2-7【神によって分かたれた世界】
空と海は赤く染まり、水平線に沈む夕日がポリュヒュムニアを照らす頃。
オレンジの光が差し込む、花びらで散らかったフロント。
昼間の賑わいはどこへやら。重い沈黙が室内を包み込んでいた。
そのとき、入り口のドアが勢いよく開け放たれる。
「よぉーっ、なんかブロンズィーノのバカが来たらしいが、元気にやって――」
激しいドアベルの音と共に入ってきたのはジェイソンだった。
中にいた全員が一斉にその顔を見る。
瞬間、何故か彼めがけて高速で飛び掛かるパラス。
その鉄より硬い頭部がジェイソンの顔面へ迫る様子が、夕日によって照らされる。
パラスの頭突きをジェイソンは避けられなかった。
鼻先にパラスの頭部が触れ、硬いもの同士が衝突する音が鳴り響く。
ジェイソンの身体が揺れる。
彼の頭部を突き抜ける凄まじい衝撃。
やがてそれは全身に伝わり、衝撃に逆らうことの出来なかったジェイソンは、吸い込まれるように倒れた。
「ああ、その通りだ。だが君はそれ以上の大バカ者だよ」
セイレーン。
それは海鳥の翼を持つ、人とは違う存在。
かつて大陸沿岸を飛び回り、その歌声で船乗りを惑わし食らっていた
そして、カウンター前の椅子に座るイリアス。
腕から伸びるその翼は、まさしく伝承にあるセイレーンのそれだった。
「それじゃあ、ジェイソンさんは海に出ているときに、ちょうど聖域から旅立ったイリアスちゃんを船に乗せてあげたわけですねぇ」
鼻を押さえながら、フローラの言葉にうなずくジェイソン。
そんな異種の存在を前にしても、イリアスの隣に座るフローラの様子は、初めて出会ったときのそれと変わりなかった。
「わざわざ遠いところから……お疲れ様ですねぇ」
「それって軽い調子で言うことなんですか? それに、聖域から来たってことは……」
イリアスの隣に立ち、カウンターに寄りかかっているレイトン。
フローラが口にした【聖域】という言葉に、困惑の色を隠せずにいた。
ソファに座る双子姉妹はレイトンの言葉にうなずき、テーブルに佇むパラスは物珍しそうにイリアスを観察している。
「セイレーン、か。昔話でしか聞いたこと無かったが。っと、すまない。じっと見つめるのはいくら何でも失礼だ」
ずれたメガネを戻すようなしぐさを前足で行いながら、パラスは視線をイリアスの顔に向ける。
「しかしおかしな話だ。君達聖域の住人は【制海協定】によって分け隔てられているはず。それを知ってここまで来たというのかね?」
「……はい」
(それはパラスもじゃないのか)
口元まで上がってきた言葉を、レイトンは飲み込む。
おそらくアリシアやアリスも同じことを思ったはずだ。
それより大事なのは、【制海協定】の方だろう。
この世界に住む者ならば、誰もが知る歴史上の話である。
「君達が絶滅することを恐れた神々が、人間との間に交わした不可侵協定……それを破るということがどういう意味か、分かっているのかね?」
大本の内容は、パラスの語る通りだ。
元々イリアスのようなセイレーンも、沿岸を我が物顔で泳ぐヒュドラも、
あらゆる超常の存在が人間にとって身近な存在だった。
もちろんそれは、人間の命に係わる重大な事態も引き起こす。
これを恐れた人間は、対抗する術を科学という形で模索してきた。
その結果、科学技術の発展と共に、超常の存在との立場は逆転しつつあった。
この世界の生きとし生けるものは、皆神によって作られた。
立場はついに逆転し、超常の者達の衰退を憂いた大洋を司る神は、二つの大陸を隔てる大海の中心に聖域と呼ばれる島々を創り出した。
そして人間には聖域へ近寄ることを、超常の者達には聖域から出ることを禁じた。
それが今から二百年以上前に結ばれた【制海協定】。
神と人間の間で交わされた、古臭い協定である。
「協定を、破っていることは……分かってます」
「でも」とつぶやいたところで、言葉を詰まらせるイリアス。
きっとこれは、協定を破る危険性をよく理解した上での行動なのだろう。
「ふむ。では、セイレーンは生まれつき美しい歌声を持つ妖精と聞く。なのに何故歌を学びに?」
協定違反については、一度置いておくつもりなのだろう。
だがその後の問いにも、イリアスは答えにくそうに眉をひそめ、俯く。
パラスの質問は当然、誰もが気になることだった。
セイレーンと言えば、船乗りを魅了する為の美しい歌声。
それは人間のそれとは比べものにならぬ美しさと伝わっている。
そんな彼女が、何故協定違反を犯してまで、人間の地へやって来たのか。
尋ねられたイリアスは解答に苦慮しているのか、眉をひそめて考え込んでいる。
「パラス、今は旅の疲れもあるだろうしさ。質問攻めは後回しでいいんじゃない?」
パラスの腹部を撫でながら訴えるアリシア。
「それは承知の上なんだがね。まあ、君の言い分ももっともだ」
明日にでも分かることになるだろうしと小声で付け足し、入り口ドアの横に立つジェイソンの方へ顔を向けるパラス。
先ほど殴られた鼻を、冷水に浸した布で冷やしているジェイソン。
だがそれよりも冷たい視線を感じたのか、堅い動きでパラスへ顔を向ける。
「な、何だよ。いきなりどついて来るのはもう無しだからな?」
「黙れ。大体ろくな説明も無しに、この子を一人で街の中歩かせて。もしブロンズィーノなんかに正体がばれたら、責任は取れるのかね?」
「そのときは俺が全力で助けに……いや、ごめん。足は勘べっ」
その言い分に聞く耳を持たず、パラスの頭部がジェイソンの右脛を突く。
「あのヒゲがこの子にとって危険な存在であることは、お前もよく分かってるはずかと」
「ごもっとも」
八つの目線が、うずくまるジェイソンを刺す。
寒気を覚えるほどの怒りのオーラを湛えながら。
そんな二人をよそに、話を聞いていたイリアスの体は少し震えていた。
『こちらは化け物退治を後回しにしてまで来たというのに』
先のブロンズィーノの言葉は、決して見栄や虚勢によるものではない。
彼の主な任務は、制海協定を破った聖域の住人達の討伐である。
人間……特に軍属の中には、自らを【ネプチューン派】と名乗り、制海協定を人ならざる者を狩る免罪符とみなす者達がいるのだ。
特にヒュドラなどの大型種を打倒すことは、彼らにとっての英雄譚として語り継がれる、誉れ高いこととされている。
「いやしかしな。イリアスのこと、フローラさんなら気に入ると思ってよぉ。フローラさんならあの野郎からイリアスを守ってやれるどわっ」
今度は左の脛を、パラスの頭部が突いた。
「他人を頼るな。責任はちゃんと取れ。そもそもフローラにブロンズィーノが止められると思っているのかね?」
「ええ。ジェイソンさんの言う通り、イリアスちゃんのこと気に入りましたよ」
「だ、だろっ! やっぱさすがだなフローラさ……痛い痛い、つま先を踏むなっ」
パラスに蹂躙される情けない父の姿。
それを前にして、双子姉妹が全く同じ呆れた表情で、ため息をつく。
「まぁ、あたしもイリアスはいい子だと思うなぁ。何よりさっきの慌て方、可愛かったし」
「アリシア、失礼だよ」
情けない父親から目線を離し、イリアスに笑顔を向けるアリシア。
困った表情のアリスもきっと同じことを思っているのだろう。
口元がわずかに微笑んでいるように見える。
皆の様子に少しだけ緊張がほぐれたのか、照れくさそうに顔を赤くするイリアス。
隣に座るフローラが、微笑を浮かべながらイリアスの顔を覗きこむ。
「そうですね。だってイリアスちゃん、なんだか昔のレイ君に似てますから」
そっと、膝に乗せられていたイリアスの手を包む、フローラの白く細い手。
皆の様子を困った表情で見ていたレイトンだったが、予想していなかったフローラのその一言に、思わず目を丸くし、声を漏らした。
一体どこが似ているのだろうか。
確かに五年前、初めて自分がここに来たときも一人ではあったが。
似ている状況に見当がつかないが、フローラの口調は自分とイリアスに共通点がある。そう言いたげだった。
「イリアスちゃん、住む場所の当てはありますか?」
「え? いえ、それは後で考えるつもりで」
「それでは決まりですね。パラスちゃん、レイ君」
二人へ交互に向けられる、フローラの笑顔。
『パラスちゃん。今から屋根裏のお部屋、片付けましょうか』
それは、五年前に聞いた言葉と変わらぬ調子だった。
自分を受け入れてくれた、あの暖かい言葉と。
無一文で音楽の才もない自分に、住み込みの手伝いとして一緒に住もうと言ってくれた、その言葉。
「まぁ、構わんさ。同居人が一人増えるぐらいは。それに」
飽きれ調子のパラスが言葉を続ける。
「私とて、世間を知らぬ少女をむざむざとブロンズィーノの手に渡すような真似は、真っ平御免でね」
それでもフローラの提案に同意するパラスの姿も、五年前のあの時とほとんど違いなかった。
「えっ! で、でもそんなっ、お金も学費分くらいしか……というか足りるのか……」
「それならうちで働いちゃいなよ。宿屋兼酒場なんだけどね、まぁ裏でアリスの手伝いしてればばれないし。ね、いいでしょパパ」
急に話題を振られたジェイソンが、困った様子で後頭部を掻く。
「ん、あ、あぁ。まぁな。でもあいつがなぁ」
「ママなら大丈夫っ。きっとイリアスのこと気に入るって。あ、イリアスって料理問題なし? それから~……」
「一度にたくさん聞くのは……あ、イリアスちゃん。私はいいよ?」
と、オルペウス一家のあわただしい提案。
だが、イリアスはやや混乱しているようだ。目を丸くし、首をかしげている。
「何だか、とても賑やかになりましたね。ね、レイ君」
そう言って、今度はレイトンの顔を見上げてくるフローラ。
確かに賑やかだ。
先ほどまでの暗い空気もすっかり消え、全員の顔に笑いが満ちている。
そして自分はどうだろう。
昔の自分に似ていると言われ戸惑いもあるが、それでも口元には笑みが浮かんでいる。
――ポリュヒュムニアは、こういう町なのだ。
海を隔てた協定を気にせず、危険さえなければ来る者を拒まない、辺境の港町。
そして、自分もその町で暮らす一人の住人。
生まれた土地を失ったレイトンにとっての、新しい故郷。
「そうですね」
フローラの問いかけに、笑顔で答える。
今度は、レイトン自身が誰かを受け入れる番なのかも知れない。
皆の様子を前に、相変わらずまごまごするイリアスを見つめる。
「で、でも私、人間じゃないから。あまり表に出ると、迷惑が……」
レイトンの言葉を聞き、イリアスが彼の顔をうかがう。
「同じ空の下で生まれたなら、それでいいんだって。それがこの町の考え方なんだよ」
その言葉に何を思ったのだろう。
慌てふためいていたイリアスが、落ち着きを取り戻す。
親子会議を始めるオルペウス一家と、その姿を横目で見つめるパラス。
そして、イリアスの隣で微笑を浮かべるフローラ。
皆の顔へ、順番に視線を送るイリアス。
そして最後に、隣に立つレイトンへと、顔を向けてきた。
「何もない田舎だけど、そういうのっていいと思う。俺は」
心から、そう想う。
そして五年前のこの人達のように、今度は自分が誰かを受け入れる番が来た。
「レイトン・アポロドロス。よろしくね、イリアスちゃん」
イリアスに向かって、右手を差し出すレイトン。
皆のように、素直に受け入れられるかと言ったら嘘になるかもしれない。
自分とは違う存在に、一抹の不安を抱いているかもしれない。
遠慮がちにレイトンの手を取った、イリアスの小さな両手。
誰もが持つぬくもりと、素肌の感触。
そして、わずかに当たる羽毛が少しくすぐったい。そんな少女の手。
それが与えてくれる安堵感に比べれば、自分の不安など些細な問題に過ぎないのかも知れない。
「よ、よろしくお願いします。レイトン、さん」
そう言って挨拶を返すイリアスの顔は、恥ずかしそうにはにかんだ、可愛らしい笑顔だった。
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