少女の願い

 ──蝶子は産まれてから体が弱く、20までは生きるのは難しいと言われていた。太陽の光にも弱く、アレルギーも多い。そして喘息も持ち合わせ、8歳の頃にはほとんど入院生活だった。

 そんな中、父と母は彼女の体に合った環境や医者を探し、多くの国を渡り歩いた。幸い、両親共に仕事は場所に囚われず、一般家庭よりも資金があった。そしてここ四年はドイツで過ごしていた。

 ドイツの気候や医者の相性が良かったのだろう、蝶子の体調は悪化しなくなった。もちろんほとんど自室で過ごし、太陽アレルギーも発症したため病院に行く時も車移動で、外になんて出られないし、学校にも行けない生活だ。しかし彼女はそこまで絶望していなかった。それは両親の存在が大きい。

 両親は彼女の体調に、干渉しすぎないように努めていた。


「蝶ちゃん、おはよう。あら、いい匂い」

「おはようママ。昨日SNSで見たシフォンケーキ、作ってみたんだ」


 歩いても呼吸が乱れないこんな日は、蝶子が母の家事を手伝ったり、趣味の料理をする。親としては何もせず休んでいて欲しい気持ちだが、それを抑えて好きな事をさせていた。そして体調が悪くなれば、過敏に反応はせずすぐにサポートをする。


「ん~美味しい! 蝶ちゃんは本当器用ねぇ」

「あ、またつまみ食い」


 可笑しそうに笑った蝶子は、少しむせた。すると母は「はい、お水どうぞ」と、優しい笑顔で渡す。蝶子にとって、それがとても楽だった。ストレスも病室に居る時より明らかに良くなっている。そんな生活が続いた半年前、蝶子は予告されていた20歳の誕生日を無事迎える事ができた。


「蝶ちゃん、お誕生日おめでとう!」

「蝶子が欲しがっていたのを買ってきたんだ」


 蝶子は二人からの祝いの言葉を嬉しそうに受け取りながらも、少し視線を泳がせた。母はそれにいち早く気付き、痩せたほっぺを包む。


「もしかして、ママたちに悪いなって思ってる?」

「う……うん。だって、僕は二人に何もできないから」

「何もできないだって? おかしな事を言うなぁ。今日この日をどれだけ楽しみにしていたか、分かっていないな?」

「そうよ、本当に……」


 母は込み上げる言葉を詰まらせ、ぐっと涙を我慢するように表情を固めると、蝶子を力いっぱい抱きしめる。


「生きていてくれて、ママたちの子に生まれて来てくれて……本当にありがとう」

「ああ。パパたちは本当に幸せだよ、ありがとう蝶子」


 その言葉は自身の苦労が報われたからでも、単なる励ましの建前でもない。彼らの愛を一身に受けた蝶子は、それが一番よく分かっていた。だから彼女はそれ以上言わず、ただ二人からの祝福を受け取る。

 口にせずとも、両親は気付いているかもしれないが、蝶子は何度も安楽死を考えた事がある。それは彼女が苦しいからだけではなく、これ以上大好きな母と父の呪いになりたくなかったから。だが今はそうではなく、良くなって報いようと考えている。

 日光が浴びれないと、栄養も偏る。そのため、検診の際は点滴を長い間する。その間は漫画やタブレットなどでアニメを見る事もあるが、基本的には勉強に費やしていた。だがそれをしていると、ふと考えが降りる。


「先生、私はいつ日本に戻れますか?」

「そうですね……」

「もっと良くなれば、帰れますか?」

「少しずつ良くはなっていますよ。焦らずにいきましょう」


 この質問が、担当医を困らせると知っている。だがせずにはいられなかった。まだ若いし20歳は跨いだが、いつ大病を患うか分からない。だから焦ってしまう。

 蝶子は日本が好きだ。幼い頃に離れたが、しっかり覚えている。アニメや漫画の宝庫である日本は、彼女にとって最高の故郷だ。


(推しが日本にばかり居るのが罪……。イベントだって、元気だったら行けたんだろうなぁ)


 もう一つは、母と父のため。母は時々、日本に居る友人に電話している姿がある。そしてそれは父も一緒だ。


(パパもママも日本好きだし。そりゃそうだよ、僕より長い間住んでたんだから)


 早く今より良くなって、二人に恩返しがしたい。その一心で、蝶子は投薬も体の痛みにも耐えられた。しかしそこから間もなくして、体調を著しく崩して急遽検診をすると、癌が見つかった。彼女は常に多くの不調を訴えているのがあり、健康体でも気付きにくい初期症状に全く気付けなかった。そして知った頃には、既に末期だった。

 何よりも絶望したのは母。全てをかなぐり捨ててでも、娘の命を繋ごうと本人以上に足掻いた。その姿は父も止めようとするほどで、蝶子は何より痛ましい姿に心を病んだ。

 とある日の事、母は以前の明るさを取り戻していた。そして目に隈を残しながらも輝くような笑顔で、蝶子に不恰好な赤い石を差し出す。


「何これ?」

「これね、おまじない。べギーっていう占い師さんがね、病気が良くなる宝石だって、譲ってくれたの」

「え、それって──」


 騙されている。そう言いかけた蝶子の肩に、そっと大きな手が置かれた。父は彼女に目配りをし、蝶子はその意味を理解して笑顔を作った。


「ありがとうママ。大事にするね」

「それを持って毎晩お願いすると、天使がお願いを叶えてくれるそうなの!」

「天使……」


 上手く笑顔を保てない。母は壊れてしまったのだ。彼女は毎晩遅くまで治療法を調べていて、心労も相まって寝不足だ。父は母を自室へ促したあと、ベッドに浅く腰掛けて蝶子の頭を撫でる。


「ごめんな蝶子、お前にまで無理を言わせた」

「ううん、仕方ないよ。でも……ちょっと、寂しいな」


 蝶子は少し眉を下げて微笑んだ。

 母は前までは、よく一緒に寝たりと側に居た。今は治療法を探すべく駆け回っていて、その時間も減っている。家族で過ごせる時間はもう限られているというのに。


「……蝶子、来月、日本に帰ろうか」

「え、本当?」

「ああ。ずっと行きたがっていただろう? 日本で、行きたい所をたくさん回ろう。だから、今はゆっくり休むんだよ。ママの事は、パパに任せて」

「うん、ありがとうパパ」


 蝶子は父に優しく抱きしめられ、部屋から出て行くのをベッドから見送った。ふと視界に、お守りの石が主張するように転がり込んだ。握ると、勘違いなのか熱を持っているように感じる。


(天使……天使様が本当に存在したら、漫画みたいに体の痛みも消えて、外に出れて、パパやママと買い物したり、今までの恩返しがたくさんできるんだろうなぁ)


 いくらファンタジーな世界が好きでも、叶わないと知っている。母は泣くだろう。父は平静を装っているがきっと苦しんでいるだろう。

 投薬の影響か、最近体力の減少と共に、元より無かった体重も日に日に減って行く。ずっと料理も作ってない。家事のお手伝いもしていない。


(ママはクッキーが好きだった。パパはパンが好きだった。また作りたいな。ダメかな)


 これから体がもっと痛くなるだろう。ろくに物が入っていない胃が吐こうとするだろう。どれくらい痛いのか、どれくらい苦しいのか。まだ……苦しまないといけないのか。


「死にたく、ないなぁっ」


 家族と生きたい。もっと、もっと。

 蝶子は点滴に繋がった、針跡だらけの痩せた手で、力の限り石をぎゅうっと握りしめた。天使が本当に居るなら、今すぐ現れて、病気を消してくれ。できないなら苦しませないでくれ。そんな、暴力的な感情をぶつけて涙を零す茶色の目を強く瞑った。


「あなたの夢は、なぁに?」

「……え?」


 どこからか吹いてきた風に、少女の声が乗って聞こえた。目蓋越しの視界が眩しくて目を開く。ベッドの側でにこやかな笑顔を浮かべるのは、見ず知らずの少女だった。

 蝶子は状況が掴めず、ただ驚愕で飛び起きる。その時点滴の針が抜けて激痛に悶えた。


「あらら、大丈夫?」

「へ、え? だ、誰っ?」

「天使」


 時が止まったかのように、蝶子の思考が停止した。目の前の少女は、確かに息を呑むような美しさで、天使に例えられるだろう。それでも信じられない。だが彼女が突然現れた理由も分からない。

 そうか、夢だ。とも思ったが、その仮説はついさっきの激痛を引きずった手が、じんじんとした痛みで否定する。


「それを持って、お願いをしたでしょう?」


 可愛らしい笑顔で、天使を名乗る少女は蝶子の手元を指さす。骨張った手が握っているのは、母から貰った「お守り」だ。確かに彼女はこれを持ってお願いすれば、天使が叶えてくれると言っていた。だが、そんな事が起こるのか? 起こっていいのか?


「ほ、本当に、天使様……? な、なんで」

「なんでって、あなたが心から願ったからだよ。ね、私あなた気に入ったの。夢を教えて? 夢の天使が、それを現実にしてあげる」

「ゆ、夢」


 突拍子の無い事ばかりで、頭がぐるぐる。心臓がどくどくと脈打ち、緊張と興奮でおかしくなりそうだ。

 蝶子は自分の針痕だらけの手を見た。願いは一つに決まっている。彼女は石を祈るように握った。


「生きたい、死にたくない……!」

「死んじゃうの?」

「僕、病気で……。だから、健康的な体になりたいんです。外を歩いても疲れない、起きていても体が痛くない、そんなふうになりたいんです」


 天使は幼なげに「ふーん」と相槌を打つと、蝶子の前に両手の平を見せた。にこりと笑うと「握って」と言い、蝶子は輝くほど真っ白な手に恐る恐る指を絡める。

 不思議な感覚に、びくっと体を震わせた。なんだか今、この手が体の中を直接なぞっているかのような感覚がする。今までの事が強制的に頭に描かれて、少し息苦しい。手が離れると、これまでにない疲労感が襲い、蝶子は荒い呼吸を繰り返す。


「うん、分かった。あなたの夢を、現実にしてあげる」

「ほ、本当にっ?」

「その代わり、夢は私にちょうだい。でもそうすると、もう戻らないわ。それでもいい?」


 蝶子に迷いは無かった。食い気味に頷いた彼女に、天使は優しく笑う。そして骨張った手に今も握られている、赤い石を指さした。


「それを飲んで。そうすればあなたの体は、望んだ通りになる」

「え、石を?」

「大丈夫よ、痛くないから」


 お守りの石は歪だが長細く、小石と飛べるが飲むには大きい。蝶子は手の平で主張するように転がった石を、じっと見つめる。食道の細い彼女にとっては、人よりも窒息の恐怖もあった。だがこれを飲みさえすれば、夢が叶う。

 馬鹿馬鹿しい事だ。こんな事で叶うはずなんかないと分かっているのに、蝶子は意を決して、ルビーのような石を飲み込んだ。

 想像より痛くはなかったが、さすがに喉を異物が通る感覚は不愉快で、胃に落ちるまで顔をしかめる。少しして、ストンと落ちる音が聞こえた。胃からではなく、なんだかどことも言えない、強いて言うならば体の奥から、そんな不思議な音が聞こえた気がする。

 体が重くなるのを感じた。視界がふらつき、強い睡魔が蝶子を包む。体が耐えられずにベッドに沈み込んだ。暗くなる世界が閉じる最後まで、天使は微笑んでいた。


「──蝶子、おはよう」


 落ち着いた父の声が、蝶子の意識を浮上させた。いつもの穏やかな笑顔は彼女を安心させる。しかし「あれ?」と心の中で首をかしげながら、眠る直前の事を思い返した。


「パパ……昨日、天使様が来たんだ。僕の部屋に」

「天使? そうか、もしかしたら、夢で天使が蝶子に会いに来たのかもしれないな」

「夢……」


 蝶子は右手の甲を見る。点滴は変わらずそこにあった。記憶が正しければ、確か驚いた勢いで針は抜けたはず。そうか、夢だったのか。当たり前だ、あんなの都合が良すぎる。


「……パパ、なんだかお腹が空いちゃった」

「食欲があるのか? よし、すぐに朝ごはんを持ってくる」


 昨日までは食べても吐く事が多かった。食欲も無くて、父は蝶子の要求に嬉しそうに部屋を出ていく。あんな夢を見たあとだからだろうか、なんだか体も軽くて、痛かった場所も薄れている気がする。いや、薬の影響だろうか。

 ドアが開き、父が朝食のスープを持って来てくれた。温め直してくれたのか、湯気が立っている。野菜と豆が入った、具沢山のスープで食欲を掻き立てる。こんなに食べ物が美味しそうだと思ったのは久しぶりだ。


「召し上がれ」

「いただきます」


 父の手を借りて起き上がり、スプーンで口へ運ぶ。ひと口ゆっくり咀嚼したあと、無言で次を運ぶ。父は久々に見るそんな娘の姿に驚きながらも、嬉しそうに微笑んだ。そして全て平らげた。少ない量ではあったが、完食するなんて癌になって以来だ。


「ご馳走様、すごく美味しかった」

「そうか、良かった。他にも、何か欲しい物があったら遠慮せず言いなさい」

「あ……じゃあおかわり、したい。とかは、ダメ?」

「! もちろんだ、待ってなさい」


 栄養は取れるだけとった方がいい。父はすぐにもう一杯、今度は普通の胃袋の持ち主なら食べられる分を盛って来た。蝶子はそれも簡単に平らげ、空腹を満たした。


「……家の中、散歩したい」


 五十嵐家はいつでも引っ越せるように、借り家だ。だが一般家庭よりは屋敷と呼べるほどには広い。外に出られない彼女だから、車椅子で家の廊下を父と散歩した。部屋に戻って、内緒で恐る恐る立って歩いてみた。

 疲れない。少し走ってみた。息が切れない。


「嘘……もしかして本当に天使様、僕の病気、治してくれたの?」


 そういえば、石が無い。どこを探しても無かった。ベッド以外に持ち運んでいないから、それ以外の場所で無くすなんてありえない。あの夢が現実で、飲み込んだとしか考えられなかった。


「パパ、今すぐにお医者様呼んで!」


 結論から言えば、蝶子の癌は消えていた。それどころか他の病気も、アレルギーもだ。母は泣いて抱きつき、父は珍しく医者の前でも涙を流して喜んだ。


「蝶ちゃん、ごめんね、ママ……どうかしてた。蝶ちゃんが1番つらかったのに」

「ううん、いいの。ママのおかげだもん。でも今日からは、ずっと一緒にいてほしいな。ママ、パパ、本当に大好き」


 それから蝶子は、まだ大事をとって敷地内だが、活動時間を増やしていった。母と料理を作り、父と庭を散歩した。やりたかった事だ。これかた2人に恩返しができる。生きられる。それは希望でしかなかった。

 それから数日後、蝶子は少し違和感を覚えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る