奇妙な本を、返却しに。

「文原、申し訳ないんだけどこれ、図書室に返却しといてー」

「え……?」

 放課後、担任の田中先生。

 『文原ありす』と自分の名前を書いている教科書の上に、それは置かれた。

 桜川中学校図書室、とハンコの押された本。

 その本には、見覚えがあった。

「これ……」

 今日、ホームルームの時間、先生が持ってるのを見た。

「誰だこの本を借りたやつー。ちゃんと返しに行けー」

 そう先生、みんなに声をかけていたけれど。

 ……結局、誰も取りに来なかったんだ……。

 でも、なんでその本を私が返しに行かなきゃいけないの?

 そう顔に書いてあったのか、先生は頭をかきながら、一言。

「申し訳ない! 先生、部活動のことで忙しいから!」

「……」

 まるで、私が忙しくないみたいな言い方が少し悲しい。

 先生は、何か手伝ってほしいことがあると私に言ってくることが多い。

 きっと頼みやすいんだろう、とは思うけど、嬉しくない。

「私も用事が……」

 そう言いかけた時には、もう先生は教室から出て行ってしまっていた。

 まだ、何の返事もしてなかったのに……。

 教室のドアから何人かの女子がのぞく。

 同じクラスの、テニス部の女子グループだ。

「奈央ー、行くよーっ!」

「はーい!」

 私の斜め後ろの席の奈央ちゃんが立ち上がって手を振る。

 湯川奈央ちゃんは、幼稚園ようちえんの時からの幼なじみだ。

 だけど、中学生になってからは、全く話したことがない。

 奈央ちゃんは、私の席を通り過ぎて、友達のところへ行こうとする。

 そんな奈央ちゃんがちらり、と私の机の上に置いてあった本を見た。

 一瞬、私と目があった気がした。

 けれど、私が話しかけようとしたときには、彼女は目をそらしてしまっていた。

 そのまま、友達のところに合流してしまう。

「お待たせ。行こっか」

 教室から出た奈央ちゃんと女子グループの姿が、ろう下の窓に映る。

 ドアから、彼女たちの会話が聞こえてきた。

「文原さん、先生に何か頼まれてたの?」

「誰のか分からない本、図書室に返してこいだって」

「えー、ひど。自分で返せばいいのにねー」

「そもそも先生、文原さんに頼みすぎ―」

 楽しそうな笑い声と会話の声が、少しずつ遠ざかっていく。

 教室には、先生に勝手に置かれた本と私だけが取り残される。

「……それ、田中先生に直接言ってほしい……」

 私のひとり言は、教室に小さく響いて消えた。

 その時だった。廊下の窓が突然ガタガタと揺れる。

 それから数秒後、シャランッ、と鈴が近くで鳴った気がした。

『……その本、やばいにおいがするねぇ』

「誰!?」

 鈴の音とほぼ同時。ささやくように小さく、低い声が聞こえた。

『……すぐ返却した方がいい。この学校にいる、特別司書官にな』

 男の人の声だった。

 少なくとも中学校では聞いたことのない、なじみのない声。

「特別司書官って何!? そもそも、あなたは誰!?」

 教室を見回すけれど、辺りには誰もいない。

 私の質問には答えずに、声は続けた。

『くれぐれも、返却するまで本は開けるなよ? 巻き込まれたくなかったら、な』

 再びシャランッ、と音が鳴ったかと思うと、それからは声がしなくなった。

「もう。一体何なのよ……」

 きっと空耳だ。つかれてるのかな。

 そんなことを思いながら、本を手に取る。

 すると、本からさっきまで見えなかったものが急に見え始めたことに気付いた。

「何……これ」

 本の表紙から、何かどす黒いものがもれ出していた。

 それは、けむりみたいな、もやのような何かだった。

 しばらくすると、黒いものは消えてなくなる。

「何だったんだろう……」

 変な空耳といい、本からあふれ出る黒いものといい。

 今日は、不思議なことばかり起きる。

 今朝見た夢も、なかなかリアルな夢だったし。

 まるで物語の中に入りこんだみたいで、楽しかったな。

 まぁ、そんなことより……。

「とりあえず……、本を返しに行こう」

 自分の借りた本じゃないから、返却しに行きたくはないけれど。

 それで明日、先生にちゃんと、嫌だったって伝えよう。

 そう思いながら、教室を出る。

 図書室は、少しはなれた場所にある。

 まずは、一年生の教室が並ぶ一階のろう下を通り過ぎて。

 渡りろう下を歩いていくと、図書室と音楽室のある別館にたどりつける。

 本は大好きだけれど、学校の図書室にはまだ、一度しか行ったことがない。

 初めて行ったとき、上級生がテーブルでおしゃべりしてたのを見て、ゆっくり読書できなさそうだって思ったんだよね。

 それに、家の近くに図書館があるから、そこの方が本もたくさんあるし。

 それ以来、図書室には行ってない。だから、正直、図書室にも行きたくはない。

 でも一つだけ、図書室に行きたい理由ができた。

 さっきの空耳、空耳にしては言葉がよく聞き取れた。

 その中で出て来た『特別司書官』という言葉。

 司書っていうくらいだから、図書室でお仕事する人だよね?

 その人に、会ってみたい。そして、聞いてみたい。

 一体、どんなお仕事をするのかって。

 本が好きな私にとっては、なんだかとってもステキな響きに聞こえたんだ。

 図書室の入り口のドアの前にたどりつく。

「失礼します……」

 小声で言って、図書室の中へと入った。

 図書室の入り口のすぐ近く。そこに、カウンターがある。

 図書室の本の貸出や返却を行う場所。

 そこに、普段なら図書委員だったり司書の先生が座っていて対応してくれる。

 だけど、今は誰もいない。

 図書室の入り口から一番奥の棚まで歩いて行ってみたけど。

 やっぱり誰もいなかった。

「どうしよう、持って帰るのもなぁ……」

 そう言いながら、本をカウンターの上に置く。

 特別司書官には会ってみたい。

 だけど、そもそも今日来てくれるのか分からない。

 カウンターの上にのせた本にふれる。

 すると、小さな声が重なって聞こえた。

『連れて帰って』

『置いて行かないで』

『特別司書官に渡さないで』

『もう少しで終わりそうなの』

「ぎゃあっ」

 思わず本を床に落としてしまう。

 表紙を上にして落ちた本を見て、思わず口に出した。

「……なんで、タイトルが書いてないの……?」

 表紙の、本の題名が書かれていた場所。

 そこが、まるで油性ペンか何かでぬりつぶされたかのように真っ黒になっていた。

「さっきまで、確かに題名があったはずなのに……」

 さらに表紙に書かれた絵もまた、黒ずみ始めている。

 何のイラストが描いてあったのか、もう分からなくなってしまっていた。

 その様子を見て、背筋がこおった。

 なんだか、この場所にとどまってはいけない気がする。

 そう思うと、一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたくなった。

『私のものではありませんが、返却お願いします。 文原ありす』

 持っていたふせんにそう、走り書きをする。

 そして本の表紙にはりつけると、急ぎ足で教室を出た。

『……さぁて。この選択は、どういう結末を迎えるんですかねぇ?』

 さっきの男の人の声がまた聞こえた気がしたけれど、無視することにした。

 だってきっと、空耳だから。

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