第5話 二人だけの時間(武部side)

 クラスの雰囲気は最高ではないが、それでも充分に快適だった。少しの問題はあっても、その被害が自分に来る事はない。その光景に苛々する事はあっても、それで不安に思う程ではなかった。僕は自分の席に行って、机の上に鞄を置いた。「それが日課」と言うわけでもなかったが、机の中に教科書類を入れなければならないからである。


 僕は机の中に教科書を入れ、ポケットの中からスマホを出すと、それで朝の暇を潰そうとしたが、隣の少女が絡んできたせいで、その時間を見事に奪われてしまった。「お、おはよう、菊川さん」

 

 菊川さんは、その挨拶に「ニヤリ」とした。意地悪な笑みではないが、どこか楽しげな顔で。いつもの笑みを見せたのである。彼女は周りの取り巻き達に「クスクス」と笑われる中で、持ち前の明るさを、つまりはギャル特有のオーラを放った。「おはよう、! つーか、『りん、でいい』って言ったじゃん?」

 

 菊川さんとか、超つまんないよぉ! 彼女はそう言って、僕の頬を突いた。まるでそう、男の扱いを知っているかのように。「他の男子もそう呼んでいるし。あぁしの事、そう呼んでいるのむすっちだけだよ?」


 僕は、その返事に言いよどんだ。そう言われれば、そうかも知れないけど。クラスメイトの名前を呼び捨てにするのは、どうしても苦手だった。僕は一応の礼儀として、彼女に「ごめん、さん」と言った。「そう言うのに慣れていなくて」


  菊川さんは、その返事に「むすっ」とした。今の返事がどうしても、気に入らなかったらしい。周りの取り巻き達は「クスクス」と笑っているが、それにも羞恥心を覚えてしまった。


 彼女はそんな空気を無視して、僕の腕に両手を回した(その感触が柔らかかったのは、僕だけの秘密にしておこう)。「ううん、またぁ! むすっちは、変にマジメすぎだよぉ!」

 

 周りの取り巻き達、特に女子達も、その言葉に吹き出した。彼女達は可愛いペットでも見るような目で、僕の反応を喜んだり、(人によっては)僕の頭を撫でたりした。「確かに、確かに。武部君、そう言うのに弱そうだもんね? 年齢イコール童○な感じ?」

 

 それを聞いた男子達も、楽しそうに「クスクス」と笑った。男子達は僕の事を見くだすわけではないが、ある種の同情らしき物を抱いて、僕の事をじっと見はじめた。「どんまい、武部。俺も、童○だからさ? 気にするなよ?」

 

 そう言われても、困る。相手にどう返していいか分からない。僕自身は「童○」でも「非童○」でも構わないが、それがクラスの空気を和ませている以上、その空気を壊すのはどうしてもできなかった。


 僕は得意の愛想笑いを浮かべて、今の空気を保ちつづけた。今の空気は、朝のホームルームと共に消えた。生徒達の話し声が無くなったわけではないが、担任の先生が話しはじめた事で、自由時間の時よりは静かになってしまった。僕はいつものホームルームを聞き、いつもの授業を受けて、いつもの放課後を迎えた。「はぁ、やっと終わった」

 

 これで帰れる。文美と一緒にいつものお茶が飲める。彼女の見つけた、とても美味しい紅茶が。僕は「それ」が嬉しくて、文美のところに走った。彼女は、いつもの場所で待っていた。誰にも見られない秘密の場所、「絵」や「文字」でも表したくない場所で待っていたのである。


 僕は彼女に微笑むと、彼女と連れ立って、いつもの喫茶店に向かった。「そう言えば、新メニューが出るんだってね? 店の女の子が考えた?」

 

 文美は、その質問にうなずいた。僕も新メニューの登場を喜んでいたが、彼女も「それ」を喜んでいたらしい。僕が彼女に「楽しみだね?」と言った時も、それに「うん、とても楽しみ」と微笑んでいた。彼女は自分の周りに人が少なくなると、僕の目をじっと見て、その右手に手を伸ばしはじめた。「握って」

 

 それに「うん」とうなずく、僕。僕は彼女の手を握って、その感触を味わった。彼女の手は、とても柔らかい。細い指が美しくて、その内側もスベスベしていた。


 僕は彼女の手を握って、喫茶店の中に入った。喫茶店の中は、静かだった。お客の方も常連客が多くて、その声もかなり小さい。僕が彼等の声に耳を澄ませても、会話の一部しか聞こえてこなかった。


 僕はその雰囲気に酔い、目の前の少女にも微笑んで、ウェイターの少女に「コーヒー二つ」と言った。「それを新メニューのケーキもください」

 

 少女は、その注文に喜んだ。僕や文美とは同じくらいの少女だが、同世代の少年に自分が考えた商品を頼まれて、心から「嬉しい」と思ったらしい。小動物のような笑顔で、僕に「ありがとうございます!」と笑った。彼女は二人分の注文を取りおえると、嬉しそうな顔で店の厨房に向かった。


 僕はその背中をしばらく見つめたが、それが文美の御機嫌を損ねたらしく、少女が厨房の中に消えたところで、彼女に自分の耳たぶをつねられてしまった。「い、いた、いた」

 

 文美は、その声を無視した。それどころか、僕に「見惚れすぎ」と怒る始末。彼女は僕の耳から指を放した後も、不機嫌な顔で僕の顔を睨みつづけた。


「今日は、結の奢りね?」


「へぇあ?」


 それは、いくらなんでも理不尽。だが、それを言えないのも現実だった。彼女への反論は、自体の悪化を招きかねない。僕は彼女の意見に屈する形で、彼女に「分かりました」とうなずいた。「今日は、奢らせていただきます」

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