魔法を食べる

そうざ

I Eat Witchcraft

「パン!」

「んぁ?」

 女房が台所で大きな声を上げたので、私はダイニングテーブルで大口を開けたまま動きを止めた。

「食べちゃ駄目よ。一つは残しておく約束でしょ?」

「小腹を満たすのに丁度良いからさ」

「残りご飯でお握りでも作るから」

「やれやれ、まさか本気で信じてるのかぁ?」

「一応、約束は約束だから」


              ◇


 夫婦共まだ寝床で丸くなっている時間にインターフォンが鳴った。

 冬の早朝である。こんな時間に誰かと不審に思いながら起き出すと、薄暗い玄関先に佇んでいたのはミラさんだった。一人息子の嫁である。

「これ、焼き立てです」

 胸の前に抱えたバスケットにコッペパンが山盛りになっている。そうだった。息子夫婦はパン屋の開業準備をしているのだった。 

 息子宅からここまで車で十分程だ。だからと言って朝も早よから行き成りやって来るとは、開いた口が塞がらない。

「一番にお届けしたくて」

 白い息を吐きながら人懐こくにっこり笑う。息子はこの笑顔にやられた訳か。

 恐る恐る玄関にやって来た女房が唖然として言った。

「寒いでしょう、上がって」

「まだパンを焼いている最中なので」

 ミラさんは私達にパンの山と、そしてとを残し、車で田畑の向こうへと走り去った。

 夫婦で顔を見合わせていると、ようやく遠くの稜線が明るくなり始めた。


              ◇


 朝食のメインは必然的にパンと決まった。 

「美味いな」

「良い香り。食感も最高ね」

「石窯で焼くとやっぱり違うのかな?」

「DIYで窯を作るって言ってたけど、大したもんねぇ」

「……ん、何だこりゃ」

 口の中に異物を感じ、舌で押し出した。

「なぁに?」

 紙の切れ端のようだった。

「あぁ、クッキングシートじゃない? 生地を捏ねる時にでも紛れちゃったのね」

「売りもんだったら大変だぞぉ……あの二人、本当にパン屋を始める気なんだな」

「もう店舗にする物件も借りちゃったんだから、後には引けないでしょう」

「あれだけ反対したのに。スナオの奴がもっとしっかりしてれば」

「しょうがないわよ、あの子はミラさんに振り回される運命なのよ」


              ◇


 同じ職場で知り合った二人は、あっと言う間に結婚を決めたと思ったら、揃いも揃って会社に退職届を提出し、私を仰天させた。

「どういうつもりなんだっ?」

「二人でパン屋をやりたくなって」

「馬鹿な事を。世の中そんなに甘くないぞ」

「でも、ミラがどうしてもって……」

「お前がしっかり手綱を引いとかんからだ」

 一人っ子だからなのか、スナオは内弁慶で優柔不断なところがある。最初は似た者夫婦だと思っていたが、ミラさんはおっとりしているようで意外と行動力がある――と手放しに評価して良いものか。今では無鉄砲の方が正しいような気がしている。


              ◇


 パンの山は昼食には消え去った。それだけ美味かった訳だが、夕飯後のテーブルに一つだけ所在なさげに残されている。

「これを明日まで取っておけって事か」

「そう言ってたわね」

「夢のお告げって……」

「言ってたわね」

 この後、小腹の減った私が思わずパンに手を伸ばし、女房にたしなめられた訳である。

 結局、お握りを二つ食べて空腹を満たし、一人でニュース番組を適当に見てから寝床に入った。

 女房の隣でぼうっと天井を見詰めていると、ミラさんとの会話が蘇って来た。

「一つで良いので、パンを明日まで残しておいて下さい」

「そりゃまた何で?」

「二つに増えるんです」

 鳥肌が立ったのは、朝の冷え込みの所為だったのだろうか。いつもの無鉄砲さとは違う、その瞳は真剣そのものだった。

「お婆さんがそういう魔法を教えてくれたんです。毎日一つ残しておけば一生美味しいパンを食べられるって」

 

              ◇


 あれは、節約の為に結婚式や披露宴はやらないというので、四人でお祝いの会食をした折りだ。

 ミラさんが数年前に立て続けに両親を亡くしたという話から、何代か前の母方は外国の人という話になった。

「お国はどちらなの?」

「ヨーロッパの……何て言ってたかなぁ」

 ミラさんは軽く小首を傾げ、左上を見詰めたまま固まってしまった。スナオと同い年なのに幼く見えるのは、色素の薄い肌や髪、瞳の影響だろうか。

「実際に会った事はないんだから、憶えてなくてもしょうがないよ」

 スナオが透かさず間を繋ぐと、ミラさんはたちまち向き直った。

「でも、夢では何度も会ってますよ。古めかしい格好のお婆さんなんだけど、ふふっ、日本語を喋るんです!」

 そして、兄弟姉妹も居らず孤独を感じていた時にスナオが励ましてくれた事が結婚に繋がったのだと、ミラさんは健やかに笑った。


              ◇


「食べちゃったのっ?!」

 起きて来た女房の開口一番に、新聞を読んでいた私は思わず身を縮こまらせた。

「早々と目が覚めてしまってな。腹ぺこで、どうしても我慢出来なかったんだ」

「……二つ、食べたの?」

「……一つだよ」

「増えて――」

「る訳がないだろぉ」

 私は、もう魔法の話はしたくないと新聞に顔を戻した。


              ◇


 女房を乗せて息子夫婦のもとを訪れると、開店祝いの花が並んだ小ぢんまりとした古民家てんぽは、パンの芳ばしい匂いに包まれていた。

「明日の開店の前に試食サービスをやる事にしたんだよ」

 既に聞き付けた老若男女がパンを頬張っている。評判は上々のようだ。

「想像と違ったわ。もっと洋風かと思ってた」

 私も女房と同意見だった。何故そう思ったのかと考ると、やっぱりミラさんの印象からだろう。

「お義父さん、お義母さん、いらっしゃいませ!」

 作業着姿のミラさんの頬に白い粉が付いている。女房にそれを拭き取って貰いながら、ミラさんは瞳を輝かせて私に訊いた。

「増えましたかっ?!」

 女房が私の顔を窺う。スナオも接客をしながら私達の方を気にしている。

 私はきっぱりと答えた。

「増えてなかったよ」

 一瞬の間があったが、ミラさんの笑顔は消えなかった。

「な~んだっ」

 夢のお告げ通り、呪文を記した紙片をパン生地と一緒に石窯に入れたのだという。何故だかルーン文字という知らない言葉がすらすらと書けたらしい。

「その魔法とやらは、今日も試したの……?」

「いえ、昨日の結果が判るのを待ってたので」

 それを聞いて

「別に増えなくても構わんよ、毎日買いに来れば良いんだから」

「そうそう、ちゃんと売り上げに貢献するわ」

「毎日お届けに上がりますっ」

「あぁ……あんまり朝っぱらからは勘弁してくれよ」

 パンの香りが笑い声に包まれた。


 ミラさんに古いヨーロッパの血が流れているとして、例えばそれが魔女の家系なんて事はあり得るのだろうか。

 子孫が食うに困らないよう、夢枕に立ってパンが増える魔法を伝える魔女。火炙りにされた不幸な女性の末裔が今、遠い国の片隅で平和にパンを焼いている――そんな想像をしてしまった。

 何れにしろ、若い夫婦には地道に堅実にやって行って欲しいと、親としては切に願う。暗い歴史を持った魔法に関わっても、ろくな事にはならないと思うのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法を食べる そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説