2つの血

 ドイツの空港に着いた頃には、太陽が真上に昇りかけている。リーベは時差をとても不思議がり、窓からの景色に釘付けになっていた。次々と新しい飛行機に夢中になるところは、少し少年らしい。リーラに呼ばれて体は素直に離れたが、視線は窓の外へしばらく張り付いていた。


「逸れるんじゃないよ。日本とは治安が違うんだ」

「ちあん……」


 リーラの手を握り、リーベは少し不安気に彼女の腰にくっ付く。代表の集会で使ったイヤフォン型の翻訳機を耳に付ける。基礎英語は学んだが、まだ日常生活を送れるレベルには達していない。

 緊張しているリーベの頭をぽんぽんと撫でながら、リーラは辺りを見渡す。


「さて……迎えが来ると思うんだがね」

「あの方たちですか? こっちに来ているような」

「ん?」

「リーラ!」


 蝶子が示した場所に振り返った瞬間、リーラの体が吹っ飛んだ。何事だと思って見れば、倒れた彼女にゾネが抱き付いている。

 初対面の蝶子は、激しく腰元で揺れる真っ白な尻尾に驚いている。すると、彼女の少し後ろで、もう1人が立ち止まった。


「ゾネ、場所をわきまえろと言ったはずだ」


 緩く前髪をかき上げた、スーツ姿の男は呆れてため息を吐く。しかしゾネはそんなギャレンの叱責など、全く耳に入っていない。喉の奥からきゅーんと声が漏れている。


「申し訳ございません、リーラ様。一応、抑えていたのですが」

「はは、まあ予想はできていたよ」


 リーラはその場でひとしきり撫でてやり、急いで駆け寄った蝶子の手を借りて起き上がる。ゾネは「お退き」と言われると、少し残念そうに、それでもすぐに立ち上がった。

 するとゾネは蝶子の存在に気づき、金色の目をパチクリする。そして知っている匂いに鼻を動かし、蝶子を確かめるように嗅ぎ出した。


「わ、わぁ」

「ゾネ、以前話したテンシの子だ。仲良くね」


 ゾネはそう言われて、吸血事件のテンシだと思い出す。しばらく警戒するようにじーっと見つめられた蝶子は、戸惑いながらも微笑んだ。怖がるでも嫌がるでもないその反応にゾネはキョトンとし、差し出された手を少し嗅いぐと、控えめにぺろっと舐める。


「チョウコ君、この子は狼男のゾネだ。すまない、手を舐めるのは癖で……警戒しなくていいと理解した時にする行動で」

「本物のケモ耳……!」


 蝶子は赤茶の瞳を輝かせ、そっとゾネの頬に触れる。ゾネは一瞬体をビクッと跳ねさせたが、彼女の撫で方が気に入ったのか、すぐ耳をたたみ、尻尾を振った。


「キミが楽しそうで何よりだ」


 全く気にしていない様子に、リーラは安堵しながら可笑しそうに笑う。隣に立って様子を見ていたギャレンは、顔を唖然とさせて驚いていた。


「ぞ、ゾネが一瞬で懐くとは……。彼女には調教師のセンスがあるのではないか?」

「ちょーきょー?」

「!」


 ギャレンは少し下の方から聞こえる声にハッとし、視線を向ける。不思議そうな、黄色と緑が混ざった丸い瞳が、こちらを見上げている。純粋そうな視線に、彼は慌てて咳払いをする。


「君が気にする事ではない」

「ギャレン、こちらへ」


 リーラに呼ばれ、ゾネと彼女をはさむ形で隣に立つ。


「2人とも、彼らはこれから事件解決に深く携わる。仲良くしてくれ」

「ゾネ!」

「ギャレンだ。狩人になって19年目となる。今はリーラ様の代わりに、ゾネの世話係を勤めている者だ」

「リーベだ!」

「蝶子と言います。えっと、その」

「……リーラ様がもう処分を下した。私たちはそれ以上何も言う事はない」


 蝶子の歯切れが悪くなる理由は、充分に理解しているつもりだった。ギャレンは罪人に対して厳しい判断を下す方だ。

 しかしそれは、あくまでも愚かな欲に溺れた相手に限る。むしろ蝶子のように、自ら罰を刻もうとする相手には厳しく言う気はない。彼の性格からして、それは優しい言葉には変換されないが。だが蝶子には言葉の真意が伝わったのか、ぺこっと深くお辞儀をした。


「出迎え、ご苦労様。さあ帰ろう。久々の我が家だ」

「リーラ、帰る! 遊ぶ!」

「ああ、たくさん遊ぼう」


 ゾネの「遊ぶ」は、天使およびテンシの討伐を意味する。久々にドイツの正式代表とパートナーが揃った。ギャレンにとって、これほど安心できる光景はない。


「表に車を停めております」

「うん、ありがとう」


 ギャレンは鍵を渡すと共に、リーラの持っているキャリーケースとお土産が入った袋を受け取った。重い物は、いつの間にかリーベと戯れているゾネに渡す。

 基本ドイツでは車を持っていなくても、移動手段にそこまで苦労しない。しかしドイツに住んでいた頃、リーラは化粧をしていなかった。屋敷も遠く離れた場所にあるため、個人で移動する手段が必須だった。狼男であるゾネにとっては窮屈のようだが、そう簡単に昼間、狼の姿になっては騒ぎになる。

 車に乗り込み、街を通り抜けていく。リーベには未知の世界で、日本の都心とは全く違う景色に目を輝かせていた。蝶子にとっても、不思議と懐かしい。まだたった数日しか離れていないのに。空港から3時間という長い道のりだが、2人は退屈しなさそうだ。


「アルドリックが、べギーと思われる男と遭遇しました」

「そうか。あの子にしては時間がかかったね」

「常に移動しているようです。夢の天使については、まだ……」


 ギャレンはもどかしそうに、申し訳なさそうに顔をしかめた。リーラは葉巻の煙を深く吐きながら、バックミラーでチラリとリーベを見る。相手は大天使を望んでいる。


「安心しろ、奴は来る」


 リーラは顰めっ面をするギャレンの整えた頭を、クシャリと撫でる。相手もこんなチャンスを易々逃さないはずだ。リーベにとっても、いい経験となるだろう。


─── **─── **


 森の獣道を、リーラは慣れた手付きでハンドルを回す。ここを抜ければもうすぐで着く。そんな頃、リーベは蝶子の膝の上ですっかり眠りに落ちていた。途中までは、景色に目を忙しなくさせていたが、飛行機の中でほとんど落ち着いて眠れなかったせいだろう。とは言え、ゾネも後ろの席で丸くなって寝ている。

 蝶子はと言うと、どんどん人里離れていく様子に目が離せない。本当にこの先に、人が住めるような屋敷があるのだろうか。


「子供たち、そろそろ起きる時間だよ」


 リーラがそう呼びかけて数秒後、車が大きく揺れた。同時に、それまで枝が作っていた暗闇が消え、視界が晴れる。森を抜けたのだ。

 大きな揺れで起きたリーベが、窓から外を覗く。太陽の陽射しを反射する湖の表面はまるで宝石のようで、その中央にはまるで舞台セットのような大きな屋敷が佇んでいた。


「わぁ、おっきい水たまり!」

「水たまり……」

「ふふふ、湖って言うだよ坊や」

「これがリーラさんの屋敷……。大豪邸だ」


 蝶子が暮らしていた屋敷のふた回りは大きい。まるで貴族が住んでいそうな、歴史を感じる重厚感だ。見惚れていると、車が湖前に設置された小屋の中で停まる。


「さあ、みんな降りて」

「玄関まで行かないんですか?」

「ああ、普通には行けないようになっているんだ。ところで、チョウコ君は飛べるらしいね?」

「あ、はい」


 ここから先、玄関に行くには翼が必要だった。ゾネの場合はオオカミの脚力を使い、ギャレンは彼の背中に乗る。なぜこんな仕組みなのかと言うと、厄介な侵入者を防ぐためだ。さらには一般人には見えないようにもなっている。そうでもしなければ、こんな所にある屋敷なんてすぐ噂になってしまう。

 リーラの両親も、人間ではない。2人も生きやすいよう、こういった形に収まっている。

 階段先にある玄関の扉を開けると、やはりまるで城のような光景だった。豪華絢爛だが派手さはなく上品で、基本的にはロココ調にまとめられている。リーラの両親の生前に流行っていたらしく、時代をそのままにしたドイツらしい趣味だ。


「ギャレン、軽く食事を頼む。その間、リーベたちに屋敷を案内しておこう」

「承知いたしました」

「オレやる!」

「……物は壊すなよ?」


 ゾネは2ヶ月ぶりのリーラとの再会に嬉しいのか、意気揚々とギャレンについていく。わんぱくな子犬は彼に任せ、リーラは主に使うであろう客室と広間、トイレなどを案内する事にした。

 やはりどれも年季が入っている。だが丁寧に扱っていたのか、家自体がいい歳の取り方をしているような、ヴィンテージさが心地いい。ひと通り案内し終えて、そろそろ食堂へ向かおうとした時、リーベは屋敷を飾るいくつもの絵画の中、一際大きな油彩画に視線を奪われていた。エントランスに飾られたそれは、1人の赤ん坊を抱く女性の肖像画だ。


「気になるかね」


 リーラは急かさず、同じように絵画を見上げた。女性を見つめる紫の瞳は、どこか優しげに見える。


「美人な方ですね」

「うん、きれいだ」


 実は入った時から、蝶子も気になっていた。有名な作家のサンプルに混ざって、時々この肖像画の女性が描かれた絵があったからだ。それも同じ画風で。


「母だよ」

「へっ?」

「リーラのお母さん?!」

「あれ? でもリーラさんは、人間の血は入っていないって」

「ああ。この姿の時は人間だ。だがワタシを身籠った時は、まだ人間界に堕ちる前だったからね」


 リーラは「母は」と呟くと、続きを言わずに口を閉じる。どこか迷いを感じたが、すぐまた開かれた。


「母は、天使なんだ」


 驚きのあまり、リーベと蝶子は顔を見合わせる。そう、リーラの母は、天使。つまり彼女は、天使と悪魔の間に産まれた子供だった。

 悪魔の父と天使の母は、両者共に人間界で出会い、恋に落ちた。母の住む天界は厳しく、悪魔の子を孕んだと罰として力を奪い、人間としてこの世界に堕としたのだ。無事にリーラを出産したはいいものの、複雑な血を持つ彼女の成長は人間よりもはるかに遅く、歩くようになるまでに10年以上掛かったのだそうだ。

 だそうだと言うのは、その頃の記憶がリーラには無いからだ。やっと物心がつく頃、彼女は人攫いにあい、2人とは離れ離れになった。


「妹があとから産まれたそうなのだがね、どうやら天使の血が濃かったらしく、天界に奪われたと聞いている」


 その後、父とは一度だけ再会を果たしたが、人間となった母は流行病に倒れ、とっくの昔に亡くなっていた。

 父との再会で、彼女は初めて自分の血筋を知った。初めは驚き、恨みもした。当時、楽園化計画の被害者となった彼女にとって、天使というだけで無条件に恨ませるには充分だった。悪魔だけであれば、きっとこうも苦しまなかった。そうやって、天使を愛した父を恨んだものだ。

 しかし遺されたこの家には、母の愛があった。そしてこの絵に抱かれているのは自分。そんな自分を見つめる母表情は、当時欲しかった愛そのものだ。


「これは父上が描いたんだ。右下をご覧」


 青い指輪が飾る人差し指が示すの所には、サインと共に、何やらドイツ語でひと言記されていた。日本語に訳すと『この世の唯一の花』という意味になる。父は女性を花に例え、彼女以外の女性は目に入らないという愛の言葉だった。

 こんな甘い言葉を投げられるのを見ると、恨む気が失せる。それに狩人になって様々な天使を会うと、あまのように悪い存在だけではないと理解できた。


「それに、この血だからこそテンシを浄化できるんだ。保護の子たちを戻す薬も作れる。今では感謝してるよ」

「リーラ、ごはん!」


 食堂へ向かう途中にある、外が見える渡り廊下から、ゾネの元気な声が呼ぶ。リーラは「今行くよ」と返事をし、2人に優しく微笑んだ。


「長く喋りすぎたね。身の上話はここまでにして、食事にしよう。忙しくなるから、英気を養わねばね」


 この屋敷は綺麗だが、広さの割に人が少ないため生活感が感じられいと、2人は思っていた。しかしそれは間違いだと知る。この数日間、きっと彼女の事をもっと深く知れるだろう。なにせリーラの笑顔は、葉巻から出る紫煙のように、心を隠しているから。

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