第10話

 それから、何日かごとにスバル君は、ほしのゆへとやってきた。あの日、言ってくれた言葉は嘘でもなんでもないらしい。お客さんが増えることは、わたしとしてもすごくうれしい。


 でも、悶々としてしまうのは、どうしてなんだろう。


 わたしはため息をつく。


「うっとおしいから、ため息つくな」


 セキアの声が反響して聞こえてくる。


 時刻は午前五時。セミの鳴き声が聞こえる前の早朝、わたしたちは浴場の掃除を行う。といっても、夜のうちにたいていのことは終わっている――従業員や基地で雇われている宇宙人によって――から、わたしたちがすることといったら、窓ガラスの曇りを取ったりお湯を入れたり、簡単なこと。


 わたしはまたしてもため息をついてしまう。でも、さっきのとはちょっと違う。


「どうしてセキアと掃除しなきゃいけないの……」


「そりゃあたしのせりふ。ってか、当番なんだから仕方ないだろ」


「そうだけど……」


「文句言う暇あるなら手を動かせ」


 言い方はひどかったけども、セキアの言葉も一理ある。わたしは、水滴のついた鏡をタオルで拭くことにする。


 地下基地の発電機のエネルギーを利用して温められた湯が、滝をイメージした場所から流れ出してくる。浴場を蒸気が包み込む。


「セキアはどうしてうちで働いてるの?」


「は? いきなりどうした」


「ちょっと気になったの。別に、手伝わなくたっていいじゃんって」


「……あたしが邪魔だからか」


「ち、違うってば! そういうんじゃなくて」


 セキアがふっと笑う。わたしはからかわれていたんだ。


 真面目に誤解を解こうとしていたわたしがバカみたいじゃん。


「はなに手伝えって言われたんだよ」


「それに従ったの……? ちょっと考えらんない」


「わたしだってそうさ。だが、そういう約束をしちまったからなあ」


「約束?」


「相撲ってあるだろ? はなが勝ったらここで働く。負けたら、あたしは何もしないってね」


 結果はお察しの通りだが。


 セキアは肩をすくめた。


 ここで働いてるってことはつまり、おばあちゃんが相撲で勝ったってことになる。相撲といえば、肉体と肉体のぶつかりあい。


「おばあちゃんって武器使ってた?」


「おまえ、日本人なのに自分の国の国技も知らんのか」


「知ってるよっ! 武器なしで勝てただなんて信じられなかっただけ!」


「ああ、あたしも信じられなかったよ。いつの間に強くなったんだってな。ま、油断だろ」


「その後は戦ってないの?」


「約束に入ってたよ。二度と立ち向かってくるなって。思うが、あの時からすでに術中にはまってたんだろうな」


 懐かしむように、セキアはうんうんと頷く。


 彼女の横顔を見ていると、なんだか心がむしゃくしゃしてきた。


 浴槽に半分ほど入ったお湯を手ですくって、セキアへかけた。


「うわっ。なんだよ!」


「なんか、むかつく」


「おいそれはどういう意味だ」


 ああもう、とセキアは出しっぱなしとなっているホースをひったくって、わたしへと向けてきた。


 冷水と温水が、交錯し、わたしとセキアの肌を濡らしていく。


 それは、ハルミちゃんがやってきて、お説教の言葉を受けるまで続いた。



「あんたのせいだろ」


「ホース使うなんて反則でしょっ!」


 先に水をかけ始めたのは、確かにわたしである。そこは認める。でも、ホースで一気にかけてくるだなんて思わないじゃん。大量の水を掛け合った結果、わたしとセキアが掃除を行っていた女湯はどこもかしこも、台風の後みたいにビショビショ。


 どうせ、濡れるんだからいいじゃないかって思われるかもしれないけれど、いやもう大洪水でもやってきたのかってぐらいそれはもうひどいありさまだった。更衣室の入口まで濡れてしまうほどに。


 ハルミちゃんは、無感情な目をわたしたちへと向けてくる。怒っていないように見えるのが、逆に怖い。


 わたしとハルミは、何とか怒られないように一時休戦したんだけど、論理的に怒られちゃあ、どうしようもなかった。


 一時間きっかりに、やっとわたしたちは解放された。


 ハルミちゃんがいなくなってすぐ、セキアが鼻息も荒く、わたしのことを睨みつけて、どこかへと行ってしまった。


 わたしは呆然と立ち尽くしていた。


 わたしのせいなんだけど、どうしてあんなことをしてしまったのか、わたしにもわからない。カッとなって、とニュースでよく聞くけど、まさにあんな感じ。


 とっくに着替えているのに、まだ、濡れているかのように、服が重たく感じられた。


 わたしはとぼとぼ番頭台に座る。気分が沈んでいても、やるべきことはやらないといけない。


 湯水のごとくため息が漏れていく。


 窓ガラスに映るわたしの顔は、それはもうひどい。濡れた子犬のようじゃないか。


 お客さんが来たらどうしよう。そりゃあ、番頭としての仕事はするつもりだけど、落ち込んだこの気持ちを上手に隠せるかはわからない。っていうか、できないと思う。今だってできたいないのだから。


 入口からは、雨の音がかすかに聞こえてくる。今日は一日中雨の予報。客足はいつもよりも少なくなるので、わたしにとってもお客さんにとっても、よかったに違いない。


 九時きっかりに、シャッターが自動的に上がっていく。ドアのロックが解除されて、本日のお客さん一号がやってくる。


「ゆこさんおはようございます」


 そう言って頭を下げたのは、スバル君。彼の姿を目にしただけで、地面にめり込んでいたわたしの心は、急浮上し、雲を突き抜けていった。


「う、うん。おはよ」


 ちゃりんとお金を支払ったスバル君は、小さく手を振って男湯の方へと行ってしまった。わたしは手を振り返す。


「あの方最近よく来られますね」


「うわびっくりした。いつからそこに?」


「だらしのない表情で、返事をしていたので気になって来たのです」


「そうなんだ」


「あの方、お名前はなんというのでしょうか」


「どうしてそんなことが知りたいの。も、もしかして、スバル君のことを狙ってる――」


「違います。常連客であれば、お得な回数券もありますし、そういったものをお勧めしようかと。それに、あの方は地球上のどのデータバンクにも該当しませんでしたので」


「?」


「昨今のネット社会において、名が残っていない人間はいません。しかし、あの少年は、名前すら該当なし。これはありえないことです」


「ネットを使ってない……とか?」


 わたしは、牛乳を飲んだことのないと話すスバル君を思い出しながら言う。だけど、ハルミちゃんは首を横に振った。


「その可能性は考慮しましたが、戸籍登録さえもされていないのは異常です」


「スバル君の情報がなにもないってこと」


「そう推察します。スバル君という方は、幽霊のような人間ないし孤児ないしは――」


 宇宙人。


 その単語が、ほしのゆの喧騒の中に紛れていく。


 わたしはわけもなく、きょろきょろしてしまう。誰か聞いていた人はいないだろうか。


 スバル君が聞いちゃいないだろうか。


「あの少年は、入浴中です」


「……カメラで監視してるの?」


「当然です。宇宙人が入浴するのです。もちろん、不正利用は行いません」


「じゃ、じゃあわたしの裸も」


「はい」


「やめてよ。すっごく恥ずかしいじゃん!」


 ハルミちゃんが首を傾げる。意味が分からないみたいな反応しないで。


 っていうか、そんなことはどうでもいいよっ。


「スバル君が宇宙人なわけないよ」


「ワタシもそう思います。宇宙人は、宇宙港へ入港することが絶対条件となっています。宇宙港で自分がどこの星からやってきた何々って名前の宇宙人なのか報告する義務があるのです。しかし、スバルという名はありませんし、顔写真にも一致するものはありません」


「やっぱり違うんじゃない……」


「とにかく、不可解な部分が多い人ですから注意してください――」


「スバル君はそんな人じゃないよ!」


 言ってから、自分の声が大きかったことに気が付いた。エントランスにいた人たちの視線が痛い。

「ごめん」


「いえ。ですが、あまり肩入れしない方がいいと思われます。それだけは覚えておいてください」


 小さく頭を下げて、ハルミちゃんは行ってしまう。


 頭を下げたいのはわたしの方。


 でも、同時に真逆の感情が湧き上がってくるのを感じる。


 ――何も知らないくせに。

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