故郷へ

 ドイツのとある街外れ。闇夜を駆け抜ける影を、雲間から覗く月が見つめた。月光に照らされたのは、真っ白な毛皮の巨大なオオカミ。オオカミは追いかけていた獲物の足に噛みつき、まるで玩具のように振り回した。遠心力に耐えきれず、獲物の胴体は足から切り離される。壁に叩き付けられたのは、人間ではない。テンシだ。


「ゾネ、殺すなと言った」


 ゾネに叱咤の声が飛ぶ。仕方なさそうにしているのはギャレン。彼らは今日、少しでもべギーと夢の天使について情報を探ろうと、狩りをしていたところだ。

 殺しては情報収集にならない。そう呆れる彼に、ゾネはむっとした顔をしながら吠える。


「動く!」


 ゾネは壁にもたれるテンシの体を、前足で少し乱暴に引っ掻いた。するとテンシは痛みに喘ぐ。


「そうか、早計だった。すまない」


 ギャレンはそう言って謝罪すると、ゾネの大きな頭を撫でる。ゾネは少し心地良さそうに、眩しい金色の目を閉じた。生真面目なギャレンの性格はゾネにとって本来面倒だが、こういう正直なところもあって、比較的懐いている。

 テンシは残った腕で、そっと脱走を試みていた。暗闇では、狩人でも目を盗める。だがその瞬間、バシンッと空気を切り裂く音が、街に響き渡った。同時に、テンシは腕に燃えるような激痛を感じる。


「逃すとでも思ったか。ずいぶんと舐められたものだ」


 ギャレンが手に持っているのは、艶のある黒い鞭。愛用している武器だ。少し掠めただけでも、肌をめくるほどの攻撃力があり、テンシの腕は赤い肉が顔を出している。

 唸るゾネを背後に、ギャレンの琥珀色の目がテンシを見下ろす。血を滴らせる鞭を、呼吸を荒くさせるテンシの顎に添え、強制的に顔を上げさせた。


「質問に答えろ。べギーという占い師はどこだ?」

「べギー……?」


 訝しむように言葉を繰り返すと、ギャレンの目が細くなり、鞭を握る手に力が込められる。テンシは僅かな動きで察したのか、慌てたように「知らない!」と叫んだ。


「俺のところに天使が来たんだ! アイツは俺を選ばれたと言った……!」


 興奮気味に言うテンシの目は爛々としていて、嘘をつくような余裕も考えもないのが分かる。ギャレンは呆れたようにため息をつく。何が選ばれただ。所詮力を堂々と犯罪に使う愚か者じゃないか。

 べギーと関係ないとなれば、時間の無駄だ。ギャレンは鞭を手元に戻し、背を向ける。テンシは解放されたと、喜びを顔に浮かべた。


「食っていいぞ」

「は?」


 ギャレンが去るのとすれ違うように、ゾネがテンシに顔を近づける。唖然としたテンシが最後に見たのは、眼前に迫る巨大な牙を持つ口だった。


 ゾネの毛皮は雪のように白い。だから返り血はよく目立った。彼は満足そうにしながら、食後の毛繕いをする。その場に残ったのは、緑色の核だけ。ギャレンは地面に転がった核を、ハンカチをかぶせてから拾った。

 今日は有力な情報がゼロだ。明日にはリーラが来ると言うのに、まだべギーや夢の天使についての確信的な情報が手に入っていない。今日何度目かのため息を吐くギャレンの頬を、ゾネが慰めるように舐めた。


「やぁやぁサディスト君。お困りかな?」


 そんな2人に、愉快そうな声がかかる。声をかけたのは、服装が少し乱れたやさぐれている男。帽子と前髪によって影が落ちた顔は、面白そうな笑顔が不気味に見える。しかしギャレンとゾネは警戒している様子はない。


「アルドリック、お前、戻って来たのか」

「失礼な、まさか俺が裏切るとでも?」

「3日間行方を眩ませておいてよく言う」

「そりゃあ情報屋なんだ。張り込みってのは1日じゃあ足りないもんだぜ?」


 アルドリックは「坊や元気か」と言いながら、ゾネの鼻をくすぐる。彼は浮浪者のような見た目だが、テンシ狩りの仲間。しかしギャレンたちのように武器や特殊な力を持たない。簡単に言うと、戦闘力が無いのだ。その代わり情報収集力が一段とあり、そこをリーラに買われた。現にどうやら、頼んでいたべギーについて情報を掴んできたらしい。

 今日はもう夜も遅い。ギャレンとゾネはアルドリックを連れて、屋敷に戻る事にした。ゾネの背中に乗り、夜道を駆ける。


「いや~爽快だな、坊やの走りは!」

「……アルドリック、お前のその格好、どうにかならないか? 明日、久々にリーラ様と会うんだぞ?」

「お嬢様は自然体が好きだ。これが俺の自然体ってわけだ」


 悪い人間でないのは分かっているが、どうにもギャレンは自由すぎるアルドリックが苦手だ。上手く躾けられない。アルドリック自身が面白がって絡んでくるからというのもある。ゾネは飾らない彼にも懐いているが。

 ゾネは家々の屋根から飛び降り、やがて森林の獣道を通る。人里離れた森を抜けた先に、大きな湖がある。その中心に聳え立つ屋敷が、リーラの両親が彼女と暮らすために建てた家。太い四肢に力を込めて思い切りジャンプし、玄関の前に降り立った。橋の無い湖には正式な渡り方があるのだが、これはゾネ流だ。

 3人は屋敷の中で、広いリビングルームのソファに腰を落ち着かせた。ゾネは大きくて座れないから、ギャレンの後ろで丸くなる。夜間の彼は昼間同様喋れるのだが、人型の時よりも得意ではなく、行動も野生的だ。

 数枚の写真が、シックなデザインのテーブルに広がる。写っているのは、いかにもな怪しいローブを身につけた男。今の時代、こんな古臭い占い師が生き残っているのかと驚いた。穏やかな笑顔が多いが、そのどれも胡散臭い。


「ん? ここに写っているのは……客か?」


 指で示した写真には、べギーともう1人、少年が写っている。歳にしては珍しく杖をついている手には包帯が巻かれていて、顔は見えないが首も怪我をしているようだ。べギーに手を差し伸べているように見える。

 するとアルドリックは首を横に振った。


「これ以上近づけなかったから見えねえが、コイツは客じゃあない。おそらく天使側の人間だ。核を渡していた」

「そうか、やはりリーラ様が言う通り、大元と深く関わっている」

「で、これが占い師の所有物。あとで坊やに嗅がせればいい」


 懐から取り出した袋の中に、1枚のハンカチが入っている。直前まで使っていたそうで、ギャレンは礼を言って受け取った。

 誇るべきではないが、アルドリックは前職にスリをしていた。リーラの懐を漁った時は流石に捕まったが、それでも手先の器用さは誰よりも抜群だ。

 リビングルームにある古いデザインの柱時計が、深夜の知らせを響かせる。有力な情報は手に入った。あとはリーラたちを迎える準備のため、眠るとしよう。自室に行こうとしたギャレンは、ゾネに襟首を噛まれて進めず、彼の毛に埋もれる。グイッと頭を押しつけられ、ここで一緒に寝ろという意思が伝わった。

 もうすぐリーラが来るのが待ちきれず、寂しいのだろう。ギャレンは咎める事はせず、「分かった」と言って頭を撫でる。可笑しそうに笑うアルドリックに別れを告げ、2人は身を寄せて眠りについた。


─── **─── **


 日本からドイツへの道のりは10時間以上と長旅だ。日中に着くためには夜の便に乗る必要がある。

 リーラはドイツの部下たちへのお土産を空港で選んでいる。ついでにリーベが退屈しないよう、お菓子や絵本なんかも選ばせる。しかし本人は、生まれて初めての生まれて初めての飛行機に緊張で興奮気味だ。どれも正常に選べない。


「飛行機って、どうして飛ぶんだっ? 重たくないのか? リーラの翼みたいになるのか?」

「あー、坊や、それについてワタシは専門的じゃなくてだね……。ふむ、どうしたものかね」


 やれやれと困ったようにするリーラの隣に居た蝶子が、しゃがんで彼を見上げながら手を優しく握る。


「リーベ君はどんな絵本が好き?」

「えっとな、わたしはお喋りが好きだ!」

「うーん……じゃあこれとかどうかな? ほら、こぐまがお喋りしてるよ」

「ほんとだ!」

「他にも色々探してみよっか」

「うんっ」


 蝶子は丸い目をさらに大きくさせていまいち会話が成り立たないリーベを、上手くいなしている。優しく話をしながら、リーラに目配りさせてここは任せていいと伝えた。リーラは言葉に甘え、お土産選びを再開させる。

 帰省について来るのは、リーベだけではなかった。蝶子は今回の事件に1番関わった人物だ。現場に行くのはつらいだろうが、事件に大きな貢献となる。そしてそうなる事を、蝶子自ら望んだ。そうすれば少しは罪滅ぼしとなるかもしれないから。時間が許すのなら、まともな別れをできなかった両親の墓参りもしたい。


「これ、蝶子と一緒に読みたい」


 リーベは少し分厚い絵本を胸に大事そうに抱える。それは小人が冒険する壮大な物語だ。


「じゃあリーラさんにお願いしようか」

「うん、リーラー!」


 パタパタ駆けていくと、リーラから走っちゃダメだと注意されながらも頭を撫でられる。リーラは特に値段を見ないで買い物をするタイプだ。これがいいと言われ、差し出されると「これだけか?」と尋ねられる。リーベは物欲があまりなく、嬉しそうに頷いた。


「チョウコ君、助かったよ。キミも何か欲しいものがあれば言いたまえ。映像は観れるが、ずっとは疲れるだろう」

「ありがとうございます、でも大丈夫です。アニメは何話観てもいいので」

「ははは、そうかい」

「それより……あの、僕までいいんですか? その……ファーストクラスって」

「もちろんだとも。何も気にする必要はないよ」


 リーラが毎月帰省に使う便は決まっている。彼女は信用した会社以外を使わない。

 しかし蝶子の家も裕福な方ではあったが、ここまで大胆な金払いはなかった。気軽に一緒にドイツへ同行すると言ったら、二言で賛同された。だがまさか、片道だけで100万を超えるファーストクラスだとは思わない。気軽に申し出たのを後悔する。


「ワタシは以前、狩人になって100年を迎えたそうでね。伊達に稼いでいないんだ。それに、金は使わないとただの紙切れだからね」

「100……」

「リーラは長生きだなぁ」

「ふふ、心配しなくても、全員を養える分の蓄えはあるよ。さあ諸君、搭乗時間だ。しばし日本とはお別れだよ」


 身軽なリーラは蝶子が詰めたキャリーケースを代わりに引き、手ぶらになった彼女はリーベと手を繋ぐ形となった。目を輝かせて「行こう!」と言うリーベと一緒に、リーラの背中を追う。

 ドイツに帰るのは、なんだかんだ言って二ヶ月半ぶりだ。こんなに長期的に故郷と離れた事が、リーラには無い。飛行機が離陸する姿を、少し懐かしそうに窓越しに覗いた。

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