1.プロポーズ ④

 電話口の祖母は、依頼がある素振りなんて微塵みじんも感じさせなかった。腰が痛いと言われたら、なにを置いても駆けつけるというものである。

 だからかえでは、完全に油断していた。


「才宮吉野さんの紹介で、うかがいました。生谷香子いくたにたかこです」


 きりりとした太めの眉、意志を感じるメイクに、明るい色の髪が肩に触れるぎりぎりの長さでととのえられている。祖母の家の母屋で出迎えたのは、かえでよりひと回りほど年上、三十代前半らしい女性だった。

 かえでがぽかんとするうちに香子は三和土へ下り、ていねいに手を揃えて頭を下げた。


「才宮さんからお話をお聞きしました。助けていただけないでしょうか?」


 ひとつひとつの仕草が、きびきびとして気持ちがいいひとだ。仕事でも有能なんだろうな、と思いかけ、かえでは慌てて香子に頭を上げさせた。

 まさか依頼人が実際に来るなんて。とんでもない。


「祖母がなんと言ったか存じませんが、わたしはお受けするつもりはないんです。ですからその、申し訳ないのですが、お引き取りいただければ」


 断るにしても心の準備もしていない。口調がたどたどしくなる。


「そこをなんとか、お願いします。このままでは苦しくて……話だけでも聞いてもらえませんか?」


 重ねて頭を下げられる。困惑して返答を探しあぐねていると、廊下の奥から祖母もやってきた。


「かえで。私からも頼むわ。香子さんは信用できるし、そこは心配しなくていいんよ」


 かえではトートバッグの取っ手を握りこんだ。じっとりと嫌な汗をかいている。

 心臓が嫌な音を立てる。これまでのことが思い返されて、息が浅くなる。やりたくない。叶うなら今すぐ逃げ出したい。


「お願いします」


 迷っているうちに、香子がさらに深く体を折る。かえではついに負けた。


「……お話だけなら。中にどうぞ」


 目の前で自分よりいい大人に頭を下げて懇願されて、見捨てることのできる人間がいたらお目にかかりたい。かえでは観念して離れの居間に香子を案内した。

 香子は看護師で、今日は夜勤明けなのだという。祖母が知人の見舞いで病院を訪れて以来、話をする間柄になったとか。

 香子はレトロな家具で統一された部屋を見渡し、顔をほころばせた。


「居心地のいい空間ね。かえでさんの趣味?」


「いえ。幼なじみが見立てたものです。お客様がくつろげるように……と」


 香子の表情を見る限り、その目論みは成功したらしい。かえでは客を迎えるつもりはなかったのだが。


「かえでさんも居心地がよさそう」


「あ……そうかも、そうですね」


 内装を変えたおかげなのか、ここは祖母からの借り物ではなくかえでの場所だと肯定されている気分がする。蒼の行動には正直なところついていけないものを感じていたが、意外な効果があったらしい。

 かえではソファに腰を下ろした香子にお茶を勧め、向かいの椅子に腰かける。


「才宮さんには申し訳ないけれど、どんな怖いひとだろうと思っていたから、かえでさんと、ここを見てほっとした。ここなら、だまされることはないなって。あ、ごめんなさい。記憶を消すって、そうそう信じられるようなものじゃなくて」


「わかります。わたしもそう思いますから」


 香子はほっとしたように湯飲みを両手で持ち、湯気に目を細めてから、切りだした。


「それで、消してほしい記憶というのはね……プロポーズなの。プロポーズされた記憶」


     *


 香子の斜向かいに座った健吾けんごが、真剣な顔で六面立体パズルをいじる。職場の送別会の景品で当たったのだとか。今どき、余興や景品の出る送別会というのも珍しいが、健吾の職場では年度末の異動時期には大々的な送別会をやるのが通例らしい。とはいえ、微妙なラインの景品だ。

 だが健吾の様子を見る限り、これはこれでいいんだろう。

 ぎゅっ、ぎゅっ、と小気味いい音が、卓上コンロにセットされた鍋のぐつぐつ鳴る音にかぶさる。

 六面あるうちの一面は揃えられたものの、その先が難航しているようだ。


「健吾、お鍋できたよ。食べよ。やっぱりお鍋にはビールだよね」


「もう三月だよ、たかちゃん。新年度だよ」


 返す口調は軽いが、どこか上の空だ。いいでしょ、と心の内でだけ言う。料理は得意じゃないんだから。

 冷蔵庫から出した缶ビールを健吾の前に置いても、健吾はまだ立体パズルに夢中のようだ。


「もうちょい待って、たかちゃん。あともうちょっとだから」


「そんなにハマってるの? じゃあ取り分けておくから、さっさと完成させてね」


「はーい」


 健吾は三歳年下の二十九歳だが、ときどき子どもっぽいところがあると思う。立体パズルをやっきになって完成させようとするところも、そのひとつだ。

 そのせいか、香子は健吾を、弟を見守るような目線で見てしまうときがある。病院でも、人なつこくて話し好きの性格は、先生たちにも評判がいい。

 健吾は香子の勤める総合病院に出入りするMRだ。製薬会社に勤め、医師に新薬の情報を伝えたり、逆に医師から新薬を投与した患者の予後をフィードバックとして受け取ったりする、あれ。

 煮立ってきたので火を弱め、健吾の取り皿に具を取り分けていく。

 今日はキムチ鍋だ。鶏肉、鶏肉、鶏肉、豚肉、にら、にら、白菜はほんの少し。

 圧倒的に肉派の健吾の取り皿はいつも肉だらけになる。キムチの強烈な赤には勝てないが、にんじんの鮮やかなオレンジ色も添える。

 自分の皿には白菜と春菊をたっぷり。それからお豆腐、おげ。

 健吾が珍しく無口なので、香子は先に缶ビールのプルタブを引き、飲み始めることにした。

 二年前、ナースステーションのカウンター越しに「付き合ってください」と言われ、即座に断った。それなのに何度もやってきては、同僚が見ていようが患者がはやし立てようがお構いなしでアプローチしてくる。

 まあいっか、と思うにいたったのは、それが一年ほど続いたころ。

 準夜勤上がりの真夜中にコール音ひとつで会いにいったり、得意でもないのに何時間もかけてお弁当を作ってあげたりするような情熱は、とっくの昔に置いてきてしまった。

 だからこそ、なのかもしれない。

 心が凪(な)いでいられる健吾との時間は、悪いものではない。


「――できた! 見てよたかちゃん、全面揃った」


 健吾が顔を輝かせて立体パズルを突きだす。


「これって全面揃うものなんだね……」


「感想そこ?」


「はいはい。すごいよ、健吾」


 清潔感のある短髪頭には、犬みたいにピンと立った三角の耳が見えるようだ。尻尾があるとしたら、きっとぱたぱたと振っているに違いない。


「さ、食べよ。お腹空いた」


 湯気の出なくなった皿を取りあげ、お肉を頬張る。ジューシーな食感に染みだす旨味、あっさりした出汁のハーモニーが最高だ。ビールにも合う。

 ところが健吾は鍋に手をつけない。


「ねえ、たかちゃん」


 健吾が手元のパズルに目を落とし、また顔を上げる。やけに真剣な顔があった。


「おれたち、そろそろ籍を入れてもいいんじゃないかな」


 白菜を食べようとした箸が止まる。ぽた、と出汁が取り皿に落ち、香子は急いで白菜を口に入れた。

 はふ、はふ、と冷ましながら涙目で白菜を咀嚼するあいだ、健吾はいつもみたいに笑わなかった。


「ほら、年末に帰省したじゃん? そんときに、たかちゃんの話になってさ。一度連れてきなさいってせっつかれたんだ。おれたちもそろそろいい歳だし、人生のパズルも全面揃えようよ、これみたいにさ」


 健吾がどや顔で、どの面も色の揃った立体パズルを顔の前にかざす。


「……健吾、具が冷めちゃうよ」


「あれ、うまいこと言ったと思ったんだけどな。おれたちもう一年になるよ? 結婚してもこんな感じでやっていけると思うんだ」 


「……健吾は、私と結婚したいと思ってたの?」


 声が強張った。


「もちろんだよ。たかちゃんが好きだもん」


「だもん、って言われても……」


 そういうところが子どもっぽいと思われるところよ、とは言えなかった。健吾の目がみるみる見開かれていく。

 今にも泣きそうだと思ったが、健吾は泣きはせずに香子ににじり寄った。


「ごめん、早まった? 別に今すぐじゃなくても、ぜんぜんいいんだ。仕事も辞めろとは言わないし、子どもだってまだ考えられないなら先でもいいんだ。だから」


「……健吾、別れよっか」


「たかちゃん!? おれのこと嫌いになった?」


「そうじゃないけど……健吾、離れて」


 肩を揺さぶられても抱きしめられても、気持ちは揺れなかった。


「健吾、離れて」


「嫌だ」


 健吾にますます強く抱きしめられる。けれど頭は妙にえていて、嫌いだと言えばよかったななどと思う。

 一緒にいて疲れないし、居心地がいい。だけどこの先も一緒に生きていくなんて、正直にいえば考えもしなかった。


「たかちゃんがまだ考えられないっていうなら、いくらでも待つから」


 ――私も、待ってるの。

 もうずっと、健吾と過ごすようになる前から待っているのだと、もう少しで言いそうになる。


「お願い、たかちゃん。別れたくないよ」


 抱きしめられた腕を押しやると、ややあってから健吾がすごすごと自分の場所に戻る。

 ビールに口をつけると、喉越しを堪能するにはぬるくなったそれが、苦みだけを口の中に残していった。

 返す言葉を探しながら、次々に鍋の具を頬張る。「じゃあ」とぽつりと言うと、健吾が身を固くした。


「……さっきのは聞かなかったことにさせて」


 健吾がかすかに顔を歪めて「いいよ」と笑う。その手にあったパズルの色が、いつのまにか不揃いになっていた。

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