第21話 新しい敵(武部side)

 混乱の中でも冷静。そんな感覚を怯えたのは、初めてだった。頭の中は、おかしくなっていうのに。それが伝える真実は、意外とスッキリしていた。僕は黒板の文字を見て、それに思考を走らせた。


 黒板の文字を書いたのはきっと、文美ではない。その文面や筆跡、文字の間隔などを見ても。これを書いたのが、「文美」とはどうしても思えなかった。文美は僕よりもずっと丁寧で、僕よりもずっと綺麗な字を書く。こんな風に崩した文体を「わざわざ書く」とは、思えなかった。

 

 僕は黒板の文字をしばらく見たが、やがて自分の後ろを振りかえった。僕の後ろでは、みんなが僕と黒板の文字を見比べている。僕の事を見透かしたような目で、今の反応をじっと窺っていた。僕は、その視線に震えた。視線の奥には、何も感じられない。僕の事を嘲笑う態度はもちろん、反対に哀れむような態度も見られなかった。


 僕は、その態度に息を飲んだ。彼等はきっと、自分の好奇心を抑えている。本当は僕に根掘り葉掘り聞きたいところを、今はその理性をもって抑えていた。僕はそんな空気に触れて、彼等に事の内容を話そうとしたが……。


 菊川さんは、それを許さなかった。僕の思考など無視して、教卓の前に進みでた。彼女は教卓の上を叩くと、真剣な顔でみんなの顔を睨みつけた。「これを書いたのは、誰?」と、お決まりの脅し。それに加えて、「あぁしが、むすっチと付き合うのが気に食わないわけ?」も言い添えた。


 彼女は自分の感情に泣きはじめたが、僕の方は至って落ちついていた。僕は彼女の興奮を宥めて、その耳元に「そっ」と囁いた。昨日の夜、自分にあった事を。「『この中に居る』とは、限らない。みんなの反応を見る以上は。ここは、様子を見よう?」


 彼女は、その助言を聞かなかった。僕自身も考えていたが、こんな事をするのは一人しか居ない。僕と彼女が付き合う過程を思いかえせば、その結論になるのは当然だった。彼女は文美の教室に走って、彼女に「アレは、どう言う事?」と問いつめた。「あんな風に書いて。文句があるなら、あぁしに直接言えば良いじゃん?」

 

 文美は、その怒声に「キョトン」となった。菊川さんの怒声には苛立っているようだが、その意味は良く分かっていないらしい。僕が彼女に事情を話した時も、その話に「はい?」と驚いていた。


 彼女は僕と菊川さんの顔を見比べ、その表情が変わったところで、菊川さんの顔にまた向きなおった。「そんな事をするわけがないじゃん? 文句があるなら、本人に言うし。黒板になんて、文句を書かない。私は、貴女の番号を知っているんだから」

 

 そこまで言われると、流石の菊川さんも黙ってしまった。菊川さんは相手の目を睨んだ状態で、彼女に「それじゃ、誰がやったの?」と訊いた。「あんな事をわざわざ? やっぱり」


 その反論は、「私じゃない」だった。文美は彼女の声を制して、その目をじっと睨みかえした。「とにかく、今は。みんなも、ほら? 私達の事を見ているし。端から見れば、浮気相手を問いつめているようにしか見えないわ?」


 菊川さんは、その言葉に「ハッ」とした。怒りで理性を忘れていた彼女だが、そう言う部分の計算は速いらしい。彼女は何度か咳払いして、自分の対面を保った。「分かったよ。でも、やっぱり気になるし。アンタが犯人かも知れないから、その事実は確かめさせて貰う。『人の彼氏に手を出したら殺す』ってね?」


 教室の生徒達は、その脅しに震えあがった。自分には、まったく関係ない喧嘩でも。彼女の迫力には、どうしても耐えられなかったらしい。隅の方で読書に耽っていた男子ですら、その威圧感に文庫本を閉じた程だった。彼等は二人の会話が終わってもなお、神妙な顔で事の成り行きを見まもっていた。


 僕もそれに倣って、二人の事を見ていた。僕は二人の緊張を解こうとしたが、文美がそれを破った事で、その努力が無駄になってしまった。「文美?」


 それが、無視される。僕の声にまったく応えようとしない。「貴女の怒りも分かるけど。それでも、私はやっていない。教室の黒板にそんな事を書くなんて。私なら堂々と言うわ。『貴女がこんな事をしています』ってね? 学校の屋上からみんなに伝えるよ」


 今度は、菊川さんが黙った。文美との関わりは浅い彼女だが、(女性の本能なのか?)文美の本質は察しているらしい。僕も僕で文美の言葉を信じたが、彼女の方はそれ以上に信じたようだった。文美は菊川さんの目をしばらく見て、それから彼女に「とにかく捜しましょう?」と言った。「私も私で、気になるし。自分のライバルが、これ以上増えるのは嫌だから」


 菊川さんは、その反論に眉を上げた。特に「自分のライバル」と言う部分、ここには「カチン」と来たようである。周りの目がある手前、狂ったようには怒らなかったが……。それでも、文美に「そうだね」と言いかえしていた。菊川さんは文美とある種の同盟を結んで、その関係に「クスッ」と笑った。「


 菊川さんも、「それ」にうなずいた。文美への疑いが消えたわけではないが、今は彼女の事を信じるしかない。(僕が言うのも変な話だが)下手をすれば、後ろから打たれる。今の状態を引っ繰り返すような、そんな大博打を打たれるかも知れなかった。菊川さんはそう考えた上で、彼女の提案に「分かったよ」と微笑んだ。「ちょっとだけ親友になってあげる」

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