第8話.黒鹿の魔物

 魔境へ入る方法は、サルザリアの大壁を越えるか、東西にそびえる険しい山脈のどちらかを越えるかの二択だ。


 魔境に対して唯一監視があるのがサルザリア大壁だから、あたしが選べるのは実質一択。万全とは言えないこの体で山越えをしなきゃいけない。


 群青街道沿いの森の中から、サルザリアの方角を見つめる。緩やかな傾斜があるからか、ここからでも大壁の上の方が窺えた。


 あたしが壊した、右から二番目の監視塔はまだそのままみたい。

 他の四本は健在で、その中で殺され、呪物にされたであろう顔見知りたちを思って唇を噛んだ。


「……皆のことも、いつか解放するからね」


 さっき兎を殺して食べたから、少し体力は回復している。今のうちに一番大変な山登りをしてしまおうと決めた。



――――――



「寒すぎ……」


 山中は物凄く寒かった。


 魔境含め、サルザリアの辺りはこの大陸の最南端に位置する。だと言うのに山頂に近付くにつれて白い雪が視界に入り始めた。


 ボロボロの服と、急拵えの兎の毛皮じゃどうしようもない寒さだ。なるべく低いところを行きたいけど、サルザリア側から隠れるように回り込む道は険しい。あたしは泣きそうだった。


 薄い靴の中の指は感覚を失い始めている。これだけ体温を奪われていると、魔法を使うのも一苦労だ。

 あたしの魔法は、魔力以外にも自身の体温を少しずつ消費しちゃう。だから使うとお腹が空いて寒くなる。


 だからこういうところじゃ使いにくいし極力使いたくない。


 雪は止んでいるけど、同じ景色ばっかりで方向感覚を失いそうだ。サルザリアの方から感じる濃密な聖術の気配でどうにか東西を判断している。


「山越えできなくて死ぬのは嫌だな……」


 足は止めない。色々好き勝手呟くけど、諦める気はさらさら無いから。それに、こんなところでくたばったらシアに怒られる。


「はぁ、はぁ……っわ!」


 息が切れてきた頃、荒れた地面から飛び出した木の根っこに足を取られて盛大に転んだ。膝と掌を思いっきり擦りむいて、我慢できずに少し涙が滲む。


「つらい……」


 しばらく立ち上がれずに地面に伏して、ぼんやりと緩い上り坂の先を見つめた。



 ふと、そこに何か、黒いものが見えた。



「……え」


 道の先に立つ木の向こうから、黒い何かがあたしを見ている。


 紅い目、ねじくれた角、そして微かに伝わってくる魔力の気配。人間以外で魔力を有する生物は――魔物だけだ。


「嘘、あたし、運悪すぎじゃない……?」


 慌てて立ち上がり、魔物を見上げる。いつの間にか魔物は木の陰から出てきていた。真っ黒な鹿みたいな姿だ。


 生まれて始めて見る魔物。


 ゼイレス聖教学園では、魔物の醜さを強調して教え込まれたけれど、そこで言われていたよりも本物は醜くなかった。


 むしろ、少し、綺麗かもしれない。


 けれど人類の敵と言われるだけある。向こうはあたしの感動を気に止めず、角を構えて突進の構えをとった。


 そして一呼吸。


 力強い蹄が大地を蹴る。坂の上にいるから勢いが物凄い。あたしはギリギリを見極めてバッと横に跳んで避けた。

 転がって、すぐに振り返る。あたしを逃したことに気づいた魔物はすぐに踏ん張って速度を落とし、こちらを振り返った。


 魔物相手なら、神の力を借りる聖術の方が効く。体温の消費もないし、魔法よりそっちの方がいい。聖術は嫌いだけど、生きる手段として躊躇いなく使う。


 手の上に光の玉が浮かぶ。柔らかなミルク色のそれに、魔物が不快そうに目を細めた。


 普段より空に近いからか、下手なあたしの聖術でもいつもより強い。天空におわす創世神への信心が聖術を強くするなんて教師たちは言ってたけど嘘ばっかり。今のあたしに信心は皆無だ。


「ふー……」


 息を吐き、集中力を高める。


 魔物は深い紅色の目を細めて、ゆらりと長い首を揺らした。こちらを窺っている。あたしだってそうだ。瞬きもしないで魔物を見つめている。目をそらしたら突っ込んでくると確信していた。


 魔物の目がゆるりと瞬いた。


 ――ここだ!


 あたしはその一瞬に潜り込ませるようにして光の玉を放った。気づいた魔物がパッと身を翻したが、この光の玉は動かせる。あたしは手を動かして光の玉を操った。魔物を追いかける。


 光の玉が魔物の後ろ足を捕らえた。不気味な声で嘶いて倒れる魔物。追撃を、と更に光の玉を作り出して勢いよく放つ。


 空を貫くような悲鳴が上がって、魔物は動かなくなった。恐る恐る近付いて覗き込むと、さっきまで煌めいていた目の光がない。倒せたみたいだと認識して安心した。


「っ、はぁ……緊張した……」


 ふらっと座り込みそうになって「駄目駄目」と踏ん張る。体も少し温まったし、このまま山を登らないと。


 それに、魔物が出てきたということは魔境に近付いている証拠だ。


 サルザリアで防ぎきれない魔物はこうして山を越えたりして大陸に散らばっていくんだな、とぼんやり思った。


「あと少し、がんばろ」


 あたしはまた歩き出した。





――――――――





 彼女は百年ぶりにその荒野を歩いていた。


 配下たちが、珍しく異変を察知して騒いでいたからだ。それがあんまりにも煩いので、叱りつけてから住処を出てきたのである。


 鮮やかな紫の目が、砂嵐の吹き荒れる荒野の向こうを睨んでいた。そびえ立つ白亜の大壁、忌まわしき五本の塔。


 ふと、彼女の眉根が訝しげに寄る。塔の内の一つが崩壊していることに気づいたのだ。昔の記憶が脳裏をよぎり、彼女は唇を引き結ぶ。


 その直後、意識のそれていた爪先に何かが当たった。


「……ああ、奴らが騒いでいたのはこれでか」


 彼女の黒い靴の先、深い夜のような黒髪の頭があった。


 手を伸ばして首根っこを掴み、ひょいっと持ち上げる。完全に意識を失っているようで、その体はぐったりとしていた。


 その痩身に纏っている衣装に見覚えがあった。襤褸ぼろ同然だが、元の意匠が容易に窺える特徴。


 紫の目が崩壊した塔に向けられ、再び掴まえてある少女に向く。


「なるほど、面白い」


 低く笑って、彼女はその少女を持ち帰ることに決めた。


「まさか、私と同じ・・者がまた現れるとはね」


 黒い衣装を翻し、彼女は大壁に背を向けて歩を進めながら哄笑した。腕の中のこの少女の存在が愉快で堪らなかった。

 彼女の機嫌が良くなったことで、巻き起こる砂嵐が強まる。砂塵に霞む中、彼女の背は悠々と荒野の奥へ消えていった。

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