0.リセット ③

 神代蒼かみしろそうは、会わなくなって約六年になる幼なじみだった。学年でいえば四年違いだが、かえでは早生まれなので、蒼は二十六歳のはず。

 二度と会わないと思っていたのに、反射的に名前を呼んでしまった。なんという失態だ。かえでは唇を噛んだ。


「誰だ? なんで俺の名前を知ってる?」


 蒼はいったん身を引いたかと思うと、かえでの顔を改めてのぞきこんできた。明らかに猜疑の目だ。


「あ……才宮かえでです。おなじ小学校に通っていました」


 蒼はいつもかえでの半歩前を歩いていた。


「知らんな」


 いよいよ意識を保っていられなくなってきて、かえでは目を閉じる。


「……ですよね、すみません。蒼……神代さん。では、これで失礼しま……」


 蒼がなにひとつ覚えていないのも当然だ。かえでが記憶を抜いてしまったのだから。

 そう思ったのを最後に、かえでの意識はぷつりと切れた。



 

 目が覚めたら、眠りに落ちる前とまったくおなじ位置に仏頂面の蒼を見つけた。蒼は立ったまま左手にビジネスバッグを持ち、右手でスマホをいじっていた。


「うそ、まだいたんですか」


 驚きつつ身を起こせば、じろりとねめつけられた。かえでは反射的に肩を縮める。

 蒼がスペースの空いたベンチに、どっかと腰を下ろした。


「ぶっ倒れた女を夜空の下に放置してなにかあったら、寝覚めが悪い」


 かえでだって、一応はうら若い女性だろうということらしい。

 指摘されて初めて身に危険の及んでいた可能性に思い至り、かえでは膝の上に手を揃えて頭を下げた。


「あ……ありがとうございます。おかげさまでこのとおり、復活しました。では、わたしはこれで」


「おい待て、才宮かえで」


 立ち去ろうとしたとたん呼び止められた。「はいっ?」

 肩を強張こわばらせつつふり向くと、蒼がぶつぶつとつぶやく。


「才宮かえで、才宮、才宮……。かえで」


「はいっ?」


 昔でも滅多に呼ばれなかった懐かしい響きに、胸の奥がさざ波立ったのもつかのま、続く言葉にかえでの喉がつまった。


「答えろ。さっきホームの待合で、今にも死にそうだったOLが、かえでと手を繋いだら急にき物が落ちたようになった。あのOLになにをした?」


 全身の血がざあっと引いた。


「見てたんですか!? お話ししてただけですよ?」


「その手袋は常に嵌めてるのか?」


「蒼さん!?」


 とっさに手を背中に回すも、スーツの袖ごと腕をつかまれるほうが早かった。


「たしか手袋を外してたな? これみよがしに小道具なんか使って、なんの詐欺だ? 警察に突きだしてやろうか」


「お辛そうに見えたので、声をかけただけですって!」


 手を引こうとしても、つかむ力はびくともしない。

 まだ服越しなのがさいわいだが、万が一にでも、手をつかまれたら。

 背筋が凍りついた。


「心の弱った相手につけこんで、神のご加護とやらでも説いたか? それとも勧誘か押し売りの類か? 俺はそういうのが大っ嫌いなんだよ」


「ひっ」


 蒼は昔からこういうひとだった。無愛想で、言葉選びがストレート。かえでを不審人物とみなしたからか、昔にも増して容赦がない。

 一緒にいたあいだは、一度もかえでの手について詮索しなかったのに。

 思い出しかけ、かえではいっそう強く首を振った。今はそれどころじゃない。なんとかこの場を切り抜けないと。


「勧誘でも押し売りでも、スピリチュアルでもないですからね!? 目下、就活で不採用通知の記録を更新中で、バイトもクビになったばかりの……なにもできない……大学生です」


 なんの説明にもならないが、気づく余裕もない。ますます不審人物に近づいた気分だ。案の定、蒼は目を吊りあげた。


「ならなにをしたか素直に説明しろ。手を触って、怪しげなポーズまで決めてただろう。あれはなんだ?」


 言うなり手袋を外され、今日、二度めの危機にかえでは泡を吹きそうになった。


「触らないで……! 怪しいやつじゃありませんから! 触ったら蒼さんの記憶を抜いてしまうので、お願いですから離してください!」


 声を荒らげると同時に、かえでは思いきり手を引く。

 しかしこれでひと安心だと思うまもなかった。


「は……? おい、言い逃れにしても陳腐ちんぷすぎて話にならない。納得のいく説明をしろ」


 かえでは、かつての幼なじみに能力のことを洗いざらい白状させられた。




 かえでが話し終えるまで、蒼は無言だった。

 そのあいだに、かえでたちはバスを二本見送った。といっても乗る予定はない。かえでが住むマンションは駅から徒歩十分ほどで着く。

 それより、蒼の視線が手にじっと注がれるのが心臓に悪い。かえで自身でさえ、自分の手から目を逸らすのが習慣になっているのに。

 元どおりに手袋を嵌めたけれど、手袋にも胃にも穴が開きそうだ。


「なるほど、OLの頭からパワハラの記憶を抜いたか。……ということは、俺の記憶もかえでが抜いたんだな」


 すべて吐かされたかえでの隣で、蒼が平静な顔で脚を組み替える。


「どうしてそれを!?」


「そうなのか」


「カマかけたんですか……!」


 心の内でブーイングの嵐が起きたが、口にはできなかった。神経を疑う、と蒼の目が語る圧の強さに屈服させられる。

 思い出した、現実主義者である幼なじみの嫌いな言葉は「神頼み」だった。自分で努力するべきだという理由ではなく、見えない存在に祈る意味が理解できないという理由だ。

 でもかえでの正気に対する疑いが九十九だとすると、残りの一は「なんてことをしやがる」という怒りのようで、それはそれで恐ろしい。


「かえでの作り話でないという証拠が、ひとつもないな。作り話にしても引くが」


「すみません」


 蒼が鼻を鳴らす。その顔さえ格好よく見えるのだから、この幼なじみは顔といい全体のバランスといい、得をしていると思う。

 こんな状況でなければ、かえでもじっくり眺めたかもしれない。しかしこれ以上は近づいてはいけない相手である。

 かえでがさりげなくベンチから立ちあがろうとすると、蒼が図ったように話題を変えた。


「ところで、そのOLは知り合いか?」


 しかたなく、かえではベンチに座り直す。


「いえ、初対面です。様子がおかしかったので、放っておけなくて」


「見ず知らずの他人相手にお悩み相談室か。珍獣だな」


「珍獣」


「じゃなきゃ、超がつくお人好しだろ。自分に余裕がないときに他人に手を貸せる人間は、そうそういない」


 うなだれかけたかえでは、あれ、と顔を上げた。褒められたように聞こえたが、気のせいだろうか。

 だが夜空の下、ベンチで寝たかえでを放置せずついていた蒼こそ、親切だと思う。

 かえでを問いつめるために待っていた可能性もあるが、これだけ白状させられても、かえではふしぎとそうは思わなかった。

 蒼は昔から、口の悪さと裏腹に面倒見がよかったから。


「それで自分がぶっ倒れたら世話がないな」


 上げられたのかと思えば落とされた。一瞬だ。


「すみません。でも、大したことじゃないですよ。今日は二回続いたので、普段より眠くなっただけですし」 


「あのな、パワハラなら証拠があったほうが勝てるぞ。パワハラの事実、心を壊した事実。出るとこ出て訴えるなら証拠が要る。むしろOLは医者に連れてって、診断書をもらうべきだったんじゃないか?」


 冷静な指摘に、頭が真っ白になった。空回りという言葉がにわかに点滅し始める。

 かえではいてもたってもいられず、立ちあがると頭を下げた。


「すみません!」


 さっきの女性ともう一度、話をしなくては。女性の記憶を抜いてしまった以上、すべてを知るのはかえでだけだ。なにかのときには、代わりに証言しないと。

 しかし駆けだしかけたかえでの肩は、あっけなく蒼につかまれた。


「まだ話の途中だ。誰が帰っていいと言った?」


「だめ! 触らないでください」


 蒼が目を見開いて手を引く。


「手には触ってない」


「そうですが……でも万が一ということもありますし」


 言いながら慎重にあとずさる。蒼は考えこむ風だったが、かえでが逃げると思ったのかふたたびにじり寄ってきた。 


「で、かえでは他人様の大事な記憶を奪っておいて、謝罪の言葉ひとつで済ませる気か。俺の記憶を抜いたというなら今すぐ戻せ」


「それはできないんです……! 記憶を抜くことはできても、ほかにはなにひとつ、人並みにできないんです」


 かえではうつむいて両手を握りこんだ。

 人前では必ず手袋を嵌め、どこに行っても目立たないように生きてきた。この手がいつ相手の記憶を抜きとってしまうと思うと、必要以上に他者との距離をつめられなかった。

 蒼の強い視線に、心臓がすくみ上がりそうになる。

 やがて蒼が一歩、踏みこんだ。


「よし、かえで。働け」


「は……働け?」


 意味がわからず顔を上げると、蒼の喉仏がやけにゆっくりと上下するのが見えた。


「これから、他人様の記憶を抜くんだ。言っておくが無断ではなく、合法的にだ。商売にすればいい。それでその場面を俺に見せろ。それで手を打つ」


「はい……?」


 喉が引きつった。記憶を抜く仕事なんて、聞いたことがない。悪い結果しか起こる気がしないではないか。


「い……嫌です! だいたいわたし今、大事な時期なんです。わけのわからないことをしてる暇はこれっぽっちもありません」


「バイトがクビになったんなら、ちょうどいい。就活に支障が出ないようにやりくりできるだろ」


「でも、バイトは生活費のためにしかたなくで……」


「生活費がいるなら、ぴったりだ。決まりだな。じゃあさっそく行くぞ」


 バス停には、かえでたちのほかには誰もいない。

 無機質な照明に照らされ、幼なじみの顔をした悪魔が浮かび上がった。


「ちょっ、まだやるなんて言ってませ……っていうか行くってどこに……?」


 われに返ったときには、バッグが質に取られていた。

 山道を猛スピードで走る車の助手席に座った気分だ。激しい揺れに頭がくらくらする。起きたら朝で、あれは悪い夢だったと誰か言ってほしい。


「病院以外にあるのか? 夜間外来をやってるところもあるはずだ」


「病院って……えっ、わたしの脳波を測定するとかそういう系ですか!?」


「あのな、ぶっ倒れたのは事実だろ。診てもらっとけ」


 バッグを取り返そうとする手が止まる。なんだかんだ言っても、蒼はやっぱり面倒見がいい。


「病院は要りませんよ。たくさん寝ましたから、絶好調です」


「そうか。なら、これから見せてもらうのを楽しみにしてるぞ」


「いえっ、そういう意味ではなくてですね……!」


 それとこれとは別の話だ。この力を仕事として使うなんて、とんでもない。相手を傷つける未来しか想像できないではないか。ぞっとしてしまう。

 なんとしても考え直してもらわなければ。

 決意を固め、かえではすたすたと歩き出した蒼の背中を追いかけた。

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