0.リセット ②

 なんとか女性を連れて待合室に戻ると、ようやくひと息つくことができた。

 それでも左手は女性のバッグを握ったまま、女性が色褪せたプラスチックの椅子に腰を下ろすまで離せなかった。

 かえではつばを飲みこみ、手をすり合わせる。手のひらが嫌な汗を掻いている。


「わたしの手はちょっと特殊で……手を、というか小指を絡ませるだけで相手の記憶が抜けます」


一見、普通と変わらない手である。どころか、常に手袋をするおかげで、おなじ年代の女性と比べても手肌は滑らかなほうだ。

 ふしぎな形のあざもない。触っても、熱を持っていたり発光したりなんてこともない。

 だが、この手は触れた相手の記憶を抜いてしまう。

 バイトをクビになったのもそうだが、これまでにも偶然、手が他人と触れるたび、似たような騒ぎが起きた。

 あるいは、詮索せんさく好きな人間はどこにでもいるもので、暑かろうが室内だろうが手袋を嵌めたままでいる理由を事あるごとに尋ねられ、居づらくなってその場所から足が遠のいたこともある。

 この手が触れていい結果になった試しなんてなかった。そう過去をふり返り、かえではわれに返った。みるみる血の気が引いていく。

 いくらとっさの行動だったとはいえ、なんて大胆な提案をしてしまったんだろう。


「すみません、意味不明ですよね。あはは、聞かなかったことに――」


「なんでもいいわ。楽になれるんでしょう?」


 女性が鬼気迫る顔で身を乗りだした。


「それは……。ただ、パワハラを忘れられても、職場が変わらなければまた辛い思いをなさるかもしれなくて」


 かえでにできるのは過去の記憶を抜くだけで、その先はなにもできないのである。心臓が早鐘はやがねを打った。


「それでもお願い……っ、こんな記憶、吐きそうになるの。なんとかして」


 女性の切迫した視線が、かえでの手に突き刺さる。それだけ追いつめられたのだ、と気づいたとき、心が決まった。


「わかりました」


 声が震えたが、かえでは手袋を外した。小指を差しだすと、女性の細い指がすがるように絡められる。

 触れた小指に、微弱な電流めいた痺れが走った。

 女性の指からかえでの指へ、ほんのりとあたたかいお湯に似たものが流れてくる。体の内側からじわりと熱くなっていく。

 やがてお湯のようななにかは、絹糸の形を取り始めた。

 酩酊ていめいした人間さながら頭がぼうっとする。度の合わない眼鏡をかけたときみたいに、女性の輪郭りんかくが遠のく。

 目を閉じれば、代わりに金、銀、赤、青、ありとあらゆる色彩の糸が見え始めた。

 膨大な数の、記憶の糸だ。

 薄い体でふんぞり返った上司の罵倒。皆の前で女性が小学生さながら立たされた会議と、後輩のうんざりした顔。れ物に触るような扱いをする他部署の社員。

 毎日、毎日ひとり深夜残業をするオフィスの無機質な照明。休日にも飛んでくる上司からの叱責メールと、減っていく笑顔。

 流れこむ糸束が、かえでの頭にどす黒い光景を次々に展開させる。かえでは、はっ、はっ、と短い息を繰り返した。胸に重石おもしを積まれた気分になりながら思う。

 すぐにでも、リセットしてあげないと。


 本来はほがらかな女性なのだと思う。彼女の口調は記憶を抜く前とはまるきり違って、明るかった。表情も打って変わってすっきりしている。


「パワハラ? やだ、あなた大丈夫? 記憶を抜いた? そんな話はしたけど、冗談でしょう? それより、あなた疲れてるんじゃない? なんだかげっそりしてるわよ。早く帰りなさいね」


 記憶を抜かれた当人が、抜かれた内容を覚えているわけもない。

 とりあえず、とかえでは別れる前に念を押した。


「職場でなにかされても、悪いのはあなたではなく職場ですから。我慢は間違いです。すぐに誰かに訴えてくださいね」


 女性は、わかったようなわかっていないような顔で笑うと、足取りも軽く去っていく。小さく息をついた拍子に、あくびが出た。

 記憶を抜いたあとは、ひどく消耗する。

 抜く行為そのものが疲れるせいもある。けれど一番の理由は、覗くことによって他者の過去を追体験するからではないか、とかえでは思っている。

 特に今回は、まるでかえで自身がパワハラにったかと錯覚さっかくしそうなほどだった。

 足を引きずるようにして改札を抜けたものの、駅前のロータリーに出たとたん、かえでは地面に膝をついてしまった。

 たちまち猛烈な眠気に襲われる。

 バイト先で記憶を抜いてしまったときも、店長の話を聞かなければと思うのに、実際は二の腕をつねってなんとか目を開けるだけで精一杯だった。

 今回はそれの比ではない。かえでは這うようにしてロータリーを進み、バス停に設置された背もたれつきのベンチに倒れこんだ。ベンチの冷たさが、スーツ越しに染みてくる。

 左手がベンチからだらりとはみ出る。肩に提げたバッグが地面についたが、取りあげる元気もない。


「うー……」


 雪山をさまよい歩くも食料が得られなかった獣の気分で、かえでは目を閉じる。

 さあ店仕舞い、とばかりにシャッターを下ろしかけた意識に、冷えたベンチをさらに冷やす声が割りこんだのはそのときだった。


「おい、そこどけ。こんなところで寝るんじゃない。邪魔だ」


 低く、胸に通る落ちついた声だ。若い男性かと当たりをつける。


「すみません、動けなくて……」


 目だけを上げると、グレーのスーツを着た細身の男性が眉をひそめるのが、かろうじて見えた。

 身長は百八十センチ弱というところか。脚がすらりと長い。

 不機嫌もあらわに細められた切れ長の目は、普段なら理知的に見える部類だと思う。ととのえられた黒髪に縁取ふちどられた、端正な輪郭もいい。つまりはなかなかのイケメンだ。

 とはいえ今は睡眠薬を飲んだかのようにまぶたが重く、受け答えもままならない。


「さっきまでピンピンしてただろ」


 男性は不審そうに、頭を屈めてくる。

 さっきっていつだっけ。それよりこの男性、どこかで――。


そうさん?」


 思い出すと同時に、胸の奥で細い針に突かれたのに似た痛みが走った。

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