第10話 サイケ短歌ばかりではありません

 というように、かなりヤバい、サイケデリックな短歌が賢治にはいっぱいあるのですね。

 ただ、「サイケでわけがわからない」というのではなく、サイケデリックであってもそれぞれすぐれていると私は思います。

 「ブリキ缶が自分をにらんでいると感じてしまうような冬の寒さ、冬の孤独さ」、「病気の回復期の高揚感のただなかから見る、東北地方の初夏の夏空と桐の花」というのがきちんと描かれている。


 しかも、サイケ短歌ばっかりじゃなくて。



 なきやみし

 鳥をもとめて

 なみだしぬ

 木々はみだれて葉裏はうらをしらみ。



 鳴くのをやめた鳥の姿を求めて涙を流した。木々が乱れて葉の裏が白く見えている(=そうなるほどに風が強い)ので(鳥が飛ばされて苦しんでいるのでは、と思って)。

 これは、ちょっと感傷的だけれども、サイケではなくて普通に優れた短歌だと思います。しかも「風」ということばを一言も入れずに、平和に鳥が鳴いていたところにいきなり強風が吹いてきたときの荒涼としたありさまをよく描いている。技巧的にもよくできている。

 ここでは紹介していませんが、ほかにも「方言短歌」の試みもしています。

 また、今回の「第一回カクヨム短歌・俳句コンテスト」には「連作短歌」の部があります。

 で。

 賢治も短歌の連作を作っています。私は短歌史はぜんぜん詳しくないのですが、連作短歌で一つのストーリーを構成する、というのは、やはり1910年代~1920年代初めのころとしては珍しかったのではないかと思います。

 賢治は、『春と修羅』に収録される口語詩を作ったり、童話を書いたりするようになってから、短歌をあまり作らなくなっていきます(絶無ではありません。辞世の作も短歌です)。

 しかし、その後の口語詩や童話に生きている「賢治独特の語り口」のなかには、若いころに短歌を作った経験が確実に生きていると私は思います。


 ※この文章は、2015年に、佐藤通雅みちまさ『賢治短歌へ』の紹介・評として書いた文章から一部分を抜萃し、大幅に書き改めたものです。

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