第3話 チョロい女(無自覚)

(な、なに!? なんなのアイツ!? え、マジでなに、いきなりなんなの!?)


 ――朝っぱらから妙な男に話しかけられ、阿久津真緒は激しく狼狽えていた。


 いつもと同じはずの朝だった。通学中は誰からも微妙に距離を置かれ、時おり聞こえてくるひそやかな陰口を必死で右から左に聞き流すはずの朝だった。

 その『いつもと同じ』が崩されたのは、つい先ほどのことである。


『阿久津真緒! 俺が友達になってやる!』


 校門に差し掛かったところで、いきなりそんなことを言われた。

 名前も知らない男子だった。同じ制服を着ているからには同じ学校の生徒なのだろうが、これまで接点などないはずの男子だった。


 それがいったいどうしたわけか、自分と友達になりたいという。『友達が欲しい』という自分の願望が生み出した幻覚だと思って、最初はうっかり無視してしまった。


 だが、幻覚は一度では終わらなかった。男の横を通り過ぎてまたすぐに、


『阿久津真緒! そこのヤバい目つきの美少女のお前! 俺と友達になろう!』


 と男は言ってきた。


 幻覚のくせして失礼なやつだと思ってしまって、ついうっかり舌打ちが漏れた。

 それからすぐに幻覚に背を向け、再びスタスタと歩き出した自分の前々わざわざ男は回り込んできて、


『辞める時も健やかなる時も今日から俺たち友達だ!』


 と再び言ってきたのである。


 押し付けがましい『友達』アピールについカッとなってしまった真緒は、「うっせぇわ!」の言葉と共に思わず幻覚を殴っていた。そしたら確かな手ごたえがあった。幻覚はなんと幻覚ではなかった。「友達になろう!」と言ってくる男子は実在した。実在したのだ!


 男を殴ってしまったせいで、周囲ではまたぞろ真緒の陰口が囁き交わされていたが、真緒はそれどころではなかった。天変地異ですらあった。これまで真緒には友達ができたことがない。それ故にこの『友達志願者』の登場はあまりにも衝撃がデカすぎて、彼女は一瞬でパニックに陥っていた。


 動揺のままに自分が何をしでかし、何を口走ったかもロクに覚えてはいない。気づいたら男を置き去りにして、彼女は慌ただしく昇降口で靴を履き替え通り過ぎると、慣れ親しんだ職員室近くの学生用トイレ(生徒の利用が少なくて一人静かで平穏な時間を過ごせる場所である)へと駆けこんだ。


 それから、個室へと飛び込み扉を閉め、ホッと一息ついたところで……。


「……ん、んひっ、ぬひひひっ」


 にへらぁ、とあからさまに表情が緩んだ。


「え、えへっ、えへへへへ……友達、えへへ、友達かぁ……そ、そんなに必死に頼むなら、えへへへっ、なってあげなくも……んへへへへっ」


 ゆるゆるに緩んだ表情筋が、彼女の浮かれた内心を物語っていた。


 そう、阿久津真緒は浮かれていた。よく分からん謎の男からいきなり『友達宣言』をかまされてめちゃくちゃ狼狽えていたが、それ以上に浮かれまくっていた。


 だが、一頻り顔面をにへらつかせたところで、阿久津真緒はふと冷静さを取り戻す。

 それから、


「え、あれ……わ、私、もしかしてまたやっちゃった……?」


 先ほどまでの浮かれ顔から一転、彼女の顔面からサァァっと血の気が引いていく。


 それはパニック状態に陥っていたせいで、ついさっきまでは完全に頭からふっ飛んでいた記憶––『友達宣言』をしてきたよく分からんあの男子の顎にエルボーを打ち込んだ結果、相手がそのまま倒れ込んだという致命的な記憶を思い出したためである。


 友達であろうと、基本的に暴力はNGという常識ぐらいは阿久津真緒とて知っている。なのに右ストレートで顔面を撃ち抜くは、顎に思い切りエルボーを叩き込むわ––自分は一体何をした?


 せっかく『友達』になろうと言ってくれている相手に対して、あまりにもあまりな対応である。あんなことをしでかせば、一体どういう理由による申し出だったのかについては判然としないが、『友達』になろうという気を失くされても仕方がない。


「わ、私は、なんてことを……千載一遇のチャンスが……」


 声を震わせ、阿久津真緒が項垂れる。


 阿久津真緒は心が弱いのである。己の失態に、メンタルはあっさりぽっきり逝っていた。

 もし阿久津真緒がヴァンパイアかなにかだとしたら、きっとショックで砂とかになっていたことだろう。それほどまでに、彼女の絶望は深かった。


「うーーーーー! うぅぅぅーーーーー!! どうしようどうしようどうしよう……私完全にやらかしてるよね? 人を殴るのだけはもうやめようって思ってたのにこれはさすがに言い訳できな……くもない、んじゃない? いや、ほら、だっていきなり向こうがよく分かんないこと言って絡んできたわけだし……こ、これは、そう! 正当防衛! 不審者に対する正当防衛だから! だから私悪くない! 私と同じ立場なら多分誰でも殴る……と、思う。きっと、ううん、絶対!」


 言い訳がましく小声で早口で阿久津真緒が独り言を口走る。

 阿久津真緒には悪癖があった。パニック状態に陥ると、心の均衡を保つために必死で自分を守るための言い訳を次から次へと生み出すという悪癖である。まさに今、その悪癖を彼女は発揮しているのであった!


「あ、アイツもアイツよ! 仮にも異性である私に馴れ馴れしく声をかけてきて、肩まで組んで……う、うん、これは立派なセクハラね! きっとヤリチンに違いないわ! あんなこと言って私を騙して都合のいい女に仕立て上げようとしているのよ! ふんっ!」


 おぞましい、とでも言いたげに阿久津真緒がブルりと体を震わせて、両手で自分の肩を抱く。

 それからさらに言い訳がましく、


「だ、だからっ、アイツがどんな甘いこと言ってきたとしても、『友達』までにしかなってあげないんだからねっ! そ、そう、『友達』ならいいのよ! そこまでだったらいやらしくないもの!」


 あえて作った怒った声でそうまくし立てる阿久津真緒は、自分では全然気づいていない。

 自分が『チョロい女』そのもののセリフを口走っていることに。


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