1.プロポーズ ⑥
小指を離した香子は、ソファにもたれていた背を伸ばし、晴れ晴れとした表情で伸びをした。
「すっきりした。デトックスってこういうことを言うのかしら。かえでさんのおかげで、霧が晴れたみたい」
かえでは、早くも眠気が近づいてくる予感に目をしばたたく。
香子が消すと決めた記憶は、前の恋人との将来の約束だった。恋人との日々を重ねながらも、別の男性が約束どおり迎えにくるのを二年間も待っていたのだ。
なにかが胸に引っかかった。
「香子さん、差し支えなければ……今おいくつでしょうか?」
「私? 今年で三十二歳になったわ」
かえでが見た記憶のなかで、香子は二年後は三十歳だと言っていた。
「前の恋人とはその後……?」
尋ねずにはいられなかった。どうして約束を忘れることにしたんだろう。約束そのものの記憶は消えたから、直接なぜとは尋ねられなくても。
「彼? 去年の七夕だったかな、日勤明けが健吾の帰りと重なったのね」
――食事、行きませんか。
いつになく緊張した面持ちで誘われたから予感はあった、と香子が続ける。今日は誘いを受けないほうがいい。
香子は口実を作ってかわそうとしたが、健吾は病院を出る香子についてきた。いつなら食事行けますか、なんならお茶だけでも。
これだけつれなくしてもめげないなんて、どれだけメンタルが強いんだか。呆れ半分に苦笑しつつ、香子が健吾を振り切ろうと歩調を速めたときだった。
「彼が、ベビーカーを押す女性と買い物をしてるところを見たの。とっくに日本に戻ってきてたんだ、って思ったっけ」
「それで……?」
「それでもなにも。健吾に、付き合おっかってその場で言ったわ。健吾のはしゃぎようには参っちゃった」
だから香子はさっき「逃げた」と言ったのか。結婚を約束したはずの男性が、別の女性と家庭を作っていた……見たくないものを見てしまった弾みだったから。約束したひとは来ないと、香子は知っていた。
記憶を抜いた今となっては、確かめるすべもないけれど。
捨てきれなかった感情はしこりになって、約束を思うたびに胸の内で疼いたのではないか。新しい恋人との仲を善意で応援されれば、なおさら。
鼻の奥がつんとして、かえでは一度目をつむった。香子はきっと、忘れることを選んだ決断を喜んでほしいだろう。
こみ上げるものを押し留めて目を開けたときには、笑みを浮かべることができた。
「私の話を受け止めてくれたのは、かえでさんが初めて。私の気持ちを守ってくれて、ありがとうね」
かえでは落ち着きなく首を横に振る。守るなんて大仰な物言いだったと思う。感謝されるのにも慣れない。
「彼とのことは報われなかったけど……好きだった気持ちは不毛なんかじゃなかった。そう思って初めて、実はこの気持ちを誰かに受け止められたかったことに気づいたの。批判も非難もなしでね。案外、かえでさんが身近な相手じゃなかったから、よかったのかも」
さっぱりと告げる香子を見たとき、ふとある予感が生まれた。
「身近なひと……生谷さんの恋人も、受け止めておられたんじゃないでしょうか。ずっと生谷さんを見てこられたんですし、生谷さんがその気持ちを消化するのを、待っておられたのではないでしょうか? なんて、わたしの想像ですけど」
一年近くそばにいれば、香子の悩みに気づいてもおかしくない。その上で、恋人は香子を見守っていた……そんな気がする。
香子の目が、なにかを探すように揺れた。
「……健吾がやってたパズル、あれ、健吾ってば色が不揃いのままうちに置いて帰っちゃったの。揃えてもらわないと、なんか気持ち悪くって。健吾に連絡してもいいと思う?」
「もちろんです! すぐ会って、お話してください」
そうする、と笑った香子の頬に、もう涙の跡は見られなかった。
香子がなにか言う。しかし、かえでは眠気に引きずりこまれたせいでほとんど聞き取れなかった。
かえでの意識が、深く落ちていく。
「――あなたは、かえでさんのお知り合い? よかった、いま救急車を呼ぶところだったの。かえでさん、急に倒れてしまって」
「神代といいます。この店の共同経営者みたいなものです。……かえでは心配要りません。処置後は眠くなるだけなので、あとは俺が引き受けます」
いつのまにか来ていたらしい蒼が、ごそごそと服を探る気配がする。やがて香子が「そう」と安堵の声を漏らした。かえでもほっとする。蒼がいて助かった。
眠るのはまだ早いと思うものの、ふたりのやり取りに意識を寄せるのがせいいっぱいで、頭が持ちあがらないのだ。
「処置後ってことは、私の記憶はかえでさんの中にあるのね」
「お返しはできませんが、かえでが取りだした記憶を見返すこともないと保証します」
本心からの言葉らしい気配が感じられたとたん、かえでの意識が浮上した。
蒼が「保証」という言葉を使うなんて思わなかった。もしかしてこの力を、信じてくれた?
「
香子が思い出したかのように笑うのが、空気のやわらぐ気配で感じられた。
「少しでもかえでさんの様子がおかしかったら、病院に連れていってあげてね」
物音とともに香子の気配がなくなり、かえではいよいよ意識を手放そうとした、が。
「吉野さんから連絡を受けて来てみれば、すべて終わったあとか。おい、勝手に依頼を受けたあげく、また勝手に寝る気か」
意識をこじ開けるようにして横暴な声が侵入する。まぶたを押しあげると、蒼の顔がドアップで映し出された。
「わっ、蒼さん」
「依頼人が『お願いしてよかった』って言ってたぞ」
かえでは寝ていたと思ったのか、蒼がさきほどの香子の言葉を繰り返す。
スーツ姿なので会社帰りだろう。蒼は、かえでの突っ伏したテーブルの向かいに腰を下ろす。かえでは手袋を嵌めそびれていた手を、顔の前にかざした。
「よかった、なんて。わたしのほうが、生谷さんに受け止めてもらったんです」
眠気に抗って自分の手を凝視する。初めて目を逸らさなかった。
気のせいか、これまでと見えかたが違う。かえではまばたきをしてふたたび自分の手に目を向ける。やっぱり。
目に入るたびに感じていた針で刺すような痛みが、今日はいつもより遠い。
無意識に口元がほころんで、かえでは重い頭を持ちあげる。蒼と目が合った。
「俺は納得してない。次こそ見せろ」
「少しは信じてくださったのかと。たしかさっき保証するって……」
聞いていたのか、と蒼が不本意そうに眉を寄せる。
「力のことじゃない。それとこれは別だ」
力を保証するのでなければ、なんだろう。だがふしぎと悪い予感はしない。かえではとうとう、眠気に覆い被されるまま目を閉じる。
最後に頭をよぎったのは、香子のやわらかな笑顔だ。恋人とうまくいくようにと願うのは、気が早いだろうか。
でも、そうであってほしいとかえでは心から祈った。
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