1.プロポーズ ③

 ゴールデンウィークが終わり、また説明会や筆記試験を受ける日々が始まった。さいわい、真面目な学生であるかえでは講義の単位はほぼ揃っている。あとは卒論だけなので、かえでは就活に集中していた。

 昼は会社をはしごし、夜は家でエントリーシートに頭を悩ませる。

 お祈りメールに心を抉られる日々。手持ちのカードがみるみる減っていき、新たに応募を増やさないと安心できない。大学へも顔を出し、求人情報も欠かさずチェックする。

 もともとやる気もなかった「仕事」など、かえでの頭からすっかり抜け落ちていた。

 蒼や祖母からも連絡がなかったので、やはり客など来るわけがないと高をくくっていたのである。

 そんななか、珍しく説明会も試験もない休日に、かえでは祖母に呼ばれた。

 祖母の家を訪れたかえでは、離れの三和土たたきを上がって居間に入るなり、目を疑った。


「蒼さん、なにしてるんですか……」


 蒼がなぜか、我が物顔でソファに腰を落ちつけている。かえでが、関わらないほうがいいと言ったのにもかかわらず。

 今日の蒼はスーツではなく、ベージュのチノパンにブルーグレーのカットソーというラフな格好だ。家の主でもないのに、すっかり部屋に馴染なじんで見える。

 いやしかし、である。蒼の腰かけているソファに見覚えがない。

 それどころか、大正モダンな調度品はどれも、かえでが初めて目にするものだ。


「客が来ないから、吉野さんと相談して内装を変えた。これで依頼人もくつろげる」


「内装って……これぜんぶ? どこから」


 深い青の天鵞絨ビロード貼りの座面に、背もたれとアームの部分の透かし彫りがレトロモダンなソファ。ソファと揃いの透かし彫りがあしらわれた椅子。暗めの色味が落ちついた雰囲気の丸いテーブル。両側に引き出しを備え、真ん中の引き戸にはステンドグラスを嵌めたサイドボードとシェードの美しいランプまでしつらえられている。

 かくて、この部屋だけは大正時代の洋館みたいなものに変貌へんぼうを遂げていた。


「職場の伝手で安く譲ってもらった」


「蒼さんはなんのお仕事をしてらっしゃるんですか?」


「絵画や骨董品を扱うギャラリーで働いてる」


 意外だ。昔から優秀でそつのなかった蒼なら、名だたる大企業に勤めていてもおかしくないと思っていた。


「ほかにも道はあっただろうけどな。自分次第でなんでもできるところとか、わりと気に入ってる。面白い」


 骨董品の売買には蒼の年齢でも経験が足りないらしく、主な仕事はプロモーションだという。展示会の準備や、作家とのやり取りなんかも含まれるらしい。

 営業と広報にIT担当といったところのようだ。本人が言うように、なんでもありである。


「蒼さんって、すんなり内定が出たひとですね……?」


「まあ、歩き回った記憶はないな」


 たまにいる。特に身を入れたわけでもないのに、すんなりと一社目で内定をもらい、いつのまにか就活を終えている輩が。そもそも生まれた世界が違ったのだろうか。

 石でも投げつけてやりたい気分になり、かえでは歯ぎしりした。


「それより、これ作っておいた」


 かえでの恨み顔を平然と流すと、蒼はA4用紙をかえでに渡した。受け取って目を落とす。そこには大きく「同意書」と書かれていた。


 

 ・消去した記憶の復元はできません。

 ・記憶が消去されたのち、お客様ご自身では「消えた」と確認できません。あらかじめご了承ください。

 ・記憶を消去したことによりお客様に発生したいかなる不利益も、当方は負いません。

 ・お客様の記憶については、秘密厳守致します。

 ・前金制です。いかなる理由でも返金はいたしません。



「なんですか、これ」


 最後には「以上の項目にすべて同意します」の一文と署名欄が設けてある。かえでは肩から提げたトートバッグを絨毯じゅうたん敷きの床に置き、顔を上げた。


「必要だろ。あとで揉めたときのためにも、契約は必須だ」


「本気ですか……?」


「本気だからこうやって準備してる」


 かえではため息とともに同意書を蒼に返し、キッチンに向かった。

 離れには、浴室以外はひととおりのものが揃う。玄関を上がってすぐ右手には、コンパクトながら必要な機能の揃ったキッチンがあり、簡単な食事も作れる。

 部屋は居間のほかにもうひと部屋と、洗面所とトイレもある。いずれも、いつでも使えるように綺麗きれいにととのえられていた。

 かえではキッチンでほうじ茶を淹れ、居間に戻った。まずはお茶でも飲んで、気を落ちつけよう。それしかない。

 湯呑みのひとつを蒼の前に置くも、蒼はまだ同意書の文面を検討していた。


「ネックになるとしたら、前金制か? しかし抜いた記憶を目で確認できない以上、後払いしようにもな……」


 記憶を抜いてからでは、その記憶を抜いた仕事への対価を決められない。

 だから前もって抜きとる記憶の重要度に見合う「お気持ち」を受け取るべきだ、ということらしい。


「悪意避けのためにも前払いがいいんだが」


「お金を取るのが間違ってると思います」


 自分の湯飲みも置いて蒼の向かいに座ると、書類から顔を上げた蒼が眉をひそめた。


「サービスには相応の対価が要る。自明だろ。信用を得るためにも金を取るべきだ。タダ働きは軽んじられるぞ」


「こんなの、対価をいただけるサービスじゃないですよ」


 サービスどころか、損害賠償請求をされる未来を想像するほうが簡単だ。


「忘れたい記憶のひとつやふたつ、誰だってあってもおかしくないだろ。OLがそうだったのをもう忘れたのか? 人間ってのは、忘れたい記憶ほど忘れられないもんなんだ。忘れられないから苦しむんだよ。だからそれを抜くのは、立派な商売になる。吉野さんも賛成しただろ」


それはそうかもしれない、とうなずきかけ、かえでは気を引き締めた。理路整然とした説明に、あやうく流されるところだった。


「いくら蒼さんとおばあさまが乗り気でも、わたしはやりませんからね。蒼さんは興味本位なんでしょうけど、この能力は蒼さんが思うほどいいものじゃありません。ひとを傷つけたり気味悪がられたり……いいことなんてひとつも」


「だから使いかたを考えてるんだろ」


「使いかた?」


 切れ長の目を凝視すると、蒼は目を逸らした。


「まあいい。それより、吉野さんの伝手だけでなく、こちらでも動くべきかもな。このままでは開業早々に廃業することになる」


「廃業万歳ですよ。わたしには就活という大事なミッションがあるので」


「そっちはどんな状況なんだ?」


「今は説明会に行ったり、エントリーシートを提出したり……です」


「面接は?」


「……一次止まりです。わたしみたいなのを採用してくれる奇特な会社って、どこにあるんでしょうね」


 われながら卑屈な言いかたになってしまい、かえでは最後に「あはは」と笑ってごまかした。よけいに切なくなるだけだった。

 ジェンダーへの配慮は進んでも、残念ながら瑕疵があると思われるのか、面接では手袋をした手について質問をされることがままあった。そんなこともあろうかと、事前に理由は考えておいたが、騙すようで気が咎めてしまう。

 本音と建て前を分けられる器用さがあればよかったのだが、受け答えはぎこちなくなった。

 なんとか面接に進んでも落とされるのは、それが原因だろうと思っている。 


「今のままの状態で続けても、内定は出ないだろうな」


「なんて不吉なことを言うんですか! 蒼さんにわたしの気持ちなんか、わかるわけないです!」


 かえでは憤然として離れを飛びだした。

 かえでは努力をおこたったわけではなかった。ただ、うまくいかない。

 蒼のように大一番でも緊張せず、スムーズに自分の進む道が決まった人間には、きっとかえでの抱える焦燥も自己否定感も理解できないに違いない。だからって、不安を煽らなくてもいいではないか。

 悔しさもあり、蒼の連絡も無視してますます就活に懸命になったかえでだったが、その後も就活は思うように進まなかった。


「またお祈りメール……」


 大学の構内でスマホをチェックしたかえでは、がっくりと肩を落とした。

 一次面接の壁も突破できないで、内定をもらえる日なんてくるのだろうか。

 採用してくれるなら、どんな会社でも職種でもいいのだ。真面目に働くし、役に立てるよう努力する。ひとと触れない業務ができる職に限るという制約はあるものの。

 かえでは時間の合間を見つけては、すがる思いで就職課の扉をくぐる。

 しかし一向に成果に繋がらないまま、世間は今年の梅雨入り時期が予想されるころになってしまった。

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