0.リセット ③
二度と会わないと思っていたのに、反射的に名前を呼んでしまった。なんという失態だ。かえでは唇を噛んだ。
「誰だ? なんで俺の名前を知ってる?」
蒼はいったん身を引いたかと思うと、かえでの顔を改めて
「あ……才宮かえでです。おなじ小学校に通っていました」
蒼はいつもかえでの半歩前を歩いていた。
「知らんな」
いよいよ意識を保っていられなくなってきて、かえでは目を閉じる。
「……ですよね、すみません。蒼……神代さん。では、これで失礼しま……」
蒼がなにひとつ覚えていないのも当然だ。かえでが記憶を抜いてしまったのだから。
そう思ったのを最後に、かえでの意識はぷつりと切れた。
目が覚めたら、眠りに落ちる前とまったくおなじ位置に仏頂面の蒼を見つけた。蒼は立ったまま左手にビジネスバッグを持ち、右手でスマホをいじっていた。
「うそ、まだいたんですか」
驚きつつ身を起こせば、じろりとねめつけられた。かえでは反射的に肩を縮める。
蒼がスペースの空いたベンチに、どっかと腰を下ろした。
「ぶっ倒れた女を夜空の下に放置してなにかあったら、寝覚めが悪い」
かえでだって、一応はうら若い女性だろうということらしい。
指摘されて初めて身に危険の及んでいた可能性に思い至り、かえでは膝の上に手を揃えて頭を下げた。
「あ……ありがとうございます。おかげさまでこのとおり、復活しました。では、わたしはこれで」
「おい待て、才宮かえで」
立ち去ろうとしたとたん呼び止められた。「はいっ?」
肩を
「才宮かえで、才宮、才宮……。かえで」
「はいっ?」
昔でも滅多に呼ばれなかった懐かしい響きに、胸の奥がさざ波立ったのもつかのま、続く言葉にかえでの喉がつまった。
「答えろ。さっきホームの待合で、今にも死にそうだったOLが、かえでと手を繋いだら急に
全身の血がざあっと引いた。
「見てたんですか!? お話ししてただけですよ?」
「その手袋は常に嵌めてるのか?」
「蒼さん!?」
とっさに手を背中に回すも、スーツの袖ごと腕をつかまれるほうが早かった。
「たしか手袋を外してたな? これみよがしに小道具なんか使って、なんの詐欺だ? 警察に突きだしてやろうか」
「お辛そうに見えたので、声をかけただけですって!」
手を引こうとしても、つかむ力はびくともしない。
まだ服越しなのがさいわいだが、万が一にでも、手をつかまれたら。
背筋が凍りついた。
「心の弱った相手につけこんで、神のご加護とやらでも説いたか? それとも勧誘か押し売りの類か? 俺はそういうのが大っ嫌いなんだよ」
「ひっ」
蒼は昔からこういうひとだった。無愛想で、言葉選びがストレート。かえでを不審人物とみなしたからか、昔にも増して容赦がない。
一緒にいたあいだは、一度もかえでの手について詮索しなかったのに。
思い出しかけ、かえではいっそう強く首を振った。今はそれどころじゃない。なんとかこの場を切り抜けないと。
「勧誘でも押し売りでも、スピリチュアルでもないですからね!? 目下、就活で不採用通知の記録を更新中で、バイトもクビになったばかりの……なにもできない……大学生です」
なんの説明にもならないが、気づく余裕もない。ますます不審人物に近づいた気分だ。案の定、蒼は目を吊りあげた。
「ならなにをしたか素直に説明しろ。手を触って、怪しげなポーズまで決めてただろう。あれはなんだ?」
言うなり手袋を外され、今日、二度めの危機にかえでは泡を吹きそうになった。
「触らないで……! 怪しいやつじゃありませんから! 触ったら蒼さんの記憶を抜いてしまうので、お願いですから離してください!」
声を荒らげると同時に、かえでは思いきり手を引く。
しかしこれでひと安心だと思うまもなかった。
「は……? おい、言い逃れにしても
かえでは、かつての幼なじみに能力のことを洗いざらい白状させられた。
かえでが話し終えるまで、蒼は無言だった。
そのあいだに、かえでたちはバスを二本見送った。といっても乗る予定はない。かえでが住むマンションは駅から徒歩十分ほどで着く。
それより、蒼の視線が手にじっと注がれるのが心臓に悪い。かえで自身でさえ、自分の手から目を逸らすのが習慣になっているのに。
元どおりに手袋を嵌めたけれど、手袋にも胃にも穴が開きそうだ。
「なるほど、OLの頭からパワハラの記憶を抜いたか。……ということは、俺の記憶もかえでが抜いたんだな」
すべて吐かされたかえでの隣で、蒼が平静な顔で脚を組み替える。
「どうしてそれを!?」
「そうなのか」
「カマかけたんですか……!」
心の内でブーイングの嵐が起きたが、口にはできなかった。神経を疑う、と蒼の目が語る圧の強さに屈服させられる。
思い出した、現実主義者である幼なじみの嫌いな言葉は「神頼み」だった。自分で努力するべきだという理由ではなく、見えない存在に祈る意味が理解できないという理由だ。
でもかえでの正気に対する疑いが九十九だとすると、残りの一は「なんてことをしやがる」という怒りのようで、それはそれで恐ろしい。
「かえでの作り話でないという証拠が、ひとつもないな。作り話にしても引くが」
「すみません」
蒼が鼻を鳴らす。その顔さえ格好よく見えるのだから、この幼なじみは顔といい全体のバランスといい、得をしていると思う。
こんな状況でなければ、かえでもじっくり眺めたかもしれない。しかしこれ以上は近づいてはいけない相手である。
かえでがさりげなくベンチから立ちあがろうとすると、蒼が図ったように話題を変えた。
「ところで、そのOLは知り合いか?」
しかたなく、かえではベンチに座り直す。
「いえ、初対面です。様子がおかしかったので、放っておけなくて」
「見ず知らずの他人相手にお悩み相談室か。珍獣だな」
「珍獣」
「じゃなきゃ、超がつくお人好しだろ。自分に余裕がないときに他人に手を貸せる人間は、そうそういない」
うなだれかけたかえでは、あれ、と顔を上げた。褒められたように聞こえたが、気のせいだろうか。
だが夜空の下、ベンチで寝たかえでを放置せずついていた蒼こそ、親切だと思う。
かえでを問いつめるために待っていた可能性もあるが、これだけ白状させられても、かえではふしぎとそうは思わなかった。
蒼は昔から、口の悪さと裏腹に面倒見がよかったから。
「それで自分がぶっ倒れたら世話がないな」
上げられたのかと思えば落とされた。一瞬だ。
「すみません。でも、大したことじゃないですよ。今日は二回続いたので、普段より眠くなっただけですし」
「あのな、パワハラなら証拠があったほうが勝てるぞ。パワハラの事実、心を壊した事実。出るとこ出て訴えるなら証拠が要る。むしろOLは医者に連れてって、診断書をもらうべきだったんじゃないか?」
冷静な指摘に、頭が真っ白になった。空回りという言葉がにわかに点滅し始める。
かえではいてもたってもいられず、立ちあがると頭を下げた。
「すみません!」
さっきの女性ともう一度、話をしなくては。女性の記憶を抜いてしまった以上、すべてを知るのはかえでだけだ。なにかのときには、代わりに証言しないと。
しかし駆けだしかけたかえでの肩は、あっけなく蒼につかまれた。
「まだ話の途中だ。誰が帰っていいと言った?」
「だめ! 触らないでください」
蒼が目を見開いて手を引く。
「手には触ってない」
「そうですが……でも万が一ということもありますし」
言いながら慎重にあとずさる。蒼は考えこむ風だったが、かえでが逃げると思ったのかふたたびにじり寄ってきた。
「で、かえでは他人様の大事な記憶を奪っておいて、謝罪の言葉ひとつで済ませる気か。俺の記憶を抜いたというなら今すぐ戻せ」
「それはできないんです……! 記憶を抜くことはできても、ほかにはなにひとつ、人並みにできないんです」
かえではうつむいて両手を握りこんだ。
人前では必ず手袋を嵌め、どこに行っても目立たないように生きてきた。この手がいつ相手の記憶を抜きとってしまうと思うと、必要以上に他者との距離をつめられなかった。
蒼の強い視線に、心臓がすくみ上がりそうになる。
やがて蒼が一歩、踏みこんだ。
「よし、かえで。働け」
「は……働け?」
意味がわからず顔を上げると、蒼の喉仏がやけにゆっくりと上下するのが見えた。
「これから、他人様の記憶を抜くんだ。言っておくが無断ではなく、合法的にだ。商売にすればいい。それでその場面を俺に見せろ。それで手を打つ」
「はい……?」
喉が引きつった。記憶を抜く仕事なんて、聞いたことがない。悪い結果しか起こる気がしないではないか。
「い……嫌です! だいたいわたし今、大事な時期なんです。わけのわからないことをしてる暇はこれっぽっちもありません」
「バイトがクビになったんなら、ちょうどいい。就活に支障が出ないようにやりくりできるだろ」
「でも、バイトは生活費のためにしかたなくで……」
「生活費がいるなら、ぴったりだ。決まりだな。じゃあさっそく行くぞ」
バス停には、かえでたちのほかには誰もいない。
無機質な照明に照らされ、幼なじみの顔をした悪魔が浮かび上がった。
「ちょっ、まだやるなんて言ってませ……っていうか行くってどこに……?」
われに返ったときには、バッグが質に取られていた。
山道を猛スピードで走る車の助手席に座った気分だ。激しい揺れに頭がくらくらする。起きたら朝で、あれは悪い夢だったと誰か言ってほしい。
「病院以外にあるのか? 夜間外来をやってるところもあるはずだ」
「病院って……えっ、わたしの脳波を測定するとかそういう系ですか!?」
「あのな、ぶっ倒れたのは事実だろ。診てもらっとけ」
バッグを取り返そうとする手が止まる。なんだかんだ言っても、蒼はやっぱり面倒見がいい。
「病院は要りませんよ。たくさん寝ましたから、絶好調です」
「そうか。なら、これから見せてもらうのを楽しみにしてるぞ」
「いえっ、そういう意味ではなくてですね……!」
それとこれとは別の話だ。この力を仕事として使うなんて、とんでもない。相手を傷つける未来しか想像できないではないか。ぞっとしてしまう。
なんとしても考え直してもらわなければ。
決意を固め、かえではすたすたと歩き出した蒼の背中を追いかけた。
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