第9話.魔王
お腹空いたなぁ……そうぼんやり思って目を開けたあたしは、自分がふかふかのベッドに寝ていることに気づいて「?!」と飛び起きた。
あたしはさっきまで……
そうだ、あたしはさっきまで、サルザリア大壁を越えた先の荒野にいたはずだ。
あの後魔物に出会うこともなく、しかし時々人間の気配があって……
緊張しながら山を越えて、吹き荒れる砂嵐の中をよろよろ進んでいた記憶がある。
「うぅん……ぶっ倒れた記憶もあるなぁ……」
力尽きて倒れたんだ。山越えを果たしたあたしに、明確な目的地も分からないままに砂嵐の中を進む気力体力はなかったみたい。
背後のサルザリアを気にする余裕もなく、荒れた砂地に顔から転んだのを覚えている。しかし触れた頬に傷はない。
「…………」
ここ、どこだろう?
やけに魔法の気配が濃い。こんな場所、聖術の気配で満ち満ちていたサルザリアじゃ有り得ない。
それにあたしを拘束もせず怪我の治療をしてベッドに寝かせているなんて、あたしを捕まえたいサルザリアじゃ絶対しないし……
「目が覚めたか?」
「?!」
突然隣から声がして、あたしは驚きのあまりベッドから転げ落ちた。いつでも動けるように緊張していたのが災いした感じ。後頭部を強打して、昼間の花火が見えてしまった。
「あっはっはっ、思っていたより元気だな」
快活な笑い声が聞こえる。中性的な、透明で真っ直ぐな声色だった。恐る恐る身を起こしてベッド越しにその声の主を確認する。
「おはよう、気分はどうかな?」
ゆるりと微笑んだのは、硬質な美を湛えた白い顔。柔らかな弧を描く目はびっくりするくらい鮮やかな紫で、瞬けば音がしそうなほど長いまつ毛に縁取られていた。
艶めく長髪は、あたしと同じ黒髪とは思えないほどに深みのある漆黒で、白いブラウスに包まれた細い肩に沿って真っ直ぐに流れ落ちている。
女の人か男の人か分からなかった。細身だけど手足が長くて背は高そう。中性的な美貌だし本当に判別できない。
「あ、あぁ、えと、あなた、誰……?」
あんまりの美貌に圧倒されて口が上手く回らなかった。そんなあたしに、その人はクスクス笑って組んでいた足をゆっくりと組みかえる。
「安心しなさい、私はお前の敵ではないよ」
「ええと……じゃあ、ここはどこ?」
確かに敵か否かは気になるけど、それ以外も聞きたくての「誰?」なんだよなぁと思いつつ次の質問に切り替える。
「どこだと思う?」
「……サルザリアじゃないことと、サルザリア側の陣営の場所でないことくらいしか分からない」
「それが分かるなら上出来だ」
そう言ってその人はスッと立ち上がった。白ブラウスと黒のスラックスに包まれた長身はやはりよく見ても性別が分からない。
胸元の小さめのジャボとそれを留める紫の宝石が唯一の装飾というシンプルさ。けれど品があって、とても綺麗だった。
そんなふうに観察するあたしの視線も気にせず、その人は窓際まで行って重たいカーテンをジャッと開いた。
「動けるならここまでおいで。外を見てみるといい」
「……は、はい」
そろり、と立ち上がってベッドから離れる。腕を組んでゆるりと佇むその人の横へ。恐る恐る窓を覗き込む。
「っ?!」
あたしは仰け反って窓から離れた。勢いのまま尻餅をつく。信じがたいものを見た、そういう顔をしていると、窓の横にいたその人がまたクスクスと笑った。
「さ、もう一度訊こう――ここは、どこだと思う?」
空を飛ぶ翼竜、眼下に広がる街を闊歩する人ならざる者たちの姿――あたしは震える唇を開いて答えた。
「――魔境、なのね」
正解、と言って美しいひとは妖しく笑みを深めた。
――――――
魔境。
人類の天敵たる魔物たちが生まれる場所であり、彼らの住処でもある。
魔物が生まれる深淵を抱く地、なんて呼称をしてはいるけれど、その実人類はそこに何があるのか、そこがどんな場所なのか、全くと言っていいほどに知らないのだった。
ただひたすら怯えて、人は生きられぬ場所であると、絶望の荒野であると囁いてきた。
まさに魔境。
そんな場所にあたしはいる。命を賭けた大博打に勝ったからだ。
「私の名はカルラルゥ。この地で最も強い者になってしまったがために『魔王』などと呼ばれている」
「魔、王……っ、魔王?! あなたが?」
「『とてもそうは思えない』と?」
「ええと……うん、正直言うと。だって、どう見たってあなたは……」
「ん?」
「……人間に、見えるから」
言い淀みつつ、先を促されてしまったのでもごもごと答える。
まだ万全じゃないからとベッドに戻されたあたしは、隣の椅子に足を組んで座るその人――カルラルゥの話を聞いていた。
「ふぅん?」
「う……」
あたしが想像してた魔王は、恐ろしく強い魔物たちの王だから、もっとこう、ゴツくてあからさまに危険そうな……そういうのだった。
だと言うのに、カルラルゥの言葉を信じるなら、目の前のこの綺麗な人自身が魔王なのだ。
あたしの言葉に、カルラルゥはクスクス笑いながら「そうか」と何度か頷いた。
「確かに私は魔物には見えないだろう。その認識は正しい。何故なら私は元人間だからね」
「……え?」
「この身は人間とそう変わらないんだが、二百年生きているから、まあ、人間とは言い難いものでね。だから『元人間』と自称している」
「二、百……」
呆然としたあたしの言葉に、カルラルゥは頷いて「実のところそう難しいことではないんだよ」と目をゆるりと細めた。
それから「さて」と言って、組んでいた足を組みかえてそこに肘を付き、指の長い白い手で顎を支える。話を聞く姿勢だった。
薄い唇が開く。
「そろそろお前の名前を聞こうかな――監視塔の聖女の一人よ」
――逃げなきゃ、ほぼ無意識にそう判断して動いたあたしを、それ以上の速さで動いたカルラルゥがベッドに縫い留めた。
遅れて、カルラルゥの長い黒髪がさらさらと流れ落ちてくる。あたしを閉じ込める檻のようなそれにゾッとして「放して」と叫ぶ。
「落ち着きなさい。言っただろう、私はお前の敵ではないと」
「っ、やだ……!」
「落ち着きなさい」
あたしの両手首を掴む手は、そんなに力が込められているわけでもないのにびくともしなかった。
少しも動じない紫の目があたしを見下ろしていて、どうやっても敵いそうにないと分かったら少し落ち着いた。
「っ、ご、ごめん、なさい……」
「……よし、いい子だ」
あたしが抵抗を止めると、カルラルゥはそっと身を引いてくれた。無意識に止めていた呼吸を再開しながら、ゆっくり身を起こす。
「ここまでの反応を示すとは思わなかった、すまない」
「…………あ、あなたは、何を知っているの」
「お前の身に起きたであろうことをほとんど、かな」
「っ、なんで?! どうしてそんな……――」
魔王だから? だとしたらなんで、早くあの塔を、あの大壁を、壊してくれないの。あのおぞましい呪物の儀は魔物が考えたものなんでしょ。責任をとってよ!
色々な言葉か頭を埋め尽くして、上手く声にならない。そんなあたしを見つめて、カルラルゥは静かに息を吐いた。
「――かつての私も、監視塔の聖女の一人だった」
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