家庭科

クラスは平穏になった。自白ゲームの主人公がいなくなったから。あの日から茜は一度も学校に姿を見せていない。クラスのみんなは遊び道具をなくした子供のように、静かになり、今は卒業式の予行練習と、オルゴールの代わりに作ることになった版画制作に打ち込んでいる。卒業を控えた小学六年生のありふれた普通の日常。それを茜という代償を払うことによって取り戻した。本当にこれでいいのか。全員揃わないまま卒業式を迎えて、そんな風に疑問を持つ生徒はこの中にいないのかもしれない、あの見上ももう何も言わなくなった。まるで最初から35人で生活してきたみたいに、もはやこれまでの事件すらなかったことのように生徒たちは振る舞い、そうして過ごしていく毎日は恐ろしいスピードで過ぎて行ってあっという間に卒業式まで二か月を切った。


職員室のドアを開けた時に肌で感じる繁忙期の飲食店のような世話しない感じはこの時期が一番強い。どの先生も抱えきれない案件を抱え、その上、自分のクラスの通信簿、だけではなく終業式の準備も並行して行わなくてはいけない。六年生の担任であればそこに卒業式とそのプログラムと練習も間に入って来るわけで、必然と居残ることが多くなり誰もいない職員室に自分一人なんていうこの光景ももう見慣れてきた。

一人になってからどれくらい経っただろう。教頭先生が帰り際に差し入れてくれた缶コーヒーはもう冷たくなっていたけど、今の疲労した肉体にはちょうどいい。これを飲んでもうひと踏ん張りしたら帰ろう。でもその前に。足元で光る電気ストーブの前から動きがたいのもあるが何よりトイレに行くためにはあの全身にまとわりつくような冷気が溜まっている廊下に出なくちゃいけないことが億劫だった。缶コーヒーの残りをグイっと飲み干し音を立てるように置く。ストーブのオレンジ色の光から一ミ離れたただけで、もう寒い。いまさらどうしてこの学校は冷暖房完備じゃないのかと文句がこぼれる。出るときになって初めて自分が今までストーブの光だけで作業していたことに気付いた。電気をつけると扉のガラス窓に自分の顔が映った。ここでどんなに気合を入れてもやはり廊下に出た瞬間、「さみい」と口に出てしまう。寒さに耐えながらトイレを済ませて、戻ってくると、よくもまあこんな乱雑に散らかった机の上で仕事をしていたなと我ながら驚いて席に着く前に片付けずにはいられなくなった。大雑把に資料を種類別にまとめていく、その中でふと目にした文字に気を取られて、気が付くとファイルを読み返していた。思えばすべてはここから始まった気がする。頭の中で鳴る誰かの声。膨大な数の中からその一枚を取り出す。今ならわかる気がする。くまなく観察して、そして見つけた。比べるためにもう一枚の方を選んで並べてみるとさらによくわかった。一旦仕事は中断し、このことを踏まえてもう一度考えてみることにした。




教室の扉を開けるとすでに見上が待ち構えていた。

「おはよう、もう来てるとは思わなかった」

「そりゃ、私が言い出したわけだし」

そのぶっきらぼうな言い方は昨日の昼休みに突然目の前にきて一方的に用件だけ言って去っていったあの時と同じだった。

「―それで、今日は何を話す?」

そう言っても見上はなかなか話し始めようとしなかった。

「どうしたんだ、何か話したいことがあったんだろ」

それでも何かに迷っている様子の見上から、ようやく出たのは、

「やっぱり無理なのかな」

という嘆きのような独り言だった。

「何のことだ」

「茜さん」

見上の口から久しぶりに茜という言葉を聞いた。

「卒業まであと一週間なんだよ」

「本当だなついこの間まであと一か月以上あると思っていたのに、この歳になると時間が経つのが本当に早い」

「そういうことじゃなくてこのまま卒業式を迎えていいのかな」

「見上はどう思う」

「それは出来ることならみんな揃って一緒に卒業したいよ」

「本当にそう思ってるか」

「当たり前でしょ、でも茜さんが―」

見上の言葉はそこで止んだ。

「どうして茜は学校に来なくなったんだろうな」

「それは、色々あったし、クラスのみんなからは誤解されてるし」

「そう、茜は誤解されてるんだよ、色々と、でも逆に言えば、その誤解を解くことが出来れば、茜は学校に来てくれるんじゃないか」

「それはそうなんだけど」

歯切れの悪い見上の言葉が霧散する。

「見上、お前は本気で茜に学校に来てほしいと、全員揃って卒業式を迎えたいってそう思ってるんだよな」

「うん」

「だったら協力してくれないか、今回起きた事件の真相と、その事件で茜が本当は何をしたのか二人で証明するんだよ」

「ちょっと待ってよ先生、何言っているの」

「見上は先生の話を聞いてくれるだけで言い、途中でいくつか質問をするかもしれないその時はうそ偽りなく本当のことを答えてほしい、出来るな」

「それだけでいいの」

そう言うと見上は自分の席に着いた。学校が始まるまでまだ時間はある。箱からまっさらなチョークを一本おろすと、黒板に向かってゆっくりと一文字目を書き始めた。

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