記憶は脳に刻まれて

 森が小さな白い背中を隠す様子を、ギヴァーは静かに見送った。花を踏まないように家に戻り、ウッドデッキの椅子に腰掛ける。ポットの中に残った紅茶をカップに注ぎ、一人で飲んでいると、ペタペタと素足の音がした。

 室内の方へ向くと、真っ白なカーテンに紛れるようにグレースが立っている。優しく微笑むと、彼女はそっとウッドデッキの床板を踏んだ。


「おはようグレース」

「おはよう。なんだかギヴァー、嬉しそう」

「ああ、そうかもしれない」


 彼はいつも穏やかな表情をしている。今も変わらずだが、グレースにはそれがいつもより嬉しそうな感情を含んでいるように見えたのだ。

 グレースはギヴァーに手招きされ、抱き上げられると彼の膝の上に座る。そこで彼女は、テーブルの上にカップがもう一客ある事に気付く。


「誰か来ていたの?」

「ああ」

「患者さん?」

「いいや、大天使さ」


 グレースは黄色と緑の混ざる瞳を驚いたように見開いた。彼女はたとえ寝ていたとしても、大天使の力を感じ取れる。しかもここに来るまでは本を読んでいたのだから、気付くはずなのだ。

 そう思っているのが分かったギヴァーは、優しく小さな頭を撫でる。


「大天使の核は散らばってしまった。だからお前が分からないのは無理ないんだよ」

「そう……。帰したの?」

「ああ、今日のところはね。その結果、楽園化はもう少し先になりそうだ。大天使が望んでくれなかったからね」

「じゃあ、どうして嬉しそうなの?」

「友達ができたからだよ」


 グレースからすれば突拍子のない単語に、彼女は何度も目をパチクリさせる。何がどうして友達となったのか、全く想像ができない。それでも彼が嬉しそうならば良かった。


「また来る?」

「ああ、思い出したら、彼から来る」

「記憶を消したの?」


 今頃、森を彷徨い終えたリーベは元の場所へ帰っているだろう。そして森を抜けたと同時、ギヴァーと出会った事、会話した事などは覚えていない。


「今はね」


 リーベの事だから、記憶をそのままにして帰せばリーラにそのまま喋る。友達になった事も、もれなく。そうなればリーラは傷つくだろう。彼女にとってギヴァーは恨む存在。そんな相手と友達になったなど知ったら、要らぬ傷を作る。


「別に私は、あの娘を好きで傷付けたいわけじゃない」


 それに必要な記憶は、忘れても表面上だけ。脳に刻まれ、必要となったその時に思い出されるものなのだ。


─── **─── **


 ただまっすぐ前を見て走り続けて、すぐに視界に変化が現れた。さっきまで薄暗くも多少の光はあったが、完全に日が落ちたように真っ暗になる。

 止まりたくなるが、足を止めたところでリーベには他の手段がない。とにかく転ばないように走った。だがその暗闇も、一瞬で終わりを告げた。次に彼を包んだのは霧。まるで雲の中に入ったかのような白さに、リーベはついに目を閉じて立ち止まった。


「……?」


 少しして、恐る恐る目を開ける。そこは見知らぬ公園だった。木々はあっても、森なんて呼べるものは近くになく、どこを見ても住宅やビルだけ。


「あ……君」


 静かな少年の声が投げられ、バッと振り返る。そこに居たのはめぐる。リーベが会うのは二度目だが、BARで顔を見た狩人の事はもう全員覚えていた。

 しかし、問題は紾の方だ。彼は自分の記憶力にめっぽう自信がない。いや、自信を持ってはいけないほどだから、彼がリーベであるか、言い切っていい自信がなかった。だが、リーラのパートナーという事もあって、他の新人よりかは印象強く頭に刻んだつもりでいた。


「あー、リーベくん?」

「うん!」

「良かった。リーラが探して──」


 ほっと胸を撫で下ろすと、リーベが駆け寄ってきた。知り合いとの再会が嬉しいのか、瞳が黄色に眩しく輝いている。紾も咄嗟に受け止めようとしたが、手袋や上着を脱いでいる事に気付いた。リーベを探している最中、熱くなって脱いだのを忘れていた。

 慌てて避けると、空気を抱きしめたリーベはキョトンとする。


「うぇ?」


 避けられると思っていなかったリーベは、みるみるうちに、青くした目に涙を溜める。それを見た紾はハッとして急いで両手を上げた。


「ごめん、待って。リーベくんがイヤだから、避けたんじゃないんだ。ごめん」


 紾は、ごめんと待ってを繰り返しながら、ポケットから手袋を取り出した。素早く装着して、腰に巻き付けた上着を羽織ってから、涙を堪えるリーベを慰めるようにポンポンと頭を撫でる。


「僕の体、毒なんだ」

「どく?」


 紾は幼少期から偏食だった。言葉の通り、偏った物しか食べられない。最近は大なり小なり、言葉が浸透しているかもしれない。だが紾の偏食は、中でも異色だった。彼が体内に入れられるのは、毒物のみ。それも人体に影響を及ぼすものだけだ。

 普通の食事をすれば吐き出してしまう。異常と感じた家族は、すぐ医者へ連れて行った。大人になれば治ると言われたが、その兆しは一切ない。それどころか、長年蓄積された毒物の影響で彼の涙、汗などの体液や肌、髪など全身が毒物そのものになった。

 おかげで毒についての知識や護身の術が手に入った。しかし全てが紾の味方というわけではない。毒物を摂取し続けるおかげで、物忘れが激しいし、一日の半分を睡眠に奪われる。


「直接触ったら、リーベくんの肌が焼けたりする。嫌いなわけじゃないから……安心して」


 紾は目を丸くして聞いているリーベに、小さく息を吐いて一歩離れた。何が安心してだろうか。そう自分に心の中を小突く。

 そう、何よりこの体質は紾を孤独にした。存在しただけで家族の仲を引き裂き、かつて居た友人も離れた。狩人になってからは多少交流ができるが、やはりいつ嫌われてもおかしくないと考えている。


「だから、長い服着ているのか?」

「あー、うん、一応ね」


 これまでの経験から、布を挟めるば触れても問題ないと分かっている。それ以来、季節関係なく長袖長ズボンと、手袋が必需品となっていた。

 頷くと、リーベは「そっか」と言い、紾の胸に飛び込んだ。


「えっ」


 リーベは子供のように軽い。だから少し押されてもなんともないが、紾の体は一緒に後ろへ倒れ、尻餅をついた。飛び込んでくるなんて思っていなかったから、受け止める準備をしていたなかったのだ。

 あっけに取られ、紾は夜色の目を瞬かせる。そしてハッと胸元を見た。すると、リーベも胸に押し付けていた顔を上げ、ふにゃっとした嬉しそうな笑顔を見せる。


「……リーベくん、話聞いてた?」

「? うん、聞いてたぞ?」

「じゃあなんで、僕に触ったの?」

「ぎゅってしたかったから。あ、ダメだったか?」

「いや……こ、怖くないの?」

「怖い? 紾は優しいのに怖いのか?」


 不思議そうに小首を傾げる様子に、紾は彼が理解できていないのだと判断した。しかしリーベは体を離すと、手袋をした紾の手を頬に触れさせる。そしてまたにこっと笑った。


「大丈夫だぞ? わたしは痛くないし、怖くない。だから、紾も怖がらなくていいんだ」


 眠たげな紾の瞳が、零れ落ちそうなほど大きくなる。驚いた。こんな小さな子供に、忘れようと押し込めていた恐怖を理解されていたなんて。


「はは……やっぱあの人の人選、侮れないな」

「?」

「リーラのパートナーにぴったりだなって、思ったんだよ」

「ほんとかっ?」


 紾は珍しく頬を緩めて頷いた。まだリーベがどんな力になるか分からない。それでもそう言い切れるのは、彼がリーラと同じ事を言ったからだろう。初めて素手で握手をしても死ななかった彼女は、得意げに笑って「もう怖がらなくていい」と言ったのだ。

 そんな事を思い出しながら、紾はリーベに手を差し伸べる。


「改めて……これからよろしく」

「! うん!」


 リーベは白い手で、灰色の手袋越しにギュッと握り返した。


 二人に影が落ちる。いち早く気付いた紾は、何かと空を見上げた。器用に空中で止まっているのは、大きなカラス。血のように赤い目と、遅れて見上げたリーベの黄色の目が合った。


「やあ、ずいぶん仲良くなったじゃないか」


 耳慣れたその声は、どこか安堵を含んで聞こえる。リーベは声に振り返り、ぱっと顔を明るくさせた。


「リーラ!」


 彼は立ち上がり、そのままリーラに抱きついた。抱きとめられ、柔らかな暖かさが嬉しくて目をつぶる。しかしすぐ、リーベの鼻腔を血生臭さがくすぐった。慌てて体を離して見れば、やはり胸元が赤く染まっている。白いシャツだからよく目立った。


「血……?!」

「ん? あぁ、もう塞がってるから安心したまえ。それより、ワタシはオマエが無事かどうか、肝を冷やしたがね」


 リーラはさっと青ざめるリーベの顔を両手で包み、頬をむにっとつまむ。


「やれやれ、世話の焼ける坊やだ」

「んぅ、む、ごめ」

「ふむ、怪我はないようだね。ワタシも目を離してすまなかった。怖かったろう?」


 そう言われ、リーベは自分の胸の内へ首を傾げた。知らない間に店から離れて一人になった。それはとても恐ろしいはずなのに、どうしてか恐怖を感じた記憶がない。

 リーラが不思議そうにしている彼の服の汚れを叩き落とすと、その反動でふわりと紅茶の香りが漂ってきた。


「誰かとお茶でもしてたのかね?」

「あ、うんとな……あれ? 何してたっけ」


 何かしていたという感覚はあるのだが、それを頭に尋ねても、それらしい景色を思い出せない。何度も首を傾げるリーベの頭に、黒い手がぽんと置かれた。


「覚えてないなら仕方ない。無事で何よりだ。今日はもう帰ろう。メグル君、良ければランチでもいかがかね?」

「え? あ、うん」


 リーベはしばらく、覚えていない記憶についてうんうんと唸っていたが、何が食べたいかと聞かれた瞬間、そっちに意識を持っていかれていた。

 紾は彼と手を繋いで歩き出したリーラに遅れてついて行き、こそっと囁く。


「いいの? マスターに言っておいた方がいいんじゃない?」

「あとで帰ってきたと連絡するよ」

「そっちもだけど」

「記憶についてだろう? 安心したまえ。記憶ってやつは不思議でね、必要な時に思い出すんだ。意図的に消されたのなら、それこそね」

「消されたって」


 紾は一般狩人だ。まだ歴も浅く、代表同士で会話し合う内容は知らされない。言葉に隠した内容を迂闊に尋ねられなかった。

 リーラは不安そうな彼の頭を、空いている手でわしゃわしゃと撫でる。


「大丈夫だ」


 そう言って、いつも通り勝ち気に笑った。「大丈夫」と言う言葉と笑顔は、彼女の口癖。そしてその通りにしてしまう。いや、何がなんでもそうする。彼らが安心して、この世界で立ち続けられるために。

 言葉に込められた自信を紾も知っている。だから彼も、少し頬を緩めて頷いた。


「それに、マスターは今忙しいだろうしねぇ」


 もう送った独が届いているだろう。となれば、仕事の真っ最中。今頃、マスターが作った地獄で歓迎しているはずだから。

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