体育
今日で答えが出るとは思えない、むしろ今日で謎が深まるのではないかとさえ思える。観察記録を始めてから今日で三十六日目。六年一組の生徒は三十六人なので今日の横川周が最後の観察対象者となる。
観察対象者となったものはその日一日の行動すべてを記録される。出席番号一番の荒木圭太から始まってこれまで続けてきた観察記録は確かに、何人かの生徒に関して言えば新情報をもたらしてくれた。が、それは今までの評価にそのまま追記されるような補足情報ばかりでこちらの認識を改めなくちゃいけない生徒はいなかった。この昼休みが終わったら残すところ二時間。職員室の窓から見える校庭では先ほど確認した横川周がいまだボール遊びをしている。その一緒にいるメンバーも以前の観察記録から得た情報と符合する。このまま何事もなく今日一日が終わるのかそれとも最後の観察対象である横川周が残りの二時間でなにかすべてがひっくり返るようなものを見せてくれるのか。横川周を一時限目から見てきたが、二時限目が終わった時点でもう答えは出ていた。それ以降の授業ではただ横川周という人間がクラス内でも秀でて素直な子だという分かりきったことの確認の確認を重ねる作業になった。茜に言われた言葉。確かに全員を完全掌握しているとは言わない、だが、六年一組の生徒に対してたった一人でも蔑ろにしたことはない。日々36人と向き合い理解を深めようとしている。そこに偏りが生まれないように等しく誠実に接しようと心掛けている。それなのに。今でもたまに思い出す。茜が教室から出ていくときの、あの横顔、私は何かを見逃しているのか―
校庭に立っていた。砂埃が舞うその先に校舎が見える。さっきまであそこの一階の窓からこっちを見ていたはずなのに。背中に何かがぶつかる感覚が走って、振り返ると足元にボールが転がっていた。見覚えがある。拾い上げてみるとやはり横川たちが遊んでいたもの。
「先生投げてよ」
声のした方を振り向くとそこに茜が立っていた。
「早く」
とにかくこれに目がないらしい。言われるがまま茜に向かってボールを投げた。ゆるやかな弧を描き飛んでいく、それなのに私と茜はずっと目が合ったままだった。そっちが要求したからそうしたのに、まるで興味がないとでもいうように、迫りくる物体に対して無関心を貫く。
「あぶない」
(ブチャア)
その異音で思わず顔をそむけた。構えすら見せない茜にそうなることは分かっていたけど、ボールは一番取りやすい胸の前から少し軌道がずれて左肩あたりに命中した。ゴム製のそれは茜の体に跳ね返ることなく不気味な音を立てて通過していった。
「いやあ」
茜の、向かって右側のシルエットが変わってしまっていた。ボールがどうして茜がいる位置よりも後ろで転がっているのか、その理由が形として残っていた。まるで型をくり抜いたみたいに、ペンタブの消しゴムで消したみたいに、ボールが通った場所の部分だけすっかりなくなっている。逆三角形で言うと右の角の部分が削れてそこだけ不自然に丸みを帯びた縁取りになっている。あれでどうしてまだ腕が繋がっているのかが分からない。茜はただ俯いて体を軽く縮こませるようにして不安定に立っていた。
「僕にも投げてよ」
いつの間に、なぜそこにいるのか。横川が私の足元を指さしながらそう言った。右足の踵で止まっていたボールを拾い上げて、
「これをか?」
と聞くと、横川は黙って頷いた。茜に投げたものと同じサイズの、バレーボールぐらいの大きさのゴムボールだった。横川はじっと待っている。いや、じっと見つめている、これを。ボールの感触を確かめながら私も横川に視線を集中させた。何かに突き動かされるように狙いを定めていた。ボールを持つ私と、それを欲しがる生徒。それだけじゃない、なにかとてつもない強大な因果が巡り巡って私に投げることを宿命づけている気がする。
「いいか、ゆっくり投げるからな」
返事はない。投げる動作に入り頭の横の位置までボールをかかげると一緒に横川の目玉もギョロリと上を向いた。
「いくぞ」
相変わらずボールを凝視している横川めがけて放った。いい感触、綺麗に縦回転しながら飛び出したボールはさっきよりも山なりの放物線で、球筋を目で追うとまっすぐ横川の体の中心部に伸びていた。ボールは寸分の狂いなく横川の胸の前に収まるはずだ。そのことは確かなはずなのに私は横川の姿を見て愕然とした。スイッチが切れたみたいに脱力した体、もう用事は済んだとばかりにあれほどくぎ付けだったボールは意識から飛んで、いや、最初からなかったかのように横川はただこちらを見てうっすらと笑っていた。
「よこかわ―」
(ボトッ)
悲鳴は聞こえなかった。そもそも悲鳴を上げる口がない。というか鼻も目もいわゆる顔がなかった。風に乗って浮き上がったボールは横川の顔面に向かって進路を変えた。横川の顔は一瞬だけ本当にボールになってそれから何もなくなった。裏切られた気分だった。こうなったのは自分のせいじゃない、どうして生徒たちは私にこんなことをさせるのか理由を聞いてみたい。残りの体は倒れずにそのまま立っていた。自立しているのか、たまたまバランスが取れてしまって立っているのか分からない。そもそも目の前のコレは本当に横川なのか。可能性としてさっきまで横川が着ていた服と同じ服を着ているから今のところそう判断しているけど、仮に理由を聞くとしても尋ねる相手は、こっちではなく落ちているあっちの方が確実かもしれない。
「先生僕にも」
声だけで誰だかは判断出来ずに後ろを振り返った。時にはもう遅かった。人がいて、でも腰より上の部分が黒塗りされていた。黒塗りはみるみる大きくなり、その途中で焦点が切り替わって、それは自分に迫るボールなのだなと理解した。
「あ」
間抜けな声が出た。と同時に顔にゴムが触れる感触が伝わってきた。やがて痛みに代わって思わず顔を手で覆うとしたけど空振りした。自分の位置から少し体を捻じりながら後ろを向こうとしている体が見えた。顔はすでに手の届かないところにいた。
「誰が―」
自分の体の先にいるのは誰なのか、もう少しで見えそうなところで回転がかかり景色が飛んでしまった。空が見えたかと思えば半回転して次に地面が、落ちていくのが分かった。どんどん地面が近づいてきてもうぶつかるという瞬間に思わず目を瞑った。
次に目を開けた時イスの足が見えた。断続的に頭の中で響く不協和音。だんだんとノイズが除去され残った音は人の声で、さっきから繰り返し聞こえていたのは、他でもない自分の名前だった。
「久野先生、久野先生」
自分の体が揺さぶられるのが分かる。この声は、教頭先生。
「よかった、みなさん、久野先生、気が付いたみたいですよ」
まだ頭がぼーっとする。目の前に教頭先生、その横に何人かの先生が自分を取り囲むようにして立っていた。
「すいません、僕は―」
「いきなり倒れたんですよ」
「全然覚えてないです」
「最初イスから落ちただけかなと思ったらそのまま起き上がってこなかったから」
「僕はずっと気を失ってたんですか」
「時間にしたら五分くらいですけど、保健室行きますか?」
「いや、平気そうです、ご迷惑おかけしました」
「我々はいいですけど、一番びっくりしたのは生徒のほうじゃないですか」
そう言って教頭先生は職員室の入口の方を振り返った。開かれたドアの隙間に見慣れた生徒の顔が二つ並んでいた。榊と見上だった。
「あの子たちはどうしたんですか」
「なんか大変なことが起きたとかで」
「大変なこと」
「そう、それで久野先生を呼んでくれって言われて、呼びに行こうとしたらそこで―」
「ああ」
声になるかならないかの息が漏れた。つまり状況としては最悪のタイミングで気を失ったということになる。
「なんでも急ぎとかで、もしあれだったら他の先生に行ってもらいますか」
「いえ、自分が行きます」
頭を振りながら出口に向かう、ドアを開けた瞬間廊下にいた二人がすぐさま反応して私の前に立った。
「どうしたんだ急に、何かあったのか」
「ちょっと大変なことになって」
「またクラスの男子がはしゃいでなんかしたんだろ」
と、いつものノリで返すと、
「マジでやばいから先生ちょっと来て」
と言って速足で駆けだした。どうやらただ事ではないらしい。もうほとんど廊下を走ってると捉えられても仕方ないくらいの速度で前を行く二人を追いかける。それに合わせて廊下と上履きが擦れるキュッキュッという音が響く。
「私たちちょっと早めに行って始めてようと思ったんだけど―」
この『ちょっと早めに行って』と職員室からの道のりからおそらく図工室に向かってるのではないかという予想ができた。六時間目は図工の授業だった。
「おい、危ないぞ」
ついに二人は走り出した。数メートル先の図工室の前で急停止し一人は中へもう一人はドアに手をかけて私を急かすように手招いている。
「先生早く」
走ることはしないが気持ち程度早歩きする。図工室の前までたどり着くと見上に背中を押されるようにして中に入った。
「こんなんだよ」
先に中に入っていた榊が持っていたのはオルゴールだった。六年生の生徒たちは卒業制作として毎年オルゴールを制作する。ふたを開けると音楽が流れだすタイプのオルゴールその箱の彫刻を図工の時間に当てて卒業式までに完成させるのだった。
「オルゴールがどうかしたのか」
胸の前で掲げるようにして持つオルゴールに一歩一歩近づいていくとすぐ違和感に気付いた。
「これは―」
実際に手に取ってみてみると思ったよりひどいありさまだった。花の彫刻、おそらく自分たちが以前育てていた朝顔だろう、茎があり葉が伸びてそして真ん中に咲いていたはずの花が刃物によって抉られている。ためらいのない切り口、まるで雑草を刈り取るかのように。
「私だけじゃないの」
か細い声で言い、視線を私からずらし私の背後にあるものに向けた。
「まさか」
図工室に入ってすぐ、廊下側の壁際に並ぶ、壁のないビルのような、支柱のみで組み上げられた作品を保管しておくための棚。今は六年生たちのオルゴールが所狭しと並んでいた。
ゆっくりと近づいて、試しに一つ手にとってみた。そのオルゴールにはバスケットゴールはあるのにボールがなかった。いや、剝ぎ取られてしまっていた。同じようにその隣の物も、その隣も。
「ひどいよね」
見上がもうあきらめたという感じで自嘲気味に少し笑って言った。
「全部やられたのか」
「うーん」
「誰がこんなことを」
二人が一瞬顔を向き合わせて目配せしたのが分かった。
「なんだ、何か知ってるのか」
「うん、いや・・・・・・分かんないけど」
「多分やったのは茜さんだと思う」
榊が断定する物言いで呟いた。
「ちょっと、まだわかんないでしょ」
見上も何かしら心当たりがある様子でいた。
「ちょっと待ってくれ、茜がこれをやったっていうのか」
「そうと決まったわけじゃないけど」
「絶対そうだよ」
「どうしてそう思うんだ」
「だってほら」
そう言って棚のある場所を指さした。
「それ茜さんのだけど」
作品群の中から埋もれていた茜のオルゴールを見つけて手に取ってみた。
「茜さんだけなの、なにもされてないオルゴールは」
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