第32話 煙のように消えて(武部side)

 変な夢だ。変な夢だが、「大事だ」と思った。自分のこれからを決めるような、そんな感じの夢に思えた。僕は夢の世界から抜けだしてもなお、その言いようのない違和感を覚えつづけた。が、それも夕方に終わる。学校が放課後にはなれば、違う事を考えなければならなかった。


 僕は文美と菊川さんの両方から「一緒に帰ろう」と言われたが、例の夢が気になっていた事もあって、その誘いに「ごめん」と謝った。「最近、色々な事があったから。今日は一人で、帰りたい」

 

 二人は、その言葉に押しだまった。傍目からは男の優柔不断さに起こる女子達だったが、そう言う部分に関しては、一応の理解はあるらしい。どちらか一方と変えられないのではあれば、僕の意見も「分かった」とうなずいてくれた。二人は僕の背中を見送る中で、互いに火花をぶつけつづけた。「今日は、仕方ない。見のがしてやるわ」

 

 僕は、その言葉に震えあがった。学年で一、二を争う美少女達から言い寄られても、こんな生き地獄は味わいたくない。正直、「今すぐに逃げたい!」と思った。僕は自転車の上にまたがって、自分の家に帰ろうとしたが……。


 どうも、苛々する。気持ちとしては「家に帰りたい」と思っていたが、この体がどうしても言う事を聞かなかった。どこか休めそうな場所、例の喫茶店にでも行かなければ、この気持ちは少しも落ちつかない。僕は自転車のペダルを漕いで、いつもの喫茶店に向かった。


 いつもの喫茶店、正確には店の中だが。店の中は、意外と空いていた。いつもはそれなりに入っている客が、今日はほとんど見られない。店のカウンターで紅茶を飲んでいる貴婦人や、(おそらくは、会社の仕事だろう)営業マンらしき男性が目の前のノートパソコンに何かを打っている姿以外、客らしい客が見られなかったのである。


 僕はそんな光景に驚きながらも、「今は、自分の事を考えるべき」と思いなおして、いつも座っている席に向かった。それに合わせて、あの少女も「いらっしゃいませ」と話しかけてきた。僕は椅子の上に座ると、店のメニュー表を開いて、彼女に今日の注文を言った。「ホットコーヒーを下さい。ブラックで」


 彼女は、その注文に微笑んだ。僕と同年代に見える彼女だが、こう言う部分は大人に見える。僕に「今日は、お一人ですか?」と聞く態度からも、その落ちつきが見て取れた。彼女は子どものような仕草で、大人の色気を見せた。「例の人達が見られないので」


 僕は、その質問に苦笑した。彼女にもどうやら、そう言う風に見られていたらしい。僕は彼女に自分の事情を話した上で、今の自分が抱えている問題を話した。「もう、嫌だよ。今まではずっと、普通だったのに。それがこんな風に変わっちゃうなんて。僕は、穏やかな時間を過ごしたいだけなのに」


 少女は、その言葉に微笑んだ。微笑んだが、それを「笑おう」とはしなかった。彼女は一応の慰めとして、僕に「大丈夫」とうなずいた。「そう言うのはたぶん、すぐに落ちつくから。嫌な事はずっと、続かない。今は辛くても、後になれば」


 楽になる。そう思いたい気持ちは山々だが、生憎とそう思うだけの余力がなかった。今がこうなら、これからもそうなる。今の状態を受けて、その未来がもっと悪くなる。それころ、何かの蓋が開いてしまったように。


 今の不安は、未来への序章でしかないのだ。だからこそ、彼女の励ましにも言いよどんでしまう。彼女はそんな態度を思って、僕にまた「大丈夫」と微笑んだ。「怖がらなくても。不安は、自分が作りだす魔物だから」

 

 僕は、その気持ちに落ちついた。不安はまだ消えていないが、それでも「大丈夫」と思えた。僕は彼女の力に「ホッ」としながらも、改めて自分の課題と向きなおった。「それにしても」

 

 犯人は一体、何者なのだろう? 誰にも見られず、学校の黒板に文字を書くなんて。余程の運が無ければ、無理な事だった。それが何かの偶然で「上手く行った」としても、その後にどうなったかがまるで分からない。「煙のように現れて、煙のように消えた」としか思えなかった。僕はこの不思議な事件に対して、言いようのない不安を覚えた。


「また、何か起こるのかな? 僕の想像を超えて。今のような事件が、不意に」


「起こるかも知れない。それは、誰にも分からないけど。大事なのは、起こった時にどうするかじゃない? 目の前の事件に対してどうするか? 今の貴女ならたぶん、それに立ち向かえると思う」


「そう、かな?」


「うん。だから、怖がらなくて良いよ」


 そう言われて、「ホッ」とした。実際は、何も良くなっていないけれど。彼女にそう言われた事で、不思議な希望を抱いてしまった。僕は彼女の厚意に「ホッ」としながらも、新たな気持ちで今の状況に「立ち向かおう」としたが……。


 現実はどうも、非情らしい。僕としては、それに負けないつもりだったけど。不意に現れた異常からは、どうしても逃げる事ができなかった。僕は自分の日常を送る中で、あの世界に飛ばされてしまった。僕との世界とまったく同じ、そして、まったく異なる世界に。

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