスとフローラが隣り合って座っている。


「これが、人間の方々の食事なんですね」


 人間の生活とは無縁のイリアスにとって、この町の全ては未知のものらしい。

 置かれている家具から、トマトがメインのサラダの盛り合わせ。

 更には目の前のパンやスプーンまで、次から次へと視線を動かしていた。


 イリアス曰く、食器類は人間とほとんど変わらない物を使っているらしい。

 ただし素材は銀が主流という、貧乏人には少々耳に痛いことも時折口にする。


「あの、この町の食材はどちらの神様が与えてくださるのですか?」

「ふふ、これは全てお店で買った物ですよ?」

「お店……あ、お金を使う場所ですよねっ。お金はジェイソンさんに教えてもらって用意したんですけれど、馴染みがなくて」


 つまり、食材は買う物ではなく、神から提供される物ということなのか。

 こちらの世界で神と言えば、姿を現すことはないがなんとなく敬っているものだ。

 宗教家のような敬虔な信徒というのは、庶民のレイトンには馴染みが薄い。


「そんな便利なものが存在したら、苦労はしないさ。レイ、これをテーブルに」


 パラスの指差す先には、食べやすいサイズに刻まれた魚介とポテト、タマネギのスープが注がれた木の器が四つ乗せられたお盆。

 スープは昼間フローラが作っていたものだが、仕上げは結局パラスがやっている。クモだが。


 それもまたイリアスには珍しいのだろうか、お盆を持ってやってくるレイトンが、自分の前にスープを置くまでの一挙一動をずっと見つめていた。


「あ、オリーブの匂いっ。こちらでもオリーブの木があるんですね」


 遠い故郷のことを思い出している、そんな表情のイリアス。

 神が持ち込んだと言われる植物だから、聖域でも珍しい植物ではないのだろう。


「この町の周辺に畑があるんですよ。そこで他のお野菜と一緒に作られてますよ」

「我々が食すものは神ではなく、人が栽培しているのさ」


 フローラの言葉に合わせるように、席に着きながら口を挟むパラス。


「さい、ばい?」

「そう。大地を耕し、種を植え、日々水やりなどの世話をして育てる。神のやり方かどうかは知らないが、こちらではそうやって作物を育てる」

「育てる……神様も、そうしてるのかな」


 イリアスのつぶやきを聞いて、パラスの隣に座るレイトンは、立派なひげを蓄えた神が汗水流して畑を耕す姿を想像してしまった。

 実際は違うのだろうが、それはそれで愉快な光景だ。

 聖域のことは、おとぎ話の中でしか聞いたことがないのだ。分かるはずもない。


「人間は神の御業というのに恵まれないのが普通さ。だから様々なことを、時間をかけて行う。育てることや、学ぶことを」


 テーブルに両膝を付きながら喋るパラス。

 淡々とした口調ではあるが、自分の話に黙って聞き入るイリアスの顔を、まるで楽しんでいるかのように見つめる。


「神は瞬時に物を生み出す能力でも持っていそうだからね。羨ましい限りだ」

「はい……あれ? パラスさんも聖域で暮らしていた方ですよね? それなら神様のお世話にも」


 イリアスが疑問を抱くのは当然だろう。

 パラスの外見は、人間のそれからは遥かに逸脱している。

 それなのに、先ほどから神の存在を身近ではないものとして語っているのだ。


「ああ、私かい? それなら何ということでもない、私は元人間だ」


 その疑問に、パラスはあっさりと答えてみせた。

 イリアスが目を丸くする。ついでに話を聞いていたレイトンもだ。


「えっ? パラス、それ初耳なんだけど」

「それはそうさ、話したことはないのだから。だがそれはレイが勝手に遠慮していたからだ」


 確かに、聞きにくい話だろうと思い、フローラとパラスの間柄について尋ねるようなことはしなかったが。


「我が家系、クリームト家はアテナイ王家の血縁者も嫁ぐ家柄だ。今の国王の妹が、私の弟の妻でね」

「国王の妹っ!?」


 思わず聞き返してしまうレイトン。

 対するイリアスは、国王というものが分からないのか首をかしげている。

 もしかしたら聖域では、国というものが存在しないのかも知れない。


「それって、名門中の名門じゃないか。とんでもない貴族だよっ」

「ああ、そうだな。そして私は、その家を継ぐ予定の長子だった訳だ」


 ――長子『だった』。


 それを聞いた瞬間、ある程度の事情がレイトンには理解できた。

 今の姿になったことが、継承権はく奪に関わっているのだろうと。


「端的に言えば、この姿は意図せずしてなってしまったものだ。女神の伝承にあった女をクモの姿に変えてしまう呪いとも言うべきか」

「アラクネの伝承、ですか?」

「そうそうそれだ、アラクネ。その呪いを受けてしまったわけだよ」


 イリアスの言葉を受け、肯定するようにうなずくパラス。


「この呪いが厄介なものでね、姿だけでなく理性まで奪ってしまうものだったのさ。おかげで直後は本能だけで人間を襲うようになってしまった」

「そこに居合わせたのが、私なんですよー」


 と、会話に入ってきたのはフローラだった。


「そうだ。私が母に襲い掛かろうとしたとき、客人として招かれていたフローラが間に割って入ってきたんだ。そして次はどうしたと思う?」


 前足でフローラの顔を指し示す。


「歌ってみせたのさ、理性の吹き飛んだ私の目の前で。だが不思議なことにそいつが功を奏してね、彼女の歌で私は理性を取り戻すことが出来た」

「う、歌で理性を?」


 いよいよ自分が世話になっている声楽家が、人間以上の何かなのではないかと疑い始めてしまう。

 理性無きクモの怪物になってしまった人間を、歌でなだめる。

 これだけ聞けば、おとぎ話の一節だろう。


「おかげで私は、協定違反者としてネプチューン派に殺される運命から逃れることが出来た」


 ――失うものも多かったがね。


 最後にそう付け加えたパラスの口調は、どこか寂しさが感じられた。

 後のことは、語られなくても多少は想像がつく。

 クリームト家に置くことの出来なかったパラスを、フローラが預かると提案したのだろう。


「……それで、呪いをかけた方は」

「未だに分からんよ。知ろうとも思わんがね、今更」


 それは、今に満足しているという事だろうか。

 かつて貴族の人生を謳歌していたであろう彼が。


「というのが、私の来歴だ。さぁ、つまらん昔話は終わりにして、さっさと食事を始めようじゃないか」


 話に一段落をつけたパラスが、前足で器用にスプーンを扱い、スープを口に運ぶ。

 味は問題ないのだろう。

 イリアスに向けて軽くうなずくと、彼女もスープを口に運ぶ。

 腕の翼がテーブルに引っかかるが、何とかこぼさずに済んだようだ。


「わぁ、こんな味初めてですよ。おいしいですっ」


 その言葉が建前や嘘ではないことは、彼女の明るい笑顔を見れば明らかだった。


「よかったぁ。私も久しぶりに作ったから、ちょっと心配だったの」

「確かに、一年ぐらい前に大失敗して以来だ。確かレイの誕生日に――」

「あっ、その話は駄目よぉ、パラスちゃん」


 パラスに向けて、フローラがふくれっ面を向ける。

 その様子を見た後、今度はパンをかじるレイトンの方にイリアスの視線が移る。


「レイトンさんは、ここに来て長いんですか?」

「ん、まぁ五年くらいかな」


「あぁ、もうそれぐらいになるね。だがレイは生徒ではなく、先生の弟子と言った方が正しい」

「お弟子さん、ですか。じゃあ、きっと歌もとっても上手なんですねっ」


 イリアスが向ける尊敬の眼差しを前にして、レイトンは苦笑を浮かべてしまう。

 確かに、レイトンの立場はフローラの助手兼弟子と言って間違いはない。

 だが、イリアスが言うように歌が上手いわけではなかった。


「いや、歌じゃないんだ、実は。ちなみに師匠は先生だけじゃなくパラスもかな」


 フローラから、歌以外に教えてもらえることがあるのか。

 それにパラスが師匠とはどういうことなのか。

 彼女の歌に関する評判しか知らないであろうイリアスが、首をかしげる。


「レイ君はですね、バイオリンの演奏がとっても上手いんです。だから、パラスちゃんがレイ君がもっと上手になれるよう、指導しているんですよ~」

「これでも元貴族だ。それくらいなら教えること造作でもなかったのさ」


 が、バイオリンの名前を聞いて、今度は反対側に首をかしげるイリアス。

 考え事をするときの癖なのだろうか。


「名前しか聞いたことないですけど……楽器、ですよね?」

「うん。イリアスちゃんは楽器、好きかい?」


 セイレーンは、人を惑わすときは三人一組で、一人が楽器を演奏していたという。

 だから、楽器が嫌いなわけはないだろう。

 そう思っていたレイトンだったが、イリアスは困り果てたように眉をひそめる。

 まさか人を惑わしたという過去があるから、楽器は嫌いなのだろうか。


「ああ、えと……見たことがないんです。人間の方々に歌を聞かせなくなってからは、楽器もなくなってしまって。もう誰も演奏の方法を知りません」


 イリアスが語る未知の世界の話は、どれも驚きを与えてくれるものだ。

 しかし、音楽に関わる種族であるセイレーンが、演奏というものを忘れてしまった……これは驚きよりも、疑問の方が強い。


 必要ないものが淘汰されていくのは、自然なことなのかも知れない。

 だがセイレーンにとって、演奏というのは必要ないものだったのだろうか。


「まぁ、それは残念な話ですねぇ。セイレーンの皆さんが奏でる演奏は、色々不思議な力を持っていると聞いてましたから」

「ごめんなさい。期待に応えられなくて」


「謝ることではない。そういった文化の衰退というのは、人間にだって起きている」

「そ、そうなんでふぁひっ!」


 そこに突然、イリアスの情けない声が上がる。

 レイトンが彼女の方へ視線を送ると、赤くなった舌を出した涙目のイリアスが。

 どうやら、舌でやけどをしたようだ。


「あらあら、大丈夫ですかぁ? はい、お水」

 テーブルに置かれた水差しから、コップに水を注いでイリアスに手渡す。


「はひがふぉうごふぁ……ふへ」


 コップの水に舌を漬けるイリアス。

 その姿に、悪いと思いながらも笑ってしまうレイトンだった。

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