幸福論

 リーベが手を引かれて案内された場所は、ダイニングの大きな窓を出た所にあるウッドデッキ。木のテーブルを椅子が三脚が囲んでいる。簡単な作りだが、それがかえって居心地を良くしていた。

 しかしてっきり室内で話すとばかり思っていたため、リーベは不思議そうに周囲を見渡した。家は花畑の中心に建てられているからか、ここからでも美しさを充分堪能できる。

 柵で囲われているが低く、いつでも逃げられる。それに今、ギヴァーは隣に居ない。こんな無防備な状況で、お茶を用意するからと言って一人残されたのだ。


(……本当に、悪い人なのか?)


 リーベは他人の感情が読める。ギヴァーからは歓迎の気持ちは伝わって来るが、敵意や悪意などが全くない。

 隠すのが上手いだけなのか。しかしそこまではまだ、この世界で目覚めたばかりの彼は疑いを持てない。


「私はここが気に入っているんだ。君にも気に入ってもらえたら嬉しい」


 紅茶のカップとクッキーを二人分手に、ギヴァーが戻って来た。すると、リーベが迷っているのに気付いたのか、穏やかな笑顔を見せる。


「大丈夫、私は君に攻撃できない。たとえできたとしても、今日はそんなつもりじゃないんだ。時間もあまりないしね」

「ただ、話すだけ?」


 ゆっくり頷いたギヴァーを、少しの間リーベはじっと見つめる。やがて視線を僅かに椅子に逸らし、ちょこんと腰掛けた。動きを目で追っていたギヴァーは、嬉しそうに微笑んで向き合う位置に座る。

 それぞれの手前に置いた紅茶をギヴァーが飲むと、リーベも見様見真似で啜った。しかし子供の味覚には上品すぎたようで、美味しそうにする彼の様子に、自分の舌を疑って首を傾げる。


「砂糖があるから、好きに使うといい」


 カスタード色をした砂糖壺を、白い手袋に包まれた指が示す。覗いて見ると、綺麗な角砂糖がたっぷり詰まっていた。リーベにとってそれはまるで宝石のようで、角砂糖を一粒、シュガートングで拾って空にかざす。

 その姿を、ギヴァーはどこか懐かしむように笑って頷いた。


「綺麗だよね」

「うん。これが砂糖なのか?」

「入れてごらん、溶けていくから」


 試しに、ふた粒ポチャポチャと落としてみる。透き通る赤茶色に沈む白い塊。じわじわと白色に茶色が溶け、僅かな煌めきを見せながら消えていった。

 確かにそこにあったものが消えていくのは初めての感覚で、リーベは見入っていた。しかし、何かに似ていると胸の奥底が言う。そうだ、まるで──。


「まるで命のようだね」

「!」

「君もそう思うだろう? 幼くとも、大天使なのだから」


 ギヴァーの笑顔は変わらず穏やかだ。しかしリーベは逃げるように慌てて顔を逸らし、カップを両手でギュッと握る。

 図星だった。彼の言う通り、まるで命のようだと思ったのだ。まだ何も分からないというのに、何故かそんな思考だけがぽんと頭に浮かんでしまった。そして、恐ろしい事にそれを美しいと思った。

 リーベはティーカップを受け皿に戻し、恐る恐る尋ねた。


「……どうしてギヴァーは、楽園を創りたいんだ?」

「人間を愛しているからだよ」

「嫌いじゃないのか?」

「嫌い? 嫌いな存在に幸せを与える事はしないと思うよ」


 たしかにそうだが、意外な回答だった。しかし可笑しそうにクスクス笑う彼から偽りも、皮肉も聞こえない。

 ギヴァーは真っ黒な瞳を、風に揺れる青い花へ向けた。


「素晴らしいと思わないか? 自分が望む幸福が手に入る。全人類が怯えて待つ世界の終わりを、幸福の中で恐怖を知らず迎えるんだ。もう、泣く人もいなければ、空腹に罪を犯す人も、誰かを殺さなければならないほど憎悪に支配される人も消える」


 そう語る声は、まるで絵本の世界を読むように優しい。リーベの中で蘇る、楽園を語る声そのもの。ギヴァーが人間を愛しているという言葉に、偽りはない。

 花畑に向いていた暗く優しい瞳が、リーベを見つめる。


「だから、大天使である君の歌声が必要なんだ」


 語られる話は、本当に夢のようだ。それなのに、どうしてか目覚めたばかりの本能が、違うと叫んでいる。

 リーベは紫色に染まった目を強くつぶりながらも、姿勢を正すと口を開いた。


「わ、わたしは、楽園を作りたくないっ」


 声が詰まりつつも力強い宣言に、ギヴァーはポカンとする。二回ほどゆっくり瞬きをすると、怒る事もせずティーカップを静かに置いた。その仕草は、頭の中を整理するための時間稼ぎのようだった。


「何故?」

「みんな寝ちゃった世界は……さみしい」

「寂しい? そんなはずはない。永遠の幸せが約束されるんだ」

「うん……でもな、玻璃はりがそうじゃないって、教えてくれたんだ。友達や、美味しいものとか、いろいろな幸せが、夢じゃ手に入らないて。わたしが、知らない幸せがたくさんあるんだ」

「玻璃……ああ、君の器か」

「わたしは、ここで幸せになりたいんだ!」


 ギヴァーはあまり表情を変えないが、光を受け入れない黒い瞳は驚いているよう見える。実際、今彼を支配しているのはその感情だ。


(まさかあの子が幸福を教えるなんて)


 ギヴァーは玻璃を見た時、幸福になるべき存在の一人だと感じた。あの見窄らしい子を放っておいてはいけないと、使命を覚えるほど。だから必要な金を渡したし、食事も用意したのだ。玻璃が病院へ赴いた日は、運悪く日本に居なかったため様子を見れなかったのが残念だった。

 おそらくは、被験者同士で交流があったのだろう。彼はあの短期間でほんの僅かな幸福を体験した。それがリーベの魂を受け入れるきっかけとなったのだと思われる。


(そしてリーラに拾われた。うーん……想定外だ)


 核が飛び散った事も、リーベが幸福を他人から聞く事も……全てが想定外だ。迷いながらも強さを見せる瞳を、今すぐにこちらへ揺らがせる事はできないだろう。

 まぁ、拾ったのがリーラだっただけ、まだ安心できる。彼女ならば、リーベを下品に扱わないだろうから。


「これも運命か……」

「?」

「君が言いたい事は分かる。夢の中で幸福を手に入れたとしても、所詮は偽物だと」

「うん、そうだ! だから」

「けれど、幸福は幸福だ。無理なんだよ、現実世界で全ての人間が幸せになる事なんて」

「そんな事……」

「人間は、賢くなりすぎたんだ」

「だったら、幸せになる方法だって、まだ思いつくはずなんだ」

「不可能だ。可哀想なくらいに愚かな人間には」


 静かに目を伏せる姿はとても悲しそうで、リーベは居てもたってもいられなかった。彼は勢いよく立ち上がり、主張するように薄い胸元に小さな拳をぶつける。


「ならわたしが見つける! ギヴァーだって、そっちの方がいいって思ってたんだろうっ?」


 思っていたはずなんだ。だって、過去にリーベのような考えを持っていたような口ぶりだから。それを諦めた結果なのだとしたら、覆したい。この優しい人を、哀れな人にしてはいけないのだ。


「私は……」


 ギヴァーにとって、それは何も知らない赤子が持つような思想に過ぎなかった。そうひと言で蹴るのもできる。しかし彼は、開いた口を閉じて言葉を飲み、代わりに別の言葉を呟いた。


「君は知らない事が多い。たくさん知るといい。人間について」


 そうすれば、おのずと同じ考えになる。きっと彼が自ら歌う事になるだろう。


「それでもなお、変わらないなら……私と勝負をしよう」

「勝負?」

「どちらが本当に幸せにするかの勝負だ」

「うんと……勝負よりギヴァーと友達になりたい。だってわたしは、あなたの事も幸せにしたいんだ」


 ギヴァーは呆気に取られ、目を何度も瞬かせた。そして小さく吹き出して笑う。そんな関係性を求められるなんて、思ってもなかった。本当に、今世では想定外な事しか起きない。だが、悪い気はしなかった。


「ふふふ、いいね。じゃあこれからは、君を見守らせてもらうよ。その代わり、私もそれなりに動き続けるけどね」


 紅茶を飲み、ギヴァーはゆっくり腰を上げた。リーベはそれを視線で追い、背の高い彼を不思議そうに見上げる。


「もうばいばいなのか?」

「うん、独とリーラの決着がついている。そろそろ帰さないと、心配させてしまうからね」


 リーベは来た時と同じように差し出された手を取り、花畑へ出た。導かれるままに向かったのは、花畑を囲むようにある森の入り口。


「ど、独はどうなったんだ?」

「驚いたな……痛い目に遭わそうとした相手を気遣うのか。君を攫ったんだから怒っているだろうし……半殺しくらいにはされたんじゃないかな? そもそも最初から、彼が勝てる見込みはなかったしね」


 ギヴァーが時間がないと言ったのは、リーラが独との戦いの決着が一瞬であるのを理解していたからだった。彼の性格だから情けを乞う事もしないだろうし、リーラも探している人物が居ないとなれば、わざわざ時間をかけない。


「リーラの事、たくさん知ってるのか?」

「ん~どうだろう? 私は遠目に見ているだけだからね。あ、でも性格が明るくなったかな? 口調も。知っているのはそれくらいか。彼女に対しては、きっと君の方が詳しくなるよ。私はもう仲良くなれないだろうしね」


 ギヴァーは少し残念そうに眉を下げて笑った。

 二人の間にあった出来事を、リーベは決して想像できない。どうやらギヴァーからリーラへは敵意はないようだ。だが彼は楽園を望む側で、彼女は望まないのだから、必然的に溝は深くなるのは仕方がない。

 それならばどうして、独に対して無関心なのだろう。対峙するのが読めていたのなら、彼を連れてくるか支援するはずだ。


「独は仲間なのに、助けなくていいのか?」

「仲間、だった。関係性を保つための約束を破ったからね、助ける義理はない」

「約束?」

「力を渡す代わりに、君を私の所へ連れて来る」

「? それだったら、独は守ろうとしていたぞ?」

「無傷で……というのが条件だった」


 彼が感情に忠実である事はよく分かっていた。だから操りやすいのだが、こういった人物は約束というものを大事にしない。それを考慮して観察したが、幼い子供相手にああも怒りを丸出しにするとは思わなかった。

 もし約束を守ったままリーラと対峙する事になっていれば、多少の手助けはするつもりだったのに。


「わたしを連れて来るって言うのは、話をするため?」

「そうだよ。話す内容は変わったけれどね。さあ、ここからまっすぐ進んでごらん。振り返ったら迷ってしまうから、前だけを見るんだ。そうすれば君を探している仲間に会える」


 ギヴァーは促すように、繋いでいる手を前へ出してリーベを数歩前に進ませる。手をそっと離すと振り返る彼に微笑んだ。


「リーベ。私はまだ楽園を諦めていない。その気になったらいつでもおいで」

「……また、話せるか?」

「もちろんだ。たくさん、多くの事を知るんだよ。見守っているからね」


 リーベは手を振るギヴァーに見送られ、森の中へ足を踏み入れた。途端に当たりは、太陽を忘れたように薄暗くなる。孤独の混ざる視界の悪さに、思わず振り返ろうとしたが、なんとか思い止まった。


(わたしは、知らなきゃ)


 帰って、たくさんの事に触れなければいけない。そう自分を奮い立たせ、森の中を走り出した。

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