忘れたい記憶、消します

白瀬あお/富士見L文庫

0.リセット ①

 こんな手でなければ、どれだけよかったか。

 帰宅ラッシュの時間を過ぎ、ひともまばらな電車に揺られながら、かえでは白い綿の手袋に包まれた両手から目を逸らした。

 もう何度めだろう。この手のせいで、またうまくいかなかった。


才宮さいみやさん、クビね。お疲れ様でした』


 バイト先だったイタリアンレストランの店長の、怒りを極限まで押し溜めた声と、眉間みけんに刻まれた深いしわが脳裏によみがえる。

 歓迎会シーズンでお店が混んでいなければ。洗い場からホールにヘルプで入るよう言われなければ。料理を運んだテーブルのお客様が、手袋に気づかなければ。気づいてもスルーしてくれれば……。なんて、どれも今さらだ。

 迷いに迷って、ゴム手袋をしたまま料理を運んだのはかえで自身である。手袋を外すわけにはいかなかったから。

「お義母かあさん」「ななみさん」と呼び合っていたテーブル客は、よめしゆうとめの関係だったと思う。かえではその、生え際に白いものがまじった姑のほうに、手袋を注意された。 


『ちょっとあなた、そのゴム手袋を外しなさい。客の前に出るのに失礼でしょう!』


 事情を説明する暇はどこにもなかった。気づいたときには、彼女によって手袋を引っ剥がされたあとで。

 とっさに引きかけた手と手が触れた瞬間、彼女は季節限定メニューの春野菜パスタの皿に頭から激突した。

 嫁が悲鳴をあげ、あわや救急車を呼ぶ騒ぎとなったのはつい数時間前のことだ。


「あーあ……」


 肩下まで伸びた髪で顔を隠すようにうつむいたとき、膝上ひざうえのショルダーバッグから覗いたスマホが震えた。メールの着信を示す通知が目に入るなり、心臓が跳ねる。

 かえでは普段、外ではスマホをいじらない。だが、今度こそは待ち望んだ連絡かもしれず、かえでは手袋をいったん外すとおそるおそるメールに目を走らせた。


「厳正なる選考の結果、 残念ながら、今回は貴意に添いかねる結果となりました。才宮様の今後一層のご活躍をお祈り致します」


 待ち望んだものとは正反対の内容に、さっきよりも重いため息が漏れた。

 窓の外に目をやれば、照明に彩られた人工的な夜を背景に、リクルートスーツ姿が様にならない顔の大学生が映っている。今日は、就活からそのままバイトに行ったからだ。

 昨年度の終わりころからだろうか。かえでの周りでは内定をもらったという話がぽつぽつと届くようになった。

 春になり選考が本格的に開始されるやいなや、五社から内定をもぎ取った猛者もいると聞く。

 一方のかえではといえば、「お祈りメール」の山を着々と築くばかり。

 自己主張は苦手で、押しに弱い。相手が攻撃的だとなおさら、強く出られず早々に折れるほうを選んでしまう。それから、嘘をつくのも苦手。

 せめてかえでがもう少し器用だったら、適性検査くらいは突破できたかもしれない。今日の騒ぎを切り抜けることも簡単だったのではないか。

 元どおり手袋をめながら、じっと手のひらを見る。

 でも、なんて言えばよかったんだろう。

 まさか手が触れた拍子に、相手の記憶を抜いてしまったなんて、言えるわけもない。



 

 とっくに桜が散った春の夜の空気は、どこか気怠い。

 ホームに降り立ったとたん、慣れないパンプスを履いた足がよろめいた。さらには左肩に軽い衝撃。


「今日の感触どうよ?」


「楽勝。サークルの話をしたら、すげえ食いつかれた」


「あー、やっぱ部長エピソードは強いよな」


 かえでと同様の就活生らしい男子学生ふたりが、ぶつかったことに気づかない様子で追い越していく。ちらっと見えた横顔がまぶしくて、かえでは目をらした。

 おなじリクルートスーツを着ていても、すごろくで早々に「上がり」になる人間もいれば、「○マス戻る」を繰り返す人間もいる。違いはいったいなんだろう。

 サークルの部長の肩書きや留学経験? アルバイトの成功体験? そのどれも持たない人間は、どうすればいいんだろう。

 改札口へ下りるのも億劫おっくうで、かえではよろよろとホームにある自販機に向かう。

 バイトに行くときは青空だったのが、今は月が流れの速い雲のあいだから見え隠れするくらいで、星は見えない。星空を見あげ、ちっぽけな悩みだと笑い飛ばすことさえ拒否された気分だ。自虐的だと、わかってはいるものの。

 自販機で熱いおしるこのボタンを押す。舌がしびれるような甘い飲み物を飲みたい。いっそ舌を火傷やけどでもすれば、口が回るキャラに変わ……るわけもなく。

 手袋越しなら熱い飲み物も難なく持てる、とひとつだけ得した点を挙げてガラス張りの待合に入ると、先客がいた。 

 ライトグレーの薄手ニットにベージュの膝丈タイトスカートと黒のパンプスという、これぞオフィスの鉄板ファッションに身を包んだ会社員が頭を膝に埋めている。足元には底の鋲がすり切れたピンクベージュのショルダーバッグ。

 この女性、昼もここにいたような。しかも、今とまったくおなじ姿勢で。

 バイトの直前だったのもあり、かえではちらっと目を向けただけで電車に乗ったが、間違いない。

 あれから五、六時間は過ぎている。そのあいだ、ずっと待合にいたのだろうか。そんなまさか。

 会社員らしき女性とひとり分の座席を空けて座るものの、微動だにしない女性が気になってしかたがない。


「あの……お加減は大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか」


 十分ほど逡巡してから思いきって声をかけると、長い髪に隠れた顔がゆっくりと上がった。

 意識はあるようだが、目はうつろで生気が感じられない。


「ずっとここにいらっしゃいますよね? 動けないのでしたら……」


「……ああ、いつのまにか……夜になってたんだ」


 女性がのろのろと体を起こす。その手は冷えきったのか震えていて、かえでは自分用に買ったおしるこを女性に差しだした。


「どうぞ、あたたまりますよ。よかったら」


 女性が小さく礼を言って缶を受け取り、プルタブを開ける。

 静かにおしるこを飲むと、女性は小さく息をついた。


「……会社、サボっちゃった」


「具合の悪いときは、休むのもしかたないですよ」


「そうじゃないの。……怖くて」


 女性は目元に隈のできた顔で力なく首を横に振る。


「なにかあったんですか? わたしでよければ、話を聞きましょうか」


 かえでは姿勢を正して女性に向き直った。

 正直なところ、かえで自身も心は井戸の底くらいまでは沈んでいる。だがその女性には、放っておいてはいけないような危うさがあった。


「なにかっていうほどじゃ……会議中に立たされて、課の皆の前で注意される……だけ」


 期限までにはとうてい処理不可能な量の資料作成を任されたかと思えば、残業を厳しく叱責しっせきされる。

 家に持ち帰りようやくの思いで作成した資料は、誤字脱字まで、ミスをくどくどとあげつらわれる。それも職場じゅうに響く大声で。

 会議中も一度叱責が始まると議題がそっちのけになり、会議は進まず課の雰囲気も悪くなる。

 女性はたっぷりと時間をかけ、たどたどしい口調で話した。


「それって、ブラック企業とかパワハラというものでは……?」


 言葉だけなら、かえでも耳にしたことがある。企業を選ぶ際には、年収や規模だけで判断せず、働く社員の雰囲気もチェックしよう! などと就活サイトで見た覚えもある。


「出勤しなきゃと思うと、めまいがするようになって……視界が回りっぱなしで、気持ち悪くて」


 朝食の味がしなくなり、ろれつが回らなくなる。どうにか駅までは這うようにして来ても、電車に乗ることを思うだけで吐き気に襲われる。

 親の口利きで入社したため、簡単には辞められない。一度だけ父親に訴えたものの、それくらい我慢するのが社会人だと逆に説教された。それ以来、誰にも相談できなくなった。


「これくらいのことも我慢できなくて……仕事もできないし……もう、私なんか……」


 女性がうつむき、顔に落ちた左の髪を耳にかける。耳のそばに一円玉大のハゲがあるのが目に入り、かえでの胃がぐうっと絞られた。

 気の利いた慰めひとつ思い浮かばなくて、かえでは膝上の両手を握り合わせる。


「どこで間違えたのかな……もう、疲れちゃった……ぜんぶリセットしようと思うの」


 うつろだった女性の目に、かすかに光が差す。なぜか嫌な予感がしてどきりと肩が跳ねた。


「おしるこ、ありがとう。……じゃあね」


 女性はゆらりと立ちあがると、待合室を出ていく。嫌な予感が喉元まで膨れあがり、かえでは女性を追った。

 女性は自販機の横のゴミ箱に缶を捨てても、電車に乗るでもなく改札へ向かうでもなく、ホームの端へ進んでいく。黄色の点字ブロックに沿って、肩を左右に揺らして。

 やがて線路の向こうから電車のライトが近づいてきたとき、かかとの外側がすり減ったパンプスが、点字ブロックを越えた。

 もしかして、と思ったときには足が勝手に動いていた。


「待って!」


 女性が肩からげたショルダーバッグを、思いきり引く。

 ぽっかりと暗い穴の開いたような目とぶつかったとたん、かえでは口を開いていた。


「よければ、ですけどっ……」


 百メートルを全速力で駆けたわけでもないのに息が浅くなる。かえでは喘ぎながら口走った。


「リセットなさりたいなら……その辛い記憶、抜きましょうか」


 言ってしまったと気づいたときには、かえでを見つめ返す目が点になったあとだった。

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