1.プロポーズ ①

 ここ数年で有名になった観光地にほど近い駅で電車を降りると、改札を出たところで蒼が先に待っていた。


「お休みの日にありがとうございます、蒼さん。こっちです」


 かえでたちは、観光名所がひと目でわかる案内板や、地元の名産品を置いた土産物屋や休憩所が並んだ西口広場を通り抜ける。ゴールデンウィークまっただ中、しかも六月初旬並みの陽気とあって、広場も観光客で賑わっていた。


「この駅もここ数年で利用客が増えたな。昔は寂れてたのに」


 蒼が、土産物屋を冷やかす観光客に目を細める。


「今は実家住まいじゃないんですね」


「大学入学のときに家を出た。今は正月くらいしか帰ってないな」


 蒼の実家は、これから向かうかえでの祖母の家から車の往来の多い道を一本越えた先の、商店街の近くにある。

 もっとも、当時は蒼がかえでの家に迎えにくることがほとんどで、かえでが蒼の家に行ったことは数えるほどしかない。今ではすっかり疎遠になった。


「そっちはどうなんだ。祖母ばあさんが唯一の身内なんだろ」


 かえでははい、と相づちを打つ。今日を迎えるにあたって、蒼にはあらかじめ事情を説明してあった。


「親は離婚して父親は今どうしているか連絡もないですし、母は再婚して新しい家族と住んでますから」


 かえでは六歳のときに祖母の元に預けられた。

 能力が発現したのがきっかけだった。


「といっても、中学のときに転校したので、おばあさ……祖母の家に住んでたのは八年くらいですね。そのあと大学入学と同時に戻ってきたんですけど、ここからだと大学までの交通の便がよくないので。マンションからなら電車で十分もかかりませんし、祖母に自立するよう言われたのもあって」


 通っている大学名を伝えると、蒼にもすぐ位置関係がわかったようだ。「なるほどな」とうなずく。

 再会したあの日、なんだかんだ言いつつ蒼はかえでをマンションまで送ってくれたのである。かえでの住む場所もやはり覚えていたのだろう。

 人々がガイドブックを手にしてそぞろ歩く道を逸れ、曲がりくねった道を歩く。

 お天気アプリのトップページで六月並みの陽気だと目にしただけあって、今日は絶好の行楽日和だ。しかしいま、かえでが汗を掻いているのは緊張のせいだ。間違いない。

 その緊張の原因のひとつである、蒼の横顔を盗み見る。

 スーツに包まれた長い足を動かす様子はいたって涼しげだ。これから突拍子もない話をしにいくというのに、緊張のきの字もなさそうでいっそ感心してしまう。


「蒼さんって、焦ったり、取り乱したりしたことはありますか?」


「ディスってんのか」


「とんでもない! 緊張してなさそうで、羨ましいなって」


「万全の準備をして臨むんだ。なにを緊張する必要がある」


 準備の程度に関係なく、緊張するときは緊張しそうなものだと思うけれど。しかし平然と返されれば、乾いた声で「はい」と言うのがやっとだ。

 そういえば蒼は昔から、なにかにつけてそつがなく優秀だった。というか蒼なら、準備の有無に関係なく眉ひとつ動かさずに対応しそうだ。

 石垣と土塀で囲われた、古くから続く家々を左右に見ながら坂道を上りきる。ひときわ立派な塀が目に入ると、蒼が足を止めた。


「これが、そのお祖母さんとやらの家か。でかいな」


 才宮家は、明治時代から続くいわゆる旧家だ。土塀に囲まれた敷地に、昔ながらの日本家屋である母屋と離れが建つ。

 大昔は才宮の分家もおなじ敷地に住み、使用人を何人も雇っていたらしい。しかし現在は、祖母とお手伝いの早苗さなえだけだ。

 といっても昔はこの一帯が、ただの寂れた田舎だった。観光地としての価値を見出され、地価が上がったのは、ここ数年のことだ。

 門扉もんぴのインターホンを鳴らして敷地に入る。引き戸を開けて玄関に足を踏み入れると、早苗が急ぎ足で奥から現れた。


「かえでさん、おかえりなさい。久しぶりですねえ。ひとり暮らしで苦労されてませんか? 吉野よしのさんも、本心はかえでさんと暮らしたいんですよ」


「ううん、わたしもおばあさまに頼ってちゃいけないと思うから、いいの。ひとりもけっこう気に入ってるし」


 交通の便も、祖母の言葉も、ひとり暮らしのきっかけではあるが、それだけが祖母の家を出た理由でもない。祖母や早苗と同居すれば、常に手のことを考えて気を抜けなくなる。

 早苗は納得してうなずき、かえでの横に並んだ蒼に目を留めた。


「蒼くんもずいぶん久しぶりですねえ! うちに来るのにスーツなんか着る必要ありませんのに! いつ以来でしょう? 大きくなりましたねえ」


 親しげにされても、記憶のない蒼には戸惑いを引き起こすだけだろう。かえでは、蒼が返事をする前に口を挟んだ。


「早苗さん、おばあさまは?」


「はい、吉野さんもお待ちかねですよ。どうぞ、ゆっくりしてくださいねえ」




 さっそく靴を脱いで上がり、板張りの廊下を奥へ進み、畳敷きの応接間に入る。

 淡い藤色の着物にミルク色の帯を合わせた祖母が、かえでたちに気づいて立ちあがった。


「久しぶりね、蒼。元気にしていた?」


 祖母が感慨深げに言う。祖母は昔から、この年上の幼なじみを気に入っていたのだ。


「……初めまして、神代蒼と申します。今日はお時間をいただきありがとうございます」


 礼儀正しくそつのない挨拶だ。けれど一瞬だけ蒼が困惑を浮かべたのを、かえでは見逃さなかった。


「おばあさま、電話でも話しましたけど、今日は」


「わかってるわよ、かえで」


 祖母には蒼に昔話をするなとあらかじめ頼んであるものの、ぴしゃりと言われると反射的に背筋が伸びる。そうでなくても、祖母と話すときは癖で今でも敬語になる。凜としたたたずまいの祖母には、そうさせる雰囲気があった。その反面、祖母はかえでのためとなると見境みさかいがなくなるのだが。

 祖母に勧められ、かえでと蒼は年代物の重厚そうな座卓につく。早苗がれたお茶を飲もうとして、かえではあれ、と湯飲みを覗きこんだ。


「早苗さん。緑茶じゃなくてほうじ茶に……」


「そうでした! 蒼くんは緑茶が飲めないんでしたねえ。すぐ淹れ直します」


「……いえ、今は飲めますから」


 蒼は片眉を上げたが、それ以上はなにも言わずに緑茶を口にした。早苗が下がるのを待って本題を切りだす。蕩々と説明する蒼の隣で、かえでも居住まいを正した。

 今日は、記憶を抜く商売の話をしにきたのだった。

 まだ学生だから家族の同意もなしでできるわけがない、とかえでが抗議した結果である。われながらいい断り文句だと思ったのに、蒼は「なら話を通しにいく」と、今日この場をセッティングしてしまったのだった。

 しかし、勝ち目はかえでの側にある。

 幼かったかえでに異能を教え、他者に触れないようにと手袋を与えたのは祖母だった。祖母は体育の授業をすべて見学させ、給食当番も外させた。すべて、かえでが他者に触れる危険を回避するためだった。不満を募らせた教師を、裏で手を回して黙らせたのも祖母である。具体的にどうやったのかは、訊けなかったが。

 祖母はかえでのためであれば、なんでもやった。思えば、実の親以上に親であろうとしてくれたのだろう。

 いたずらに他人の記憶を抜いてはいけない、と祖母は事あるごとにかえでをさとした。

 その祖母なら、蒼のばかげた提案を即刻却下するに違いない。

 かえでは祖母を味方につけるつもりで、蒼を連れてきたのだ。

 身内が反対すれば、蒼も諦めざるを得ないだろう。これで、蒼も目を覚ますはず。


「――いい考えね。やってみるといいわ」

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