1.プロポーズ ⑤

 一歩外に出れば蒸し暑さに顔をしかめたくなる気候なのに、つかのま春先の冷たい風が頬を撫でたかと思った。

 かえでは、空になっていた香子の湯呑みにお茶を注ぐ。香子は、ぬるめのお茶をひと息に飲み干した。


「どうして消したいのか、お聞きしてもいいですか……?」


 ふたりの気持ちの向く方向が違うのなら、残念ではあるけれどプロポーズを断るのはしかたがないと思う。部外者が立ち入る問題じゃない。

 けれどかえでには、香子の話が消したいと願うほど辛い記憶にはどうしても思えなかった。

 だって、香子が恋人について語るまなざしは、優しかった。


「あれから、健吾は一度だってプロポーズのことには触れない。これまでどおりよ。でもずっと、私が断ったときの健吾の顔が頭にちらついて離れないの。こんなの困る。卑怯ひきょうよ……お願い、早く消して」


 香子が浅い息を漏らす。思いつめた気配が伝わってきて、かえでは息をのんだ。

 手袋を嵌めた自分の手に視線が落ちかけ、すぐに逸らす。

 引き受けるのは怖い。だが、求められたのに無視するのも気がとがめる。気持ちは天秤にかかって左右に揺れる。

 記憶を抜いたあとの香子は、かえでを見る目を変えるだろう。気味悪がられるか、あるいは作り話だと取り合ってもらえないか。

 取り合わないどころか、苦情をぶつけられる可能性もある。なにしろ記憶を抜いた証拠が残らないのだ。もし蒼のように香子から「戻せ」と言われても、かえでにはどうすることもできない。

 そもそも、見せると約束した蒼もいない。断る口実が見つかり、かえでは頭を下げた。


「すみません。今日は立ち会いがいないので、どちらにせよ日を改めないと」


「お願い、なんとかならない? 約束まで、あともう少しだから。あと少しで、彼が来るの」


 約束、と訊き返したが、香子は張りつめた表情を見せるだけで返事はなかった。

 それでも、待つ相手は恋人とは別の男性だということくらいは、聞かなくてもわかる。かえではぎゅっと目をつむる。

 ともあれ助けを求められているなら、応えたい。かえでとは無関係な他人で、なにかする義理もない、けれど。

 駅のホームで出会った女性が最後に見せた朗らかな笑顔が、かえでの脳裏をよぎった。あのときは女性が線路に飛びこまないようにと無我夢中だったが、今回は違う。香子も笑えるようになるのなら。

 かえではゆっくりまぶたを押しあげた。


「わかりました」


 かえではサイドボードに近づき、右側の引き出しから蒼が作成したばかりの契約書とペンを取りだすと、香子に渡す。

 香子は書類に目を走らせると、一拍置いてからペンを取った。「子」の字の横線が勢いよく引かれる。これでかえでも、あとには引けなくなった。


「これから、生谷さんと小指を絡ませます。消したい記憶を……プロポーズを頭に強く思い浮かべてください。その記憶を頭から追いだすイメージで。そうすれば、その記憶がわたしのほうに押し流されてきます。すべて思い浮かべたら、心のなかで『これで終わり』と言ってみてください。そうしていただくと、流れが途切れやすいと思います。わたしは流れが途切れたら手を離します。そのあとは、生谷さんの頭にはもうその記憶は残りません」


 話したばかりなのに、ふたたび消したい記憶を思い浮かべるのは苦痛だろう。思い出したくないからこそ、消したいのだから。

 でもそうしなければ、ほかの記憶まで濁流に巻きこまれるようにして流れこんでくる。

 触れたときに相手が頭に浮かべた景色を、かえでは抜いてしまう。「消したい」という強い欲求だけでなく「消えたらいいな」という程度のうっすらとした願い、果ては消したいと思っていない記憶まで、なんでも。しかも強く願うほど、流れこむ速さが増す。

 抜く記憶はかえでの側では選べない。相手の手から離れるまで、記憶を抜き続けるだけだ。


「指先から、血が吸いこまるのに似た流れを感じると思います。意識がそちらにいってしまうので、頭がぐらつくかもしれません。よければこちらを使ってくださいね」


 膝に載せるようにとつけ加えてクッションを渡すと、香子さんは緊張した顔にわずかに笑みを乗せた。


「では、手を出していただけますか? 苦しい記憶を取り除きますね」


「苦しい……」


 つぶやいた香子の目が揺れた。

 香子はおそるおそるテーブルに右手を出したが、拳は握りしめられたままだ。

 その様子が気になったが、かえでも右手の手袋を外す。この力はどちらの手でも行使できるし、なんなら相手の手に限らず肌にさえ触れてしまえば、記憶は流れこんでくるものの。

 香子が拳を開く。爪が短く切りそろえられた、日ごろ患者の手に何度となく触れているであろう手だ。

 その手のひらに、くっきりと爪の痕が残っているのが目に入った。


「生谷さんなら、ぜったいに幸せになれます。だって、こんな得体の知れない商売を掲げる相手に、ご自身の心を預けると決めてくださったんですから。そう決めるまではきっとすごく怖かったでしょうし、迷われたんじゃないですか?」


 返事はなかったのが肯定の証だろう。だから、かえでにすがってでもなんとかしたいと思った香子の気持ちに、応えたい。

 かえでは香子のほうに身を乗りだした。


「それだけ大事で、守りたいお気持ちがあるんですよね。だから生谷さんの気持ちを……わたしも一緒に、守ります」


 そのときだった。それまで張りつめていた香子の表情が、支えを失ったかのように歪んだのは。


「生谷さん……?」


 かえでの声に、香子がけげんそうに首をかしげる。その頬を涙が静かに伝っていた。




 気まずそうに目を伏せた香子を見て、かえでは箱ティッシュを差しだしてから居間に下がった。

 なにが起きたのかかえでにもわからなかった。とっさに席を外したのは、初対面の人間の前では泣くに泣けないかと思ったからだ。

 湯を沸かし直してから居間に戻る。

 香子の目元はほんのり赤かったが、もう泣いてはいなかった。新しいお茶を淹れると、ありがとうと小さく口にする。かえでも香子の正面に座り直す。


「落ち着かれましたか?」


「うん。驚かせてごめんね。……っていうか、私もびっくりした」


 自分のことをオープンにしたあとだからか、香子の口調はいくらか砕けている。


「でも、やっとわかった」


 香子はそれ以上は言わずにお茶に口をつけると、湯気の立つ湯飲みを両手で包むようにして持った。

 訊き返す前に、その手がかえでの前に差しだされる。


「かえでさん。改めて、お願いします」


 かえではすぐに返事ができなかった。さっきと違って、もう拳は固められていないとはいえ、泣くほどのなにかがあったのに大丈夫なのか。

 かえでが逡巡すると香子がさらに手を伸ばした。


「抜いてほしいの。時間が経てば笑って思い出せるのかもしれないけれど、それまでに健吾がまたあんな顔をしたら嫌だから。……私、幸せになれるんでしょう?」


 香子のまなざしに力がこもった。


「……はい! わかりました。始めますね」


 香子は手を引かなかった。香子の小指に自分のそれを絡める。ピリ、と指先が痺れる。

 繋がった合図だ。

 ぬるま湯に浸かるような心地よい熱が広がる。

 中身がどんなものであれ、かえでの元に流れこむ記憶は、どれも人肌くらいの温度を持っている。悲しい記憶も、つらい記憶も。

 それらは、かえでのなかで色とりどりの糸の形を取り始める。まばゆい朝日に似た色から、井戸の底を覗いたかのような色まで。

 目がくらむうち、糸はり合わされ、この世のものとも思えない美しい織物を織り上げていく。

 かえではそのすべてを、なすすべもなく眺める。

 しだいに、香子が抜いてほしい記憶が輪郭を持って立ち現れる。


「これ……?」


 早くも記憶の糸を引っ張られて眠りにつきかけた香子が、かすかに微笑んだ気がした。

 それは、香子が最初に依頼した「健吾からのプロポーズの記憶」ではなかった。



「――二年間、中国支社に赴任することになった」


 逸樹いつきの手の中でウィスキーグラスの酒がゆらりと回るのを、香子はぼんやりと見つめる。

 地下にあるふたりの気に入りのバーは照明がほどよく落とされていて、ワイシャツの袖から伸びた逸樹の骨っぽい手をセクシーに浮かび上がらせる。


「戻るまで、待っていてくれたら嬉しい」


 ついてきてほしい、でも、待っていてくれ、でもない。判断を香子に委ねて、そのくせ香子が待つのを確信している。その狡さに気づいたのは、あとになって話をした職場の同僚に指摘されてからだ。

 逸樹が戻るまで二年。

 そのころには香子は三十歳だ。世の中がどれだけ晩婚化をうたおうとも、見えないボーダーラインの存在を意識せざるを得ない年齢。逸樹は三十六か。

 唐突に、その手をつかみたい衝動に襲われた。嫌だ、行かないで。

 思えば、このとき声に出して訴えればよかったのかもしれない。叫んで、決着をつけられたら。


「いつから……行くの?」


 だがけっきょく、香子は引き留めずに平静を装った。


「来月一日付で着任する。来週には発つ予定だよ」


「急すぎない? 準備だってあるのに」


 五月も後半を過ぎている。今夜が、逸樹が出発する前の最後の夜になるのは間違いがなかった。

 喉の渇きを覚えて、目の前のモヒートに手を伸ばす。喉の奥から頭のてっぺんにまでつんとした清涼感が突き抜けた。頭まで痺れてしまえばいいと思う。


「うちの会社では普通だよ。海外支社の駐在は出世コースなんだ」


 香子が口を挟む余地はなかった。冗談めかして言うのがやっとだった。


「二年もなんて気が遠くなりそう。あなたが戻るころには、きっと周りから売れ残りって言われてるんだわ」


 そうかな? と逸樹が前を向いたままウィスキーグラスを傾ける。


「二年なんてあっというまだよ。戻ったときには、いちばんに君のところにいくよ」


「……待ってる」


 淡い照明に照らされて歪んだ香子の顔が、逸樹のグラスに映りこむ。そのときは、待てば報われるのだと疑いもしなかった。 

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