第41話 もう一人の自分(∥川崎side)

 。そう聞くだけで、苦しくなった。スマホのニュースで上がる記事にも、そして、喫茶店のテレビから流れる映像にも。言いようのない苦痛を覚えてしまった。


 今や異邦人となった私には、すべてが遠い幻のように思えた。私は立木さんから教わった仕事を覚えて、午前中は店主の手伝い、午後は店のホールに出た。「真央って、本当に凄いね? 私、ぜんぜんダメだよ? 何回煎れても、上手くならない」

 

 真央は、それに「クスッ」と笑った。私の不器用さを笑ったわけではないが、機会の操作に戸惑う私を見て、思わず笑ってしまったらしい。私が注文の珈琲を何とか煎れ終えた時も、お客さんのテーブルにそれを持っていくまでは、楽しげな顔で私の様子を眺めていた。


 彼女は私が自分のところに戻ってくると。私の肩を叩いて、私に「お疲れ様」と微笑んだ。「でも、上手くなったよ? 最初は、零してばかりいたのに。今は、ぜんぜん零さなくなった」

 

 私は、その感想に苦笑した。褒めているのか、イマイチ分からない。飲み物を零さないなんて、初歩中の初歩に思えた。私はそんな自分に呆れながらも、彼女がそれでも褒めてくれるので、その厚意に「ありがとう」と笑ってしまった。「ま、まあ、その内に慣れるよ?」

 

 彼女も、それにうなずいた。彼女は自分の仕事に戻り、店の中が少し落ちつくと、店主から貰ったおやつを食べて、私に「美味しい」と微笑んだ。「智世も食べな?」

 

 それにうなずいた。私も、小腹が空いていたから。店主の厚意に「いただきます」と甘えてしまった。私は店主の煎れた紅茶を啜り、余り物のケーキを食べ、束の間の給食に溜め息をついた。「本当に嬉しい。こんな状況だけど」


 真央は、その本音に微笑んだ。真央も真央で、私と同じように休んでいたけれど。彼女が見せる休息は、「いつでも動けるように」と考える休息だった。彼女は私の左側に座って、テレビの画面に目をやった。


 テレビの画面には、午後のニュースが映されている。「隠蔽いんぺい疑惑、か? まったく! 悪い事は、さっさと吐いちゃえば良いのに。どうせ、いつかバレるんだから」


 正直に話した方が良い。彼女はそう言って、店主の顔に視線を移した。店主の顔は、彼女の意見に微笑んでいる。「マスターもそう、思うでしょう?」


 マスターは、それにうなずいた。声には発しなくても、その態度に意見を込めたのである。マスターは自分のカップにも珈琲(たぶん、試飲の意味で)を注いで、それをゆっくりと飲みはじめた。


「何かを隠す人は、『それが上手く行く』と思っている。周りからは、『どうせ知られる』と思っても。隠している本人は、それを疑わないんだ。自分の頭脳、特に悪知恵を信じてね? 自分の力を過大評価する。犯罪者は往々にして、自分の事が大好きなんだ」


 私は、その話に引き込まれた。どうして、引き込まれたのかは分からない。今の話がなぜ、心に響いたのかも。私は自分よりもずっと上のマスターを見て、その内側に不思議な魅力を感じた。


「マスターにも」


「うん?」


「そう言う事があったんですか? 『自分』とか『他人』とかに関わらず、そう言う人と出会う機会が?」


 彼は、その質問に押しだまった。それに不快感を覚えたわけではないが、それでも何かが引っかかるらしい。私が彼に謝る前で、それに「ううん」と唸っていた。彼は自分の珈琲にまた手を伸ばして、その中身を一気に飲みほした。



「え?」


「あ、ごめん。ふと」


「だ、大丈夫です! それよりも! その平行世界がどうかしたんですか?」


 マスターは、その質問に表情を変えた。店の中がしんと静まる中で、その空気に圧力を掛けたのである。彼はテーブルの上にカップを戻すと、真面目な顔で私の目を見かえした。


「自分がそれに関わったわけではない。平行世界なんて物は、概念上の物だし。それを実際に見たわけでもない。私は見せない世界も信じるが、現実の思考からもズレないつもりだ」


 私は、その考えに黙った。確かにそうだ。自分は「平行世界」を知っているものの、普通の人には分からない。それどころか、「関わる事すら無い世界だ」と思う。漫画やアニメでそれを観ても、それに触れる機会なんてある筈がない。その意味では、彼の意見は尤もだった。


 不可思議な世界を信じこそすれ、その世界自体は認めない。どこまでも、(自分とは)無関係な世界でありつづける。正常な状態で異常な世界を認めるのは、異常な人が正常になるよりも異常かも知れない。私はそんな風に感じて、残りの珈琲を飲みほした。


「でも、ですよ?」


「うん?」


「そう言う世界がもし、あったら?」


 マスターは、その質問に唸った。質問の意図を探る意味もあるが、単純に「難しい」と思ったらしい。私の顔を何度も見る態度からは、その不信感が見て取れた。彼は自分の頬を掻いて、私の目を見かえした。自分の恐怖をそっと、表すように。


「向こうの自分に会ってみたいね? 向こうの自分は一体、どう言う人間なのか? それをしっかりと確かめたいんだ。何かの問題を抱えていた時は、それに力を貸したいからね? もちろん、その反対も然りだ。向こうが自分よりも立派な人なら、その人間性をご教授願いたい」


 私は、今の話に聞き入った。特に「ご教授」と言う部分、この部分には「ううん」と唸ってしまった。私は自分と彼を見比べて、その違いに「そうだね」とうなずいた。「優柔不断な男は、許せないけど。一発くらい殴っても良いよね?」


 立木さんは、その言葉に首を傾げた。私の漏らした本音が、「どうも引っかかる」と言う顔で。

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