第19話 不穏な空気(武部side)

 。自分の知識を総動員しても、自分の技術に自信が持てなかった。僕は大人の階段を昇って、そこにある風景を眺めた。女子の部屋、お洒落な家具、充電器が刺さったスマホ。


 それ等が喪失の空気をまとって、僕の精神に「ぐんっ」とのしかかった。僕は薄暗い部屋の中で、自分の行い胸を痛めた。「捨ててしまった」


 自分がずっと……「大切に」は語弊ごへいがあるかも知れないが、大切な精神を壊してしまった。「愛する人と分かり合いたい」と言う欲求をみんな捨ててしまったのである。


 僕はそんな自分の行為を呪って、ベッドの左側を見おろした。ベッドの左側には、菊川さんが眠っている。「自分の身体を隠そう」ともしないで、その綺麗な全身を光らせていた。

 

 僕は、その姿に眉を寄せた。同級生の男子達には「羨ましい」と思われそうな光景だが、今の僕には「墓場」としか思えない。自分の魂が焼かれ、その自由すらも奪われた、ただの荒れ地にしか思えなかった。僕は自分と相反する身体を見て、それに言いようのない怒りを覚えた。「コイツが、居なければ」

 

 。僕と文美の、二人の時間を過ごせたのに。彼女はそんな幸せを壊して、二人の間に「私も愛して」と割りこんだのだ。「それが、どうしても許せない」

 

 が、彼女には関係ない。僕がどんなに怒ろうと、彼女にはまったく関係なかった。彼女は僕の視線に目を覚ますと、嬉しそうな顔で自分の身体を起こした。「結構、上手いね?」

 

 初めてには思えない。彼女にそう、言われた。何かこう、自分を試させるように。「最初は、大丈夫だったけどさ? 途中から吹っ飛んじゃった。私もかなり、叫んじゃったし」


 僕は、その言葉に腹が立った。最初の最初は、本当に怖かったけれど。事が終われば、それも虚しい感情だった。女性の体温を知る事は決して、良い事ばかりではない。僕はベッドの中から出て、自分の服をまた着はじめた。「今日は、帰らないんだっけ? 親」


 その答えは、「そうだよ」だった。彼女は自分の身体も隠さないで、僕の身体に抱きついた。「今夜は、二人とも夜勤だからね? 帰ってくるのは、明日の朝だけど」


 ねぇ? もう、止めるの? そう囁く彼女が憎らしい。そして、「夜は、まだまだ長いのに?」と微笑む彼女も。普通の男子なら喜ぶような誘いが、今はどんな刑罰よりも重かった。


 僕は彼女の身体を振りはらって、部屋のドアノブに手を伸ばした。「学校も休みだし。明日は、予定もあるから」


 そう応える僕だったが、それが彼女の逆鱗に触れたらしい。彼女は僕の手を握ると、ベッドの上にまた押しもどした。「予定ってなに? どう言う事?」


 あぁし以外の人と会うわけ?


「私の身体を知ったくせに?」


 よその女に行っちゃうの?


「そんなのは、許さない。むすっチは、あぁしだけのむすっチなんだから!」


 彼女は僕の服を剥ぎ取って、その首筋を噛みはじめた。野生のオオカミが、自分の捕らえた獲物を逃がさないように。「明日の朝まで帰さない」


 僕は、その主張に抗った。肌の重ね合いだけならまだしも、それ以上はヤバイ気がする。最後の砦である良心が、崩れる心配があった。良心の崩壊は、人生の崩壊に他ならない。


 僕は彼女の主張を何とか撥ね除け、自分の服にも手を伸ばして、彼女に「来週の休みは、空けて置くから」と言った。「朝帰りは、流石にヤバイ」


 彼女は「それ」に刃向かったが、やがて「分かったよ」とうなずいた。自分勝手な印象の彼女だが、そう言う駆け引きには長けているらしい。相手が自分から遠ざける要因は、彼女としても抑える傾向にあるようだった。


 彼女は「それ」を条件として、この地獄から僕を解きはなった。「それじゃ、来週の夜に。その日はずっと、エッチしよう?」


 僕は、その返事に言いよどんだ。普通の男子ならこれも魅力的な言葉だが、今の僕には悪夢でしかなかったからである。ベッドの上で喜ぶ彼女は、相手のそれを「道具」としか思っていなかった。


 僕は彼女の見送りを無視して、家の外に「失礼しました」と出た。家の外は、暗かった。自分の親には一応、それらしい言い訳は使っていたけれど。「男子中学生が一人で歩き時間」としては、かなり遅い時間だった。


 僕は警察の補導が怖くて、自分の自転車をすぐに走らせようとしたが……。そこで、違和感が一つ。僕が自転車のサドルを漕ごうとした瞬間、カメラのシャッター音らしき物を聞いた気がした。


 僕は「それ」に驚いて、音のした方向に目をやった。が、その方向には誰も居ない。隠れられそうな場所もいくつかあったが、それでも怪しい人影はまったく見られなかった。僕はそれに首を傾げながらも、「今の音は、気のせいだ」と思って、自分の家に自転車を走らせた。


 が、やはり気のせいではなかったらしい。学校の黒板に書かれた、その文字を見るまでは。僕も、「自分の勘違い」と思っていた。その内容に息を飲む、僕。クラスのみんなも「それ」に凍りついていて、菊川さんも無言の怒りを見せていた。


 僕は黒板の前に立って、その文字を呆然と読みはじめた。「泥棒猫」と言う文字を。そして、「武部君を返せ」と言う文字を。

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