算数
朝から見上の機嫌が悪いことは分かっていた。それも帰りの会まで引きずるとなれば事態は深刻で厄介だ。今日の日直当番が最後の仕事、号令をかける。
「起立、気をつけ、礼、さようなら」
解放された瞬間一目散に詰め寄ってきて文句の一つでも言われるかと思ったが以外にも見上は身支度を整えるとさっさと教室を出て行ってしまった。身構えていた分少し肩透かしを食らった気分になった。軽く机周りの資料を片付けて、まだ教室に残っている生徒には早く帰るようにくぎを刺してから廊下に出た。二組の教室の前を通るときにチラリと中の様子を伺うと柳田先生の姿が見えた。柴田先生がいない間二組の臨時担任は当番制になり、今日は柳田先生が朝から臨時担任についている。この学校で一番のベテラン教師である柳田先生はそのキャラクターから、生徒から人気もあって、特徴的な大きな声と生徒たちの笑い声が外まで交互に響いていた。そのことに気を取られていた、それだけが原因ではないが、すぐそこの角を曲がって階段を降りている時の足音が、二つ重なっていることに最初気付かなかった。しかもその音は同じ速度ですぐ隣から聞こえていた。
「どうして今日は来なかったの」
横を向くと見上がいた。見上はこちらを向くことなくまっすぐ前を向いたままそう聞いた。
「おいおい、待ち伏せかよ、びっくりするな」
と言いながら内心安堵していた。機嫌を損ねてしまったがどうやら話はしてもらえるようだった。
「私ずっと待ってたんだけど」
「今日はちょっと忙しくてね」
「絶対嘘」
少し早足になって私の前を塞ぐようにして前を行く見上は時頼手すりを右手で叩いて八つ当たりしている。
「柴田先生が抜けちゃったからね、だから申し訳ないけど会議にはしばらく出れそうにないよ」
「なにそれ」
階段の踊り場で立ち止まっている見上を構わず追い抜いていく。
「ちょっと待ってよ」
今度は追いかける側になった見上の声が背中からひっきりなしに聞こえるが、構うつもりはなかった。
「早いよ先生」
同じ距離の追いかけっこで階段を下り続けて二階まで来たところで、少し見上の気配が濃くなった。事故があってから初めてここを通る。自然と歩みを緩めていた。
「先生、北原君っているでしょ」
不意にそう聞かれたものだから反射的に振り返ってしまった。そこは階段のちょうど真ん中あたりの位置で、見上はそれより三段高い位置で、お互い今日初めて目を合わせた。
「北原がどうかしたのか」
「何人かの子から聞いたんだけどね」
見上はトントンと階段を下りて行って、人気を気にしながら壁と向かい合わせに立った。意図をくみ取り自分もそこへ体を寄せた。
「会ってるみたいなの」
見上は分かりやすく小声になっていたがはっきりそう聞こえた。
「茜さんてああなってから学校で誰とも話さなくなったでしょ」
「そうかもな」
「私は見たことがないんだけど、何人かの子が見たって、学校の外で、二人でいるところを」
「茜と北原が」
「みんなが言うには学校の帰りに、二人が立ち話をしているところを見たって、一緒に帰るわけじゃなくて少し話をしてから別々に帰る、要約するとそんな感じ」
「二人はいったい何を話してるんだ」
「わからない、だから今日、学校が終わったら一緒に北原君のことを追いかけようと思ったのに―」
眉間にしわを寄せた見上がこぶしを握るジェスチャーで威嚇する。
「生徒を尾行するのは気が引けるけどな、でも二人が会ったところを抑えたとして、その後どうする、何を話してるかまでは分からないだろ、それともその現場に乗り込むか」
「それは―」
うーんと言って見上は考え込み始めた。
「何かいい方法を考えないとな、とりあえず今日はもう遅いから帰れ、この続きは明日の会議で」
「え、何もう来ないんじゃなかったの」
「そんなこと言ったか」
見上を置いてけぼりにしてその場を後にした。文句を言う見上の声がしばらくの間背中越しに聞こえていた。
次の日の会議での見上は妙にテンションが高かった。楽しそうと言ったら語弊があるが、自分が掴んできた情報をきっかけにもしかしたら事件の真相に近づけるかもしれないという期待感で胸を躍らせている。頭も冴えてアイデアを次々に口に出すが今のところそのどれもが却下となっている。どうやらやる気と推理力には相関関係はないらしかった。
「そもそも茜と北原は元から仲が良かったのか」
「そんなことないよ、だって学校で二人が一緒にいるとこなんて見たことないもん、ていうかそもそも私、北原君が誰と仲がいいとかあんまりわからないかも」
「そうか」
名簿の出席番号八番北原誠一の文字を見ながら、北原という生徒について思い返すと、真っ先に浮かぶ言葉が普通の子だった。成績は真ん中ぐらい、交友関係もそれなりにいて、授業態度も比較的真面目、クラスで目立つタイプではないが悪目立ちすることもない、そんな生徒はごまんといるが、しかしその中でたった一人北原だけが茜と接点を持つことが出来たのはなぜなのか。
「わかった、北原君のランドセルに超小型の盗聴器を仕掛けて―」
「バカなこと言ってんじゃないよ」
暴走する見上を早めに止めてあげた。見上は『やっぱダメかー』と言いながら次のアイデアをひねり出そうとしている。
「直接北原に聞いてみるしかないな」
「えーだめだよそんなの」
「ほかに方法があるか」
「北原君本当のことを言ってくれるかな」
「どうだろう」
二人で考え込んで唸っていると廊下の方から音が聞こえてきた。まだ学校が始まるまでかなりの時間がある。二人で顔を見合わせて音が近づいてくるのを待つ。教室の前で一旦音が止んで、次にドアが開かれた。
「おはようございます」
そう言って教室に入ってきたのは今日の議題に上がっている北原誠一だった。
「それ本当なの」
見上はまだ信じられないという表情で聞いた。
「はい、だから茜さんがああなったのは全部僕のせいなんです」
また一段と、北原の声の震えが大きくなる。
「そんなに自分を責めるな、元々命令したのは茜なんだよな」
「そうですけど」
「でも、断ることもできたんじゃない」
「だから、それが出来ないくらい、北原は茜を恐れていたんだろ、茜に命令されて、みんなのオルゴールは壊せても、茜のオルゴールは壊せなかったわけだからな」
「それが結果的に茜さんを孤立させてしまったってこと?私は茜さんがそんなことを北原君にさせるとは思えないな、そもそも北原君は何でそんなに茜さんのことを怖がっているの」
北原の体が一瞬ピクリと反応した。見上の指摘はその通りで、頼まれたからと言って茜がただの友達ならあれだけのことをやってのけるはずがない、二人が支配関係になるそのきっかけがあるはずだった。
「―それは」
そこから北原の口からは『あのー』とか『そのー』とか『えーっと』しか出てこなくなった。しびれを切らした見上が、
「なんなのよ、さっさと言いなさいよ」
と喝を入れた。
「見ちゃったんです」
絞り出すように北原が言った。思わず見上と顔を見合わせた。
「何を見たんだ」
追い詰められた北原は顔を真っ赤にしながら、
「服を脱いだ茜さん」
と自白するように言った。
「最低」
素直に見上はドン引きしていた。
「知らなかったんだ、茜さんが授業に遅れてくるなんて、その日の体育の授業はスポーツテストでペアになった相手の結果を記録していかなきゃいけないのに鉛筆を忘れちゃって、だから教室に取りに帰ったんだ、それで教室のドアを開けたら、そこに、茜さんがいて―」
そこで北原の話は止まってしまったが、十分察しがついた。
「なんだそういうことね、のぞき見したわけじゃないのね」
と見上が確認すると。
「そんなことするわけないだろ」
と、むきになった北原が声を荒げた。こんな風に少し怒った北原を見るのは初めてだった。
「ある種北原は茜に弱みを握られていたってことか、見たことばらすぞとかなんか言われて、茜に服従するしかなかった」
それでもまだ見上は不服そうな顔で北原を見つめていた。
「それで聞きたいんだけど、学校が終わった後、茜と会って何を話しているんだ」
「それはいろいろだよ」
「いろいろって」
すかさず見上が追及する。
「まとめたノートを渡したり、出された茜さんの宿題を預かったり」
「あんたがやってるの」
「そうだよ、まぁ償いってやつかな、僕のせいで茜さんを傷つけてしまったことは確かだからね」
「なんかやってることが子供じみてるっていうか、それ本当に償いになってるのかな」
と見上が感想を漏らした。
「あとは明日やることのリストをもらうんだ、紙に書いたものを渡される、それは絶対にやらなきゃいけないんだ」
「じゃあもしかしてそこに」
「そうだよ」
哀しい目で北原はそう呟いた。
「てことは昨日もその紙を受け取ってるってことだよな」
北原は黙って頷いた。
「先生に見せてくれないか」
北原はおしりのポケットから何枚かの紙切れを取り出すとそのうちの一枚を差し出した。
くしゃくしゃに折り目がついているがそこに書いてある文字ははっきり読み取れた。
「榊b」
紙にはそう書いてあった。
「サカキって榊さんのこと?」
「そうだよ」
「じゃあこのbっていうのはなに?」
「それは対象者に対して何をするかの意味で、Aなら対象者に対して実行することが裏面に書いてある、反対にBなら何もせず対象者を監視する、つまりこの場合榊さんを監視するって言う意味になるんだけど」
「監視って」
少々引き気味の見上に対して北原は続けて、
「監視した内容はノートに付けて学校が終わった帰りに提出する、それと引き換えにまたリストをもらうんだ」
説明し終えた北原はどこか得意気だった。
「ずっとこんなことをやっていたなんて」
見上にとっても茜と北原の関係はこちらの想像を超えるものだったらしい。
「おかしいと思わないの?」
見上が聞いても北原からすぐに返事は帰ってこない。必死におかしなところを探しているのかそれとも、質問の意図があまりに理解出来なさ過ぎていじわる問題を出されているとでも思っているのか。表情だけでは読み取れなかった。
「いつまでこんなこと続けるつもり」
「それはわからないけど、僕一人で勝手にやめられないから、今日学校が終わって会った時に聞いてみるよ」
「それは出来ない」
「どういうこと」
声に出してそう聞いたのは見上の方だった。
「北原、悪いけど、茜に会うのはもう終わりにするんだ」
「で、でもノートを渡さないと」
北原は戸惑いの表情で自分のランドセルの中身を見つめながらそう呟いた。
「それも茜の手に渡すわけにはいかない」
「急にどうしちゃったの先生ちゃんと説明してよ」
そう詰め寄る見上に、
「北原の話を聞いて確信したんだ」
「なにを?」
「実は少し前に茜と面談をしたことがあってね、その時茜に言われたんだ、先生は生徒のことが見えてないって」
「茜さんが」
「先生はずっとクラスに隠れた問題があって、それを見つけれないことを責められているのかなってそう思ってた、でもそれは違ったんだ、問題があったのは茜自身の方で、それに気が付いてほしかった、今思えばあれは茜からのSOSだったのかなって」
二人から同意も否定も帰ってこなかった。ただ黙っているというよりこのことをどう捉えればいいのか迷っている様子だった。
「茜だって望んでやっているわけではなくて、自分の中の何かが制御できなくなってそういう衝動に駆られてしまうんだと思う、茜が悪者とかではなくてこれは病気みたいなものだ、そしてそれは段々エスカレートしていってる」
「どういうことですか」
押し黙っていた北原が顔を上げた。対照的に見上はまだ考えに耽ったままだ。
「まずオルゴールの事件が起きて、次に起きた大きな出来事と言えばなんだ?」
「えーっと」
北原が考え込んでいると見上が、
「柴田先生の事故じゃない、でもそれは茜さんとは関係ないよね」
と割り込んできた。こちらの話はさっきからずっと聞こえていたらしい。
「柴田先生は階段を踏み外して転落した、これがみんなが知ってる柴田先生の事件だ」
頷く二人を確認して、
「これは先生も同じだ、ただ一つだけ気になることがあって、ちょっと前に校長先生と柴田先生のお見舞いに行ったときに、それとなく聞いてみたんだ、どうして先生はオルゴールを運び出そうとしたんですかって」
「柴田先生はなんて言ったの」
「それが―意見箱ってあるだろ」
「あのー職員室の前に置いてあるやつ?」
「そう、隅に用紙があって生徒からの要望とか、気になってることとかあればなんでも投函してくださいってやつ」
「あれって生きてたんだ」
「もちろん、定期的に中身を確認するからな、入ってても一枚か二枚だけど」
「私使ったことない」
見上が言い、そして北原もこれには同感らしい
「事故の少し前、柴田先生が何の気なしに中を確認すると珍しく空っぽではなくそこに一枚の紙を見つけた」
「なんて書いてあったの」
「柴田先生が言うにはその紙には、『もうオルゴールは見たくないです』と書かれてあったそうだ」
「それを入れたのが茜さんってこと」
「それはわからないけど、とにかくそれを見た柴田先生はオルゴールを一階の倉庫に運ぶことにした、あそこにあったら否応なく目に入ってしまうからね」
「それで何が変わってくるの、柴田先生がどうしてオルゴールを運び出すことになったのかその理由は分かった、それで実際運び出す時に階段を踏み外して転落した、そういうことだよね」
「その通りだ」
「それなら―」
「実はそれだけじゃないんだよ、事故には続きがあったんだ」
「どういうこと」
「転落した後の話だ、柴田先生は痛みに耐えながら自分が下りてきた階段に目をやったらしい、そしたら・・・一番上からこちらを見下ろすようにしている人影が見えた―」
「それって―」
「あれは事故なんかじゃない、柴田先生はオルゴールを運んでいるところを何者かに突き落とされたんだ」
「じゃあその人影って」
「先生は茜ゆねはだったんじゃないかと思う」
「そんな」
見上はハッとしながら口元を抑えた。
「そう考えると意見箱の紙も茜が入れたものかもしれない、柴田先生を誘導するためにね」
見上が一つ大きなため息をつく、それから少し諦めたような、無念さが宿る目をこちらに向けながら、
「危険てどういうこと」
と私に聞いた。
「これまで起きたことを振り返ってみるとオルゴールの事件、それから柴田先生の事件、段々エスカレートしていっているように感じないか、そして昨日北原に渡されたリスト」
「榊さんの身に何か起きるかもしれないってこと」
「榊は茜を孤立させる原因を作った一人だ、考えられなくはない、そしてもし何か起きるとしたら今までの傾向からもっとひどいことになる可能性がある」
「僕はどうすればいいんですか」
北原がすがるような眼をこちらに向ける。
「別に何もしなくていい、茜と会わなければいいんだ」
「でもそんなことしたら茜さんを怒らせないかな」
「大丈夫だ、今日の学校が終わったら先生が茜と話をつけてやる、それでも不安だって言うのなら、見上、今日は北原と一緒に帰ってくれないか」
「別にいいけど」
「よしじゃあ会議はここまでだ」
二人を教室に残して職員室に戻る。今日はとても気が重い一日になるだろう。そう覚悟していた。ところが次に教室に戻って朝の会を始めるとき、茜の姿はなかった。
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