1-2【海沿いの音楽教室】

 階段を上った先の右側には、海側へと緩やかに下る石畳の街路があった。

 街路を抜けると、腰ほどの高さの堤防に沿って伸びる通りに出る。


 周囲の住宅に人の気配がある建物は少ない。皆仕事場へ向かったのだろう。

 そんな通りの中程に一軒だけ、レイトンの目を惹く赤い屋根の建物が見えた。

 角地に建つその建物は他と同じ白い外壁で、海側の通りに面した玄関前に三段の短い階段がある。

 そして、深い青色で塗られた木製のドアには、【ファンレイン音楽教室】と書かれた看板がかかっている。


「……こんな田舎に、教室?」


 音楽教室と言えば、金持ちの多い都会にあるようなものだ。

 控えめに言っても辺境の港町にあるとは、にわかに信じられない。


 陸側に進む路地に沿った壁の、開け放たれた窓に目が行く。

 レイトンは若干の申し訳なさを感じながらも、湧き出た好奇心を抑えられずに、

開け放たれたそこから室内を覗き込んだ。


「はぁい、二人とも素敵でしたよぉ」


 ピアノの前に、水色の地味なドレス姿の女性が座っていた。

 すっと綺麗な線を引いたような鼻と、穏やかな印象を与える細い垂れ目が印象的な美しい容姿。

 女性らしい豊かなスタイルは、年頃のレイトンには気恥ずかしさを覚えてしまう。

 そして何より特徴的なのは、彼女の髪型。

 足首に届きそうなほど長い銀髪は、自ら光を放つかと錯覚するほどの美しさだ。

 彼女はその髪を揺らしながら、二人の生徒に笑顔を見せていた。


「アリシアちゃん、昨日教えたことをもう覚えちゃったんですねぇ。偉い偉い」

「ふふーん。あたし、おねえちゃんだもんっ」

「同い年だよ、わたし達」


 生徒の方に目をやると……驚いた。青い瞳が印象的な、同じ顔が二つ並んでいる。

 一人は、海賊旗を思わせるドクロマークのワンポイントが付いたバンダナを、

金髪ツインテールの上に巻いた童顔の少女。

 もう一人は、髪色は同じ金髪だが、ドクロ型の髪留めでポニーテールにしている。

 その小柄な二人は、明らかにレイトンよりも年下だろう。


「あたしの方が先だってお母さん言ってたしー」

「最初に喋ったの、わたし」


 よくわからない意地の張り合いを始めていた。


「ふふ、アリシアちゃんもアリスちゃんも、もう立派なお姉さんですよ?」


 視線を自分の足元に移すレイトン。


 ――ちょっと辛いかも知れない。


 その光景に、家族の墓を作ったときの光景が重なる。

 寡黙だが、決して自分を邪険にしなかった父。

 自分と妹達をいつも見守ってくれていた母。

 あの双子のように明るく笑っていた妹達。

 窓越しにあったのは、そんな過去の日常と同じ、穏やかな時間だった。


 これ以上この場所にいると、本当に心が持たなくなるだろう。

 早くここから離れよう。今にも泣きそうな顔を上げるレイトン。


 …………クモだ。窓枠にクモがいる。

 人の頭と同じくらいのクモの顔と鼻を突き合わせている。


「貴様、何をしている?」


 口らしき場所を動かした。喋っている、人の言葉を。


「え?」


 気付けば、室内にいた三人も、こちらに顔を向けていた。



                  ●



 睨まれている。クモに。喋るクモに。


 クモは目の前の丸いテーブルに鎮座している。

 当然表情など読み取ることは出来ない。

 頭部より一回りは大きいだろうか、丸まった成猫を思わせる黒い腹部。

 全身に走る血のように赤い模様は、自分が毒グモであることを示しているようだ。


「あの、その……」


 クモの前に座らされたレイトンは、どう言葉を紡ぐべきか分からずにいた。


「先生、この人誰?」


 バンダナの子が、怪訝そうな表情をこちらに向けている。

 ポニーテールの子は、先生と呼ばれた例の女性の後ろに隠れている。


「ん~。地元の子ではありませんよねぇ?」

「は、はい。あの、すみません。すぐ帰るのでその……」


 きっと、クモのことは公言すべきことではない。

 見たことは全て忘れると言葉を付け足そうとするも、舌がうまく回らない。

 そんな様子を見て、クモがふむと言葉を漏らす。


「フローラ、もしかしたら例の診療所に運ばれたという子供ではないか?」

「診療所? ああ~、きっとその方ですねぇ」

「エリシオンからの難民とのことだったな。なるほど」


 クモの顔が、こちらを覗き込む。

 八個の黒々とした目からは、感情や思考など読み解けるはずがない。


「少し見た目は怖いと思いますけれど、大丈夫ですよ。少し周囲への警戒心が強いだけですから」


 大丈夫と言われても、巨大なクモを前にして気を許すことなどできるものか。

 しかしフローラと呼ばれた女性は、初めて見た時と変わらぬ笑顔を浮かべて話しかけてくる。


「もしかして、音楽に興味がありましたか? それならせっかくですし、見学していってください」

「え? あ、いや。俺……」


 国境の農村に住んでいたレイトンにとって、音楽など祭りのとき以外触れる機会がほとんどないものだ。

 その時に聴くものも場の高揚感を高めるための即興だろう。

 少なくとも、このような教室で教わる整然としたものではないと思う。


「音楽とか、よくわからないんで……すみません」

「あらあら、そうでしたかぁ」


 そっけないレイトンの反応に、穏やかな口調で言葉を返すフローラ。


「では、なおさら聴いていってもらわないとですね」


 その穏やかさに反し、なかなか我が強いのかも知れない。

 首をかしげるレイトン。


「先生、歌うの? あたし先生の歌聴きたいっ」

「わたしも。歌って、先生」

「フローラの歌はいいものだぞ、少年。聴いていくがいい」


 フローラが歌うというそのことだけで、場の空気が一変する。

 先ほどまで不審者扱いだったレイトンが、完全に観客の一人にされているようだ。


 こうなると、逆にその場から去ることなどできないだろう。


「は、はい」


 きっと、口は半開きになっていただろう。

 自分でも間抜けだと思うような返事を、目の前のクモに返していた。

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