セントルイスの切望



『2045年4月20日』







「ところでお兄ちゃん、いつになったら童貞卒業するの?」


「おーう。そのうちな、そのうち」


 とある昼休み。双子の妹である大和信濃しなのとともに彼女の手作りお弁当をつつく武蔵は、死んだ目で生返事を返した。


「あまり女の子を待たせちゃダメだよ。アリアちゃん、悲壮な覚悟を完了してるんだから」


「悲壮なんだな」


「そりゃそうだよ。初めての相手がウンコなんて悲劇以外の何物でもないよ」


「せめて生物に形容してほしかった」


 ちらりとアリアを見やる。

 彼女は既に昼食を終え、航空機関連の本を読んでいた。


「あんなに勉強熱心なのに、それを蔑ろにするご主人様まじ鬼畜だね!」


「ご主人様いうな」


 武蔵はこっそりと本のタイトルを読む。

 『空を追い求めた偉人達 〜モンゴルフィア兄弟からツェッペリン伯爵まで〜』。

 技術系というよりは歴史系の本のようだが、順を追って勉強を重ねるのは悪いことではないと武蔵は思う。

 一つ指摘するのなら、サブタイトルから察するに軽航空機気球・飛行船関連の書籍であって重航空機飛行機中心の空部とはあまり関係がないのだが、武蔵は関わりたくないのでスルーすることにした。


「部活動では普通に接してるんでしょ?」


「ああ。ちゃんとフツーに雑に扱ってるぞ」


「お兄ちゃんってハーレム志望なのに据え膳拒食のインポだよねぇ」


「妹が下ネタ上等に育ってしまってお兄ちゃん悲しい」


 何時の頃からこんな子になったのだろう、と武蔵は双子の妹について思い出を辿る。


「小さい頃のお前は、もう少しまともだったと記憶しているんだがな……天真爛漫で無邪気な子だったのに」


 武蔵は走馬灯のように思い返す。

 無邪気にモンキーバナナを握り、『お兄ちゃんのより大きい』と嘲笑の視線を向けてきた信濃。

 小学校高学年の頃、まだ合法だイケるイケると銭湯の女風呂に兄を連行しようとした信濃。

 生産性も発展性もないくせに何がハッテン場なのかを調べるべく、兄を公園の便所に送り出す信濃。


「…………。」


 割と幼少から残念だった。


「そうはいってもな、どこでヤルっていうんだよ。ラブホとか入り方知らんぞ、年齢確認とかないのか?」


「あの部室秋津洲ならいくらでも空き部屋はあるでしょ? あとラブホに年齢確認はないよ。学生服で行っても『コスプレかなにかだろう』って従業員もスルーするから、だいじょーぶ」


 サムズアップする信濃。何故知っている、という疑問を武蔵は飲み込んだ。

 そんな同い年の兄の様子に何を勘違いしたのか、慈しむ目で武蔵を見る信濃。


「しょうがないなあ、デート前に予行練習で私とラブホ行ってみよ? 本番で女の子に恥をかかせられないからね!」


「お前とラブホ入ったら逆レイプされそうだから断る」


「大丈夫だよ! ちゃんとお金は取るから!」


「金銭的やり取りがあれば合法ってわけじゃないぞ!?」


 やんややんやと、騒がしく昼休みを過ごす兄妹。

 周囲の男子は、信濃のあまりに無茶苦茶な言動にドン引きしていた。


「さっきから聞いてれば、なんだあの妹の方……?」


「下ネタに躊躇いがないぞ、美少女の皮を被ったオッサンか?」


「見ろ! 弁当のウインナーをジュボジュボ吸って食べている!」


 武蔵の妹、信濃は文句の付け用のない美少女である。

 10人中11人が可憐と形容するであろう、絶世の美少女である。

 加えて成績優秀、スポーツ万能。更に両親が赴任で不在の大和家において、家事一切を嫌な顔一つせず率先して引き受ける完璧美少女である。

 だというのに、この愚昧の性格は致命的に破綻していると武蔵は確信していた。


「ファック! アタックファックだよお兄ちゃん!」


 どうにも、頭のネジが30本ほど飛んでいるとしか思えない言動。

 長く時間を共有している武蔵にはその真意が測れぬわけではないのだが、それにしたって酷い。

 頭痛を堪えるように目を閉じて唸ると、さすがの信濃も不安げに顔を覗き込む。


「お兄ちゃんちょっとお疲れ? なら私の膝枕で休みなよ。いつもみたいにスカートに顔突っ込んでいいから」


「そんなことやったことねぇよ!? ―――ないからな!」


 不審者を見る目で兄の方を見やる周囲のクラスメイトに、必死に弁明する武蔵。

 その視線の雨の中に、アリアのものもあった。


「あっ! アリアちゃんが見てるよ! こんにちはー! お兄ちゃんの童貞を宜しくお願いしまーす!」


「は、ハイ……マカセテー」


 アリアはアリアで、死んだ目で震えていた。


「避妊はしないと駄目だよ、アリアちゃん!」







 昨今の日本の空は、昔より少し騒がしい。

 昔から東側諸国の軍隊ではお馴染みであった、タンデム式回転翼の大型輸送機チヌーク。度重なるバージョンアップの度に性能を向上させてきた輸送ヘリは、17世紀中盤から続く短距離旅客輸送の最前線へと駆り出されることとなった。

 学校からほど近い巨大なヘリポート。安全の為ローターを停止させたチヌークに、帰宅せんとする大勢の学生が乗り込んでいく。

 このヘリコプターは、現代において実用化された空中を周るバスである。

 巨大な二組のローターのせいでやたらと大きく見えるが、機体の大きさも乗員数も大型バスとさして変わらずやはり大きい。のっぺりとしたシンプルな外見から写真だと小さく見えがちだが、実物だとかなり巨大なヘリコプターだ。

 搭乗可能数は地上のバスと変わらず、交通事故など外的要因がなくなったことで安全性はむしろ向上した。移動速度は言うまでもなく倍増だ。

 だがいいこと尽くめではない。地上を走るバスと違い、乗り遅れたからといって走って追いかけて止まってもらうわけにもいかない。その為学生達はヘリポートまで懸命に走る。

 その中に、放課後の部活(という名のお茶会)を終えた武蔵とアリアの姿もあった。


「アリア、早くしないと離陸するぞ」


「待って、待って下さい。乗るのですー!」


 どうにもチビッコなアリアは足が遅い。武蔵はアリアを待つこともせず、さっさと空中バスに乗り込んでしまう。


「時間節約の手段が発展するほどに、人からは時間的余裕が失われる―――よく言ったもんだ」


 誰の格言だったかも思い出せないが、ふと武蔵は独り呟く。

 結局は気の持ちよう、まだ最終便でもないのだから乗り遅れたなら次のバスを待てばいいのだが……何故かそうはさせてくれないのが、現代の社会というものだ。


「日本の男の人って紳士レベルが足りないと思いませんか?」


「ん、隣座るのな」


 当然のように隣の席に腰を降ろすアリアに、こいつともなんだかんだで仲良くなってきてしまったと感じる武蔵。


「まったく、これだから男尊女卑の国は」


「何を言う、俺は男女平等主義者だ。だから手伝わんし待たん。甘えるな」


「非差別主義者なら私を奴隷身分から開放して下さい」


「それは正当な報酬だからだめ」


 手を出す度胸はないが、得た魚を逃がすつもりもない武蔵である。

 最後にアリアが搭乗したことで、チヌークの後部ハッチが閉まりローターが回転し始めた。

 頭上をぴゅんぴゅんと回転する巨大なローター。回転数こそ扇風機より遅いが、ブレード一枚一枚の規模質量が段違いなのでかなりの重量感を見る者に感じさせる。

 そんな空を切るブレードを側面の窓から見上げ、アリアはふと疑問を感じた。


「ヘリコプターって、エンジンをアイドリングしてなくてもいいんですか?」


 空部での経験から、飛行機のプロペラはそうそう止められないと学んだアリアが訊ねる。


「いいわけ無いだろ。昔のヘリなら、地上でもローター回しっぱなしだ」


「今のは違うのですか?」


「最近じゃ自動車も航空機も、形式こそ違えど電気駆動だからな」


 何故電気駆動だと着陸時にローターが止まるのか、未だ納得していないアリアに更に説明する。


「航空機のエンジンがアイドリング状態を維持するのは、小型強力な内燃機関だと簡単に出力調節出来ないからだ」


「何故?」


「そういうふうに出来てないからだよ。とにかく強力に、そして軽量に設計されたエンジンだ。性能がどこか犠牲になるのは当然だろ?」


 かなり省いた解説だが、あながち嘘でもない。

 WW2第二次世界大戦の頃の航空機ですら、レシプロだというのに出力の急激な加減速に対応出来るようには設計されていない。ましてターボシャフトやターボプロップとなればなおさらだ。

 そこまで詳しく説明したわけではないが、性能と使い勝手がトレードオフとなる、という理屈は初心者のアリアにも判りやすかった。世の中の多くのものは、高性能だと対価として扱いにくいのである。


「じゃあ何かを犠牲にすれば、簡単に出力調節出来るエンジンも作れるのですか?」


「自動車のガソリンエンジンなんてその典型だろう。信号や一時停止中にフルスロットルのままアイドリングする車なんてほとんどない。あれほど出力調節がしやすいエンジンはない」


 この自動運転が普及した時代で、運転免許をとって自動車を自ら操る者は少ない。

 更にガソリン車のオーナーとなれば、まさに絶滅危惧種だ。

 そんな希少な存在となった彼ら運転手だが、自動車の運転手がガソリン自動車のエンジンを操りにくいと思うことはほどんどない。

 だがそれは、本来ありえないことなのだ。気化した可燃性油の燃焼圧力を回転運動に変換する装置などという粗野で乱暴な機械が、自由自在に出力を制御出来るはずがないのだ。

 出来ないはずの制御を可能とする為に自動車の駆動系に盛り込まれた技術の数々は、まさに自動車が普及した20世紀のエンジニアリングの結晶を言えよう。

 ようするに、ガソリン車のエンジンは一般人が思うよりはるかに凄い物なのだ。


「ほとんど?」


「例外だから気にするな」


 常時高出力で回転し続けるエンジンを、しかも究極の重量車両である戦車に積み込んだ国があるのだが、まさしく例外である。


「だが電動だと出力を簡単に制御出来る。小学生の頃に、模型の車で電気の性質を習っただろ?」


「私の国では下半身が車輪の人形でしたが」


「何それキモいさすが変態の王国。とにかく、電動っていうのはガキですらスイッチ一つで制御出来る、超安全超簡単なシステムだ。子供にも制御出来るんだ、専門家なら安全確保の為に着地中はローターを止めるくらい、ちょちょいのちょいだよ」


 パワーウェイトレシオ推力重量比はエンジンの方が未だに上。故に、軍用や競技用の航空機では今も化石燃料が使用されている。

 しかし、維持費・整備性・制御面は電動の方がずっと上なのである。


「まあなんとなく解りました。古い技術は新技術に淘汰される、まさに盛者必衰なのですね」


「言っとくが電動の方が先に発明されているからな? 何せ簡単だし」


 内燃機関、ガソリンやディーゼル自動車中心の時代を生きた人々には信じがたいことかもしれないが、18世紀終盤の自動車黎明期には電気自動車が世界的主流になったこともあるのだ。


「今後の展望はどうなのです? 化石燃料機関に生き延びる術はあるのですか?」


「判官贔屓おつおつ。まあ正直、俺もよくわからん。宇宙開発分野ですら、リニアエンジンってのが化学ロケットエンジンを淘汰してしまっている」


 リニアエンジン。2030年頃に開発された、新世代の宇宙用エンジンである。

 極単純にいえば、ロケットエンジンに匹敵する出力を可能とするイオンエンジンといえる。厳密にいえばまったく別物だが、電力で推進剤を噴射するという点では共通だ。

 高い出力と低燃費を実現したこのエンジンは、この時代の宇宙船の主流機関である。

 結局依然として推進剤に依存しているものの、この新型エンジンによって宇宙開発は飛躍的に加速した。既に太陽系を脱出したボイジャーやパイオニアは後続の探査機に追い付かれ、そのミッションを真の意味で終えているほどだ。


「現状、超音速戦闘機は未だにジェットエンジンの独壇場だ。とはいえ軍用ですら超音速がさほど有り難がられる時代ではない。それにスーパークルーズ超音速巡航を電力で可能とする時代がくるかもしれない」


「ああ、また判らない単語のカーニバルです」


「―――なるほど、諸行無常だな」


 エンジンの音、轟々と。若人は征く、雲の果て。

 武蔵は大出力レシプロエンジンなどという、今時ネタにしかならないような爆音が嫌いではないのだ。

 更に言えばジェットエンジンの音速を超えた噴流音も、ベアリングと遠心力の限界に挑むようなタービンブレードの風切り音も。

 嫌いなはずがない。何せ、彼もまた男の子なのだから。

 ……されど機械は時代が進むにつれ、何故かシンプルな構造となり静音性も増してゆく。

 今二人が乗っているチヌークとてそうだ。ローターは微かな過擦音のようなものしか生じさせず、エンジンなんてそもそも積んでいない。

 根本的に、エンジンの爆音など無駄に空気振動へと変換されたエネルギーロスに過ぎないのである。


「おっ、浮かびましたよ! 飛んでますよ!」


「航空機だからな」


 ヘリコプターといえど、仰々しい振動や轟音があるわけでもない。

 観覧車のゴンドラのように高度を上げていく鉄の箱は、重力を振り切って、この宇宙コロニー内に作られた人工の海を一望する空まで上昇した。

 やがて、空飛ぶバスは速度を上げ水平飛行に移行する。

 眼下を溶いた絵の具のように流れる住宅街。曲がりくねった川を真っ直ぐに横切って進み、高層ビルを超えた瞬間空が大きく開ける。


「ふわあ……!」


 アリアの感嘆の声を武蔵は聞いた。

 二人は鮮やかなオレンジの光に包まれる。

 既に低くなった陽の光。全ての物が長く影を走らせ、陰陽に鮮烈なコントラストを描く。

 ビル群を超えてすぐに、次の停留場はあった。

 時間にして僅か数分。20世紀までは考えられないほど身近になった空の旅。

 はしゃぐアリアを見ていると、武蔵の胸にざわめくものがあった。

 何か忘れ物を思い出せないような、大切な何かを置いてきてしまったかのような。

 武蔵は飛行中、ずっと自らの内心にわだかまる何かを持て余し続けていた。







 きらめく海を背にして着地したチヌークは、武蔵達を含む数名の生徒を下ろしてすぐに再び飛翔する。


「乗り降りする時間の方が長いよな、これ」


「空から見る空って、綺麗ですね!」


「はいはいお前の方が綺麗だよ、そう言っとけばいいんだろ?」


 茶化しつつも、武蔵もまた飛び去るヘリを見つめ続けた。


「不思議ですよねヘリコプターって。どうして飛行機が垂直に昇れるんですか?」


「なんで飛行機が水平飛行していられるのかも判らない奴に、0から説明したくない」


「それくらい判りますよ! カイトの原理ですよね」


「超初心者に対する定番の説明そのままじゃねーか」


 武蔵は少し考え、アリアの右手と自分の右手を繋いだ。


「ななな、なんですか? セクハラですか?」


 右手同士なので、当然前後逆に向き合う武蔵とアリア。


「前へー、進め!」


「はあ」


 しゃかしゃかと前進しようとする武蔵とアリア。

 しかし手を繋いでいるので、その場で引き合いくるくると回ってしまう。


「解ったか?」


「いえ、まったく」


 武蔵はアリアの手をにぎにぎと揉んだ。


「セクハラです」


「お前の手、小さいな」


「単純に背が貴方より小さいだけです」


 にべもなく答え、再び夕日を見上げるアリアの横顔。

 整った彼女の容貌を見ていると、武蔵の胸に何かざわめくものがあった。

 男女のそれではなく、かつて熱望していたはずの成層の果てなき蒼さを垣間見たのだ。

 武蔵とアリアはまったく違うタイプだ。

 性別が違えば性格も違う。おそらくは、空を目指した理由も違う。

 あるいは、だからこそ、武蔵のような失敗はしないのかもしれない。

 武蔵のような無様な姿を晒し、空に愛想を尽かされるようなことはないのかもしれない。


「お前は、俺と同じ場所を目指しているのか? それとも―――」


「はい?」


 聞いちゃいなかったアリアは、不思議そうに聞き返す。

 武蔵は数秒間だけ夕日を眺め、心底深く溜め息をつき、ようやく彼女の名を呼んだ。


「アリア」


「なんですか武蔵、私今とても忙しいので……」


「教えてやるよ、飛行機の乗り方」


 ぽかん、と目を丸くして武蔵を見るアリア。

 なぜ今更了承の言葉が出たのか、武蔵自身にもよくわからない。

 アリアの横顔に、かつて自分が夢見た空を垣間見た気がした。

 そんなものは幻想だ。自由な空なんてどこにもなかった。

 だというのに―――アリアを見てると、応援したいと思う自分がいた。

 いや、応援したいとは前々から思ってはいたのだ。ただ、それに気づかぬふりをしていただけで。

 空より青いアリアの瞳が武蔵を見据える。

 その視線から逃げることなく、武蔵は再度告げる。


「俺は厳しいからな。エアレーサーがコックピットに座っているだけの楽な競技だと思うなよ」


「ほ、本当なのですか? いつもの意地悪じゃなくて、本当に教えてくれるのですか?」


「俺がいつ女の子に意地悪をした、小学生じゃあるまいし」


 しょっちゅうなのです、とアリアは眉を顰めた。


「本当の本当に、教えてくれるのですよね?」


「教える。二言はない。ちゃんと練習メニューとかも考える。そのかわり、お前も真剣にやれよ。エアレースは一応危ない競技なんだから」


「あ、はい! よろしくお願いします!」


 姿勢を正し、まっすぐに頭を下げるアリア。

 そして顔を上げれば満面の笑み。

 思えばこれほど真っすぐ感情を向けられたことなど久しぶりで、武蔵はなぜか急に恥ずかしくなり、顔をふいっと逸らしてしまった。


「ま、あまり期待はするな」


 武蔵は照れ隠しを兼ねて、ぶっきらぼうにそれだけを言う。


「約束ですよ! 嘘付いたら舌引っこ抜きますからね!」


「それ何か違うから」


 彼女の日本文化に対する理解はまだまだだった。


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