2.ワン・ノート ①
どちらを向いても霧がかかったようにほの白く、見渡す限りなにもない空間で、かえでは蒼との過去をふり返っていた。
かえでは過去に蒼の記憶を三度、抜いた。
一度めは、かえでが祖母に預けられてまもない小学一年生のときに、偶然で。二度めは、中学に上がったときに、これも偶然だった。
三度めは中三の冬で、初めてかえでから手を触れた。そのときに初めて、かえでは眠気で倒れた。
昔の蒼は、今よりも無口だった。
幼いころを思い出すとき、最初に浮かぶのは黒のランドセルを背負った背中だ。
祖母の家は、小学校からもっとも遠い西の外れにある。だから、かえでの次に学校から遠い場所に自宅のある蒼が、毎朝迎えにきてくれた。祖母が蒼の母に頼んでいたと知ったのはあとからだ。
学校に着くまでには、道幅が細いわりに車の往来が多く危険な通りを渡る必要がある。五年生だった蒼の存在は、祖母にとって安心材料になったのだと思う。
「決して、ほかのひとに触らないようにするんよ」
「はい、おばあさま。気をつけます」
かえではランドセルに体を潰されそうになりながら、すたすたと歩く蒼の背中を毎朝追いかけた。
とはいっても、懸命に足を動かしても蒼とは歩幅の差がある。だから、かえではよく転んだ。
ある日、転んだ拍子に手をついた場所が悪く、かえでは手のひらを石で切った。
皮膚がひりつき、脈打つ血は普段より鮮明に感じられたが、かえでは泣かなかった。それよりも、この血を流しきってしまえば、奇妙な力が消えるかもしれないと期待した。
いま思えばすり傷くらいで血が止まらないはずもないが、そのときは真剣にそう思った。
切った手のひらをぼんやりと見ていたかえでは、蒼の声にわれに返った。
「おい、手、血が出てる。砂もついてるぞ」
蒼の手が近づいたと思ったときにはもう遅く、触れてしまったあとだった。
そのときは記憶を抜いても眠気に襲われることはなかったので、かえでは何食わぬ顔で学校へ行った。
怪我をした手のひらは、蒼の目に触れないように強く握りこんだ。かえでが転んだ記憶は、蒼から抜いてしまった。血の流れる手を見せても、唐突すぎて不審がられるだけだ。また手を取られても困る。
爪が傷口に食いこみ、血が手首まで流れて筋を作ったが、保健室にも行けない。もう二度と手には怪我をするまいと、かえでは幼心に決意した。
蒼は、「おまえがトロいせいで遅刻する」と文句を言っただけだった。その日のうちに、祖母が白い綿の手袋を買ってきた。
「毎日これをしていきなさい。誰に言われても外さないようにするんよ」
それからのかえでは、常に手袋をするようになった。
友達にからかわれ、教師に「プールの授業では外しなさい」と言われても、かえでは手袋を外さなかった。手を見せろとはやし立てられ、見せないのは手の肌が火傷でただれているからだと決めつけられても、決して見せなかった。
そのうち、かえでは友達の輪から外されるようになった。クラスメイトが休み時間にグラウンドで遊んでいるときも、かえではひとり教室にぽつねんと座っていた。
そんな毎日で唯一、蒼と登校するときだけはひとりじゃなかった。
蒼だけは、一度もかえでの手について尋ねなかった。そう気づいたのは、蒼と登校する日々が終わってからだ。
二度めは、かえでが公立中学に入学してまもない春だった。
どんな流れだったかはうろ覚えだが、大人たちの手によって、かえでと蒼は中学の正門横に並ばされ記念写真を撮った。撮ったのは祖母だ。
蒼はそのころかえでとは別の、有名中高一貫校に通っていた。かえでは、前にも増して不機嫌そうな学ラン姿の蒼に肩を縮めながら、隣に並んだ。
蒼にしてみれば、なにが悲しくて通ったわけでもない中学で写真を撮らされるのか、という気分だったと思う。しかも、家族でも恋人でもない相手と。
当時、蒼にはカノジョがいた。
珍しく用事があって外出した休日、ふたりが映画館に並んで入るところを見かけたことがある。カノジョは蒼を「蒼くん」と呼んでいた。細面で
そのカノジョがある日、才宮家にやってきた。
「あなただけは嫌なの。蒼くんとふたりで会わないで」
きょとんとするかえでに、カノジョは手にした写真を突きだした。
どうやって手に入れたのか、蒼との記念撮影の写真だった。写真の中で、かえでは蒼に寄りかかっていた。
実際には、肩に乗った虫に騒いだ弾みで蒼と近づいただけ。だが、カノジョには納得してもらえなかった。
カノジョを追いかけてやってきた蒼が、カノジョを取りなした。
「かえではただの近所のガキだ」
「この子のこと、名前で呼んでるの? どうして。私のことは苗字なのに」
カノジョはかえでの目の前で写真を破き、顔を覆って泣いた。蒼がなだめても逆効果だった。カノジョは蒼の手を振り払い、かえでにつかみかかった。
「やめてください……!」
抵抗したとき、白手袋が外れかけた。かえでが青ざめるのを見てとるや、カノジョは勢いづいた。蒼が割って入ったときには遅かった。
手袋を外されたかと思うと、カノジョに素手をつかまれた。かえでとカノジョを引き離そうとした蒼の手まで、触れてしまった。
蒼とカノジョの記憶が流れこんだ。
触れる寸前に頭にあった、この喧嘩の記憶。カノジョからはほかに、かえでへの不快感がにじんだ記憶も抜けた。
それが、最初の二度について。
幼なじみだと胸を張って言えるほど親しくはなかったけれど、今はもうかえでしか知らない、蒼との思い出だ。
思い出が際限なくよみがえりかけ、かえでは足下の白砂をさく、さく、と鳴らしながらかぶりを振った。胸のいちばん奥にそれらを戻し、慎重に蓋をする。
それからかえでは、ふたたびなにもない空間を当てもなく歩きだした。
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