2-3【音楽教室の日常】
海沿いの旧住宅街。その中の赤い屋根の家。
【ファンレイン音楽教室】
田舎の港町には分不相応であるそれは、今日も変わらずそこにあった。
今ではここがレイトンの仕事場。そして居候させてもらっている家だ。
「ただいま」
アリスの小さな声と共に、ドアが開いたことを知らせるベルが、室内に鳴り響く。
正面玄関から室内に入ると、やや広めのフロントが出迎える。
フロントを進んだ先の左手には受付カウンターと、右手には教室へ続くドア。
その間を隔てるように、建物の奥へ続く廊下がある。
カウンター近くの壁には、ポリュヒュムニアの商店に関係する広告や、
教室の時間割が掲示板代わりに貼られている。
「あ、おかえりなさぁい」
廊下の奥、二階の居住スペースへ繋がる階段から足音を立てて降りてきた女性。
この教室の主であるフローラ・ファンレインが、三人を出迎えた。
地味なロングスカートのドレスに、フリル付きの白いエプロンを着込んだ姿。
床に届くギリギリの高さを保つ長い銀髪を揺らし、右手に木のお玉を持ちながら、レイトン達の前へ歩み寄る。
厚手のドレスからも分かるほどの、女性として恵まれた体型。
まるで天使が背負った翼を連想させるその髪は、相変わらず重さを感じさせぬ不思議な雰囲気を持っていた。
「ただいま先生っ。お玉なんて持って、ご飯作ってたの?」
いち早く彼女の前に歩み寄り、笑顔を向けるアリシア。
「ええ、お野菜とお魚がありましたから。それでスープでも」
穏やかな笑顔を浮かべる彼女に似合う、のんびりとした口調。
その喋り方は少々浮世離れした性格故のもので、時に人を和ませ、時に困惑させる。
さて、今回の場合はどうだろう。レイトンは、すでに苦笑を浮かべている。
「えと、先生。料理はいいんですけど、さっきまで何をしてたんですか?」
「さっき、ですか? ちょうど鍋に火をかけていたところで、そろそろおいしく」
その言葉とほぼ同時に、上階から黒い物体が階段を飛び降りてくる。
「フローラ、火を使っているときにその場を離れるとは何事かね?」
そう言ってフローラの頭に着地してきたのは、ファンレイン音楽教室のマスコット……らしきクモ、パラス。
どこを見ているのか分からない、真っ黒な八つ目。
だがそれは確実に、フローラを睨みつけているのが分かる。
その冷静な口調からは似合わない怒りの感情が、ひしひしと伝わってくる。
「あっ、パラスちゃん。楽譜の整理終わったんですかぁ?」
「楽譜は関係ないだろう。それより私は言ったはずだ。料理をするときは常に厨房を離れず、と。ただでさえ君は料理音痴で困るというのに、もっと細心の注意を払いたまえ。あと、料理とは関係なしに火を使うときには――」
「え、あ……うぅ、今すぐ火を……」
「そんなものは既に私が止めた。それより君には言わなければならないことが山ほどあってだな」
パラスが放つ言葉の暴風雨を浴びせられ、体を縮めるフローラ。
パラスの口調は感情の読みにくい事務的な雰囲気を持つが、聞いているだけで追いつめられた気分に陥ってしまう。
涙目のフローラを叱るその姿は、彼女の父親か何かのようにも思わせる。
「あーあ、また始まっちゃったよ。お兄ちゃん、どうしよ?」
やる気のなさそうな声で尋ねてくるアリシア。
アリシアの態度も理解できる。いい加減皆この光景は見慣れたものだ。
マイペースで不注意の多いフローラを、パラスが叱るというのは。
そして、こういう時助け舟を出すのは、大体レイトンの役目である。
「あの、とりあえず昼食にしない? なんだかお腹が空いて」
そう言って、レイトンが間に割り込もうとするも、黒目を鋭く輝かせた顔を向けられると、何も言えなくなってしまう。
笑顔で硬直するレイトンに、フローラは救いの眼差しを向ける。
「あの、えー……封筒、先生の机に置いておきますね」
だが、その救いに応えることは出来なかった。
フローラの悲しそう視線を受けながら、カウンター奥の事務室へ逃げ込む。
奥に窓が一つ。両側の壁には書類のまとめられた大きめの棚が一つずつ置かれ、
それらの間に木製の机が三つ。
その中でも一番物の少ない窓側の机がフローラの席だ。
普段から机を使う機会が少ないため、やたらと綺麗だ。
ブックエンドに挟まれた数冊の本や資料。
そして何かしらのメモが書かれた紙程度しか置かれていない、彼女の机。
そこに革封筒を置き、フローラ達を横目にフロントへ戻る。
「レイくぅーん……」
今にも泣きそうなフローラの声。
同居を始めてから間もなく、彼女はレイトンのことをこう呼ぶようになった。
「いちいちレイにに助けを求めるな。君は保護者だろうが」
まだまだ続く、パラスのお説教。彼もフローラと同じ呼び方をする。
だがそれに割り込むように、入り口のドアをノックする音が、室内に響く。
その場にいる全員の視線が、ドアへ向けられる。
同時に、先ほどまで眉をひそめておびえていたフローラが笑顔で立ち上がった。
脱いだエプロンをお玉と一緒にカウンターに置き、やや早足でドアへと歩み寄る。
この変わり身も相変わらずなのか、パラスも彼女の頭から下り、ため息をつく。
「はいはいー、今開けますねぇ」
陽気な言葉を口にしながら、ドアノブを回し、その手がドアを引く。
ベルの音と共に、ゆっくりと開かれるドア。
フローラの背中越しに見える外の様子を見て、レイトンは思わず声を上げた。
間違いない。あの時の外套を纏った少女が、そこにいた。
遠目では分からなかったが、年齢はアリシアやアリスよりも年下だろうか。
身長は小さく、前髪でわずかに隠れているが、童顔でぱっちりと開いた目が特徴的だ。
「あ、え、あのっ、おお、おはようごじゃっ!」
外套の少女のたどたどしい挨拶。
あわてた様子で頭を下げた拍子に舌を噛んだようだ。
頭を下げたまま、自分の口を押さえて震えている。
この登場に、フローラを除く全員が、呆然と見つめるしかなかった。
「まぁ、大丈夫ですか? 喋るときはゆっくり、落ち着いて喋りましょうね」
「ふぁい……はふぅ」
しゃがみ込んだフローラが、少女の肩に手を添える。
その後、ゆっくりと顔を持ち上げた少女。
――綺麗な金色の瞳だ。
外国人というものにそれほど馴染みのないレイトンだが、その瞳の色は珍しいものだと理解できる。
深みのある金色。それに心を惹かれるような、そんな感覚を覚えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます