歌を忘れたセイレーンに、歌を教えて何が悪い?

蕪菁

第一幕【ある古傷の話】

1-1【傷にまみれても】

 擦り傷の焼けるような感覚。靴擦れの鋭い痛み。

 両親や妹達も傍になく、気付けば何もかも分からなくなっていた。

 それでも、レイトン・アポロドロスは戦禍から逃れようと必死だった。


 兵士の怒号も、教会が鐘ごと崩れる音も、焼ける家々が放つおぞましい光も、もはや遥か遠く。

 今走っているのは草原なのだろう。

 背の高い雑草が、破けたズボンから覗く肌を切りつける。

 故郷を逃げ出して二日は経ったか。霞む眼前に広がるのはオリーブ畑にも見える。


 既に自分がどこにいるかもわからない。

 分からないが、ぼやけて見える灯りは果たして町だろうか。


「おい、お前っ。こんなところで……って、どうしたんだそりゃあっ!」


 声の主の姿は、よく見えない。

 ベルトに下げているのであろう金具の鳴る音が近づいて来る。


「……やめ、て。助け……」

「ああっ。ああ分かってる! 今助けてやるから喋るなっ!」


 声の主が、傷ついた体を力強く抱えてくれる感触が伝わる。

 その瞬間、張り詰めていた意識はぷつりと途切れ、全ての音が遠くなっていった。





「国境を越えてきたそうだぞ。ほら、あそこの」

「ああ。かわいそうに」


 聞き慣れない男達の声で、意識が覚醒する。


 次にレイトンが目が開いた時、そこにあったのは木目の天井だった。

 柔らかい清潔な布の感触と、消毒液諸々が混じる薬の匂い。室内は日光で明るい。

 自分の体が診療所のベッドの上にあるということに、ようやく気が付いた。


 先ほどの声は、右手にある大きな窓から聞こえたものだった。

 こちらを覗き込む二人の男が、自分のことを話しているようだ。


「おお見ろっ! 先生ーっ、子供が目ェ覚ましたぞー!」

「こら野次馬ども、あんまり騒がしくするな。そうか、意識を取り戻したか」


 口とあごの立派なひげが特徴的な中年の男性が、ベッド脇に立ちこちらを覗き込む。


「僕はこの診療所の医師でね。ああそのままでいい、二週間も眠っていたんだから」

「ぁ……」


 お礼の言葉は、言葉にならないかすれ声にしかならなかった。


「事情は大体聞いているよ。隣の国で酷い内乱が起きたそうだね」


 悲しみをたたえた眼差しを向ける先生を見て、自分が戦火を逃れてきたことを察してくれたのだろう。

 そして自分が逃げ込んだ場所が、隣国アテナイ王国だったことを知る。


「今後のことで不安に思うかもしれないが、まずは体を治すことから始めような」

 レイトンの肩に手を乗せる先生。


「……よく、頑張った」


 気が付けば、窓からこちらを見ていた二人の男が泣いている。先生の言葉にもらい泣きでもしたのだろうか。

 しかし、自分に向けたその感情に対し、レイトンは何も感じることは出来なかった。

 逃げ切った。逃げ切ってしまったのだ、たった一人で。

 そこに希望を見出すことなどできるものか。

 心が、メデューサにでも睨まれたかのように、完全に固まり切ってしまっていた。



                  ●



 三日後、レイトンは医者の許可を得て、港の前を歩いていた。

 診療所からここまでは、いくつかの階段を下りてきた。

 階段の多い、崖沿いに張り付くようにして造られた港町。

 傷ついた体で出歩くには、少し苦しい地形だ。


 まるで内乱などなかったかのような平穏。

 突き抜けるような南国の青空と、照り付ける太陽。


(……少し、休憩しよう)


 日射病になっては元も子もない。

 レイトンは近くの木陰が差す階段に腰を下ろし、眼前に広がる海を眺める。

 大陸から見る青色の外洋は、どこの土地でも変わらず穏やかでありながら、

人間が決してまたぐことの出来ない国境線のようだった。


 先生に教えてもらったことを思い出す。

 ポリュヒュムニア、それが町の名前。

 いびつで巨大な半円という形状のイカリア湾。その北側湾口付近に切り立つ、灰色の崖を切り崩して作られた大陸東端の港町だ。


 階段状に作られた町並みは、海から見ると城塞のような堅牢さを感じさせる。

 目印は崖の上に立つ、わずかに傾いた石造りの見張り台。

 それの傍にある兵舎の屋根では、いつも青空をバックにアテナイ王国の国旗がなびいている。

 混乱の中、自分は故郷のエリシオン聖王国との国境を越え、この閑静な港町まで歩いてきてしまっていたらしい。


(この国の役人にばれたら、どうなるのだろうか)


 一抹の不安がよぎる。

 エリシオンとアテナイは、極めて険悪な間柄だ。

 自分はれっきとした難民だが、受け入れてくれるかどうかは別問題だろう。

 だからと言って、既に帰る場所は残されていない。

 故郷の村は焼かれ、家族も誰一人生き残っていない。


 逃げる直前のことを思い出す。両親と妹達の遺体を埋めていたこと。


(……ダメだ)


 あまりにも絶望的じゃないか。生きる希望が一気に失われていく。

 先生はお金のことは気にしなくていいと言ってくれているが、厚意に甘え続けることなどできるはずもない。


 歳は十四。農家の長男ならば、そろそろ家業を本気で手伝うくらいはする年齢だ。

 逆に言えば、自分にはその程度のことしかできないのだ。

 両親のおかげで最低限の読み書きは出来るが、それが特筆した能力と言えるかは疑問だ。

 では、それしか能のない自分が、身寄りもいないこの状況から自立することなどできるのか?


(考えれば考えるほど……うん、ダメだな。俺)


 自分には何もないことを気付かされ、絶望する。

 いや、絶望する気力も残されていなかった。

 じゃあどうすればいい? 自ら命を絶つことだって、見ず知らずでありながらも治療を施してくれた先生を裏切ることになる。

 今日まであまりにも何も考えずに生きてきたことを、今になって後悔する。


 ――せめて、先生にできる限りのお礼をしよう。そしてすぐにこの町を出よう。


 行く当てもないが、自分にはそれしか出来そうにない。

 ちっぽけな覚悟を決めながら、その場から立ち上がるレイトン。

 その時、潮風と共に聞き慣れない音が耳に入ったことに気付く。


「……ピアノ、だっけ?」


 過去に町で一度だけ聞いた記憶のある、その楽器の名前を口にする。

 その音が聞こえたのは、階段を少し上った先にある路地の向こうからだった。

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