最後の情け
突然現れた光が消えたと思えば、リーベの姿までなくなった。訳のわからない状況に
「あ……? 羽?」
目の前に、ヒラリと艶のある黒い羽が落ちてきた。なんだと上を見上げようとした瞬間、視界が黒く染まる。それと同時、ギャアギャアと耳障りな鳴き声が聞こえ、鋭い痛みを感じた。
咄嗟に顔を庇いながらも、頭は冷静に正体を探った。それは鳴き声がずいぶんと聞き知ったものだったからだ。鋭い痛みがクチバシと爪であるのを理解したと共に、正体がカラスであると判断した。
「おやめ」
「!」
その声は、静かなのにカラスの鳴き声に邪魔されずに耳に通った。すると、振り払うよりも前に、カラスが声に従って離れていく。
飛んで行くカラスは、小学生くらいなら拐えそうな大きさだ。そんな力強い脚が止まり木に選んだ腕を見て、独は面倒くさそうに舌打ちをした。数羽のカラスに囲まれながら降り立ったのはリーラ。その後ろには、少し不安定に着地した
しかしリーベは常に彼女の隣に居る。だからいずれバレるとは思っていたが、予想よりずいぶんと早い。紾の存在から、昨晩のやりとりが伝わったからだと予想できた。
「ごきげんようドク君。リーベとの散歩は楽しかったかね」
「……本人、居ないみたいだけど?」
紾は左右を確認した目を、訝しそうにしかめて首を傾げる。リーラもそれは理解しているようだ。腕に居た大柄なカラスを筆頭に、数羽のカラスに探すよう、指示は既に出している。
「どこにやった?」
浮かべられている笑顔の裏には確実な敵意が滲んでいる。それが分かりながらも、独は挑戦的に笑って返した。
「さあな? 落ち着きのないガキだし、騒いでどっか行っちまった」
嘘はついていない。言い方を変えているだけで、騒がしかったのも知らないうちにどこかへ行ったのも事実だ。仄暗い光を見せるリーラの目が僅かに細くなる。しかしそれは、独の発言を疑っているものではなかった。
カラスに導かれる最中、ここに大きな光が放たれたのを見たのだ。降り立つ直前の独の表情も、驚愕からきていたものだと分かっている。彼は悪どい皮肉屋だが、演技が苦手な正直な人間だ。しかし念には念を置いた方がいい。
リーラは、眉間を寄せて疑わしそうにしている紾に囁く。
「彼はワタシが相手する。その間、リーベが居ないか一応確かめてくれ。頼めるかい?」
「殺すの?」
「いや、まだ用がある」
紾は小さく「ふぅん」と言いながら、独を一瞥する。一瞬向けられた視線の中には、彼に気付かれない程度の哀れみが含まれていた。これから地獄が待っているのを、紾は知っている。
だから忠告したのにと心の中で呟きながら、一羽のカラスと共に離脱した。
「どうする? やるか?」
「まあ、そう急かさないでくれたまえ。残念だが、キミと遊ぶのはワタシじゃない」
「は? じゃあ誰だよ」
リーラは手でカラスに指示を出す。彼女の横に来て器用に留まるカラスたちは、黒い塊のようだ。そんな塊の中に、リーラの腕が突っ込まれる。
「マスターだ」
引き抜かれた手の中に収まっているのは、巨大な赤黒い刃を持つ鎌。彼女の武器を初めて見た独は、ギョッと顔を引き攣らせた。そして大袈裟に、空っぽな両手を見せる。
「おい、俺は武器なんて持ってねえぞ。フェアじゃねえだろ」
「フェア?」
リーラはキョトンとすると、可笑しそうにカラカラと笑った。笑いどころではないと、独は僅かに顔を赤らめて睨む。
「いやぁ、悪い悪い。まさかキミがそんな言葉を知っているとは思わなくてね」
「はあ?」
「自分の戦い方すら知らない赤子を騙して攫う。そんな相手にフェアになろうとは思わんよ」
間違いなく正論だ。リーラは控えるカラスたちへ、片手をあげて指示を出す。彼らを残した目的は攻撃ではなく、独をマスターの元へ送る足になってもたうためだ。あの大きなカラスと違って身を守るような力がないから、できるだけ自分から離れさせたい。可愛い子供たちをこの手で傷付けたくはないのだ。
当然だが、そんな彼女の考えを知らない独は、カラスが背後から近くの電線や木へ離れたのをチャンスだと見た。バレないよう、後ろ手をでたらめに動かす。その瞬間、リーラの周囲を囲むように、地面に小さな穴が開いた。
「?」
その変化に、リーラは視線を下に移動させる。地面から出てきたのは、小指の爪程度の白いクモ。無数の黒い瞳と紫の目が合った瞬間、その体には似合わない太い糸を吐き出した。
糸はリーラの四方を囲み、体に絡みつく。粘りのあった糸は、空気に触れた途端にまるで鋼のように固く、重くなっていた。独が改良した毒虫の一種だ。
主人の手の動きに従うクモは、彼が拳を握ると、女性らしい柔らかな体を締め上げる。その強さのあまりか、鎌を握っていた手が圧力によって地面に転がった。それを見たリーラは、まるで他人事のように頷いた。
「凄いじゃないか、キミの毒虫」
「そうだろう? 俺の可愛いペットだ。そっちも紾かカラスに助けてもらうしかないんじゃねえのか?」
「いや、その必要はない」
ケロッとしている様子が、その言葉を意地には感じさせない。しかしあの糸は改良に改良を重ねた結果、たとえジェット機が引っ張っても、どれだけ腕のいい職人が研いだ刃でも切れない代物。
怪訝そうに見ていると、リーラはグッと腕を広げ、その場で足を蹴り上げる真似をした。糸はあっけなくブチブチと音を立てて、彼女の体を解放させる。
「は?」
まるで綿の糸かのように千切られ、独は魔の抜けた顔をする。リーラは少し汚れたドレスシャツをパンパンと叩き、地面に落ちた鎌を拾った。
「な?」
「いや……チートすぎんだろ」
「失礼だなぁ。体を丈夫にできるだけだよ」
「上限っつうもんがあるんだよ!」
「あっはは! キミ面白いね。……本当に帰ってくる気はないか?」
独はハッとして我にかえる。馴れ合っている場合ではない。時間をかければ、また相手のペースに乗せられる。早急に終わらせなければ。独は最後の問いには答える代わり、彼女の元へ駆け出した。あっという間に距離は縮み、独の体はリーラの胸元に飛び込む。その時、彼女は何かで体を押されたが分かった。遅れて鈍い痛みが走り、やがて激しい激痛は熱となる。
互いの体が離れ、リーラの豊満な胸の中央に残されていたのは、ナイフ。勢いに任された刃は、骨も砕いて深く突き刺さる。呼吸に合わせて、赤黒い血の滲みがじわじわと広がっていった。
「おやおや、武器は持ってないんじゃなかったのかね?」
「あんなん、ハッタリに決まってるだろ」
「そうか……よく分かったよ」
リーラの紫の瞳は、心から残念そうな色を浮かべる。深くため息をつくと、鎌を持つ手を大きく振った。
「あ?」
ボトッと、重たげな音が二つ、足元から聞こえた。何が落ちたのかと、独は音の方を見る。それは二本の腕。
肘から上しかないそれを見た彼の顔は、笑いを浮かべていたが徐々に強張り、やがて目を見開いた。
「お、俺の腕……っ?」
「イタズラする手には、ちょっとお仕置きが必要だからね」
「は? はっ? な」
「あぁほら、落ち着いて。深呼吸だ」
リーラはあやすように、独の頭をポンポンと撫でる。それでも、独は状況を整理できなかった。そもそも彼女は刺されたのだ。どうして一瞬も顔を歪ませず立っていられるのか。
「フム、ちょっとナイフが邪魔だね」
飛び出したナイフの持ち手が邪魔だ。リーラはそのまま、あっさり引き抜く。赤黒い傷跡は、まるで焼けるような音と煙を立て、逆再生するように塞がれていった。
独はその様子を、信じられないと言ったように唖然と見ていた。肘から垂れる血や、体に走る激痛など忘れて叫ぶ。
「な、なんで……なんで無事なんだっ? その刃は、強力な毒で作ったんだぞ?! 人間だけじゃない、悪魔にだって効く!」
「うん、ちょっとピリッとした。キミの技術は素晴らしい。メグル君の次に強い毒だ」
「どういう意味だよ! アンタは悪魔なんだろっ? 悪魔と、人間のハーフだって!」
「? ワタシはたしかにハーフだがね、人間とだなんて、一言も言った覚えはないが?」
呆然としていた独の顔が、サッと青ざめる。すると、突然視界がガクンと落ちた。まるで子供の背丈くらいの視線。何故かと思って見てみれば、今度は両足が切断されている。
独の体はそのままバランスを崩し、丸太のように転がった。赤、白、少し濁った黄色。自分の腕の断面図なんて、生きていて見る機会は滅多にない。
「ど、どうする気だ……っ?」
「さっきも言っただろう。マスターの所へ連れて行くと。その前に死なれたら面倒だから」
リーラはレッグポーチから紐を取り出し、両手足の簡単な止血を行った。そして最後に、細く捻った布を噛ませ、猿ぐつわをする。舌を噛まないよう、念には念を置いた。
独は荒い呼吸をしながら、リーラを睨む。その視線からは、仲間だったのだから慈悲をよこせと言っているのが伝わってくる。リーラはポーチから葉巻を取り出しながら、独の背中に腰を下ろした。
「もちろん、ワタシは仲間として迎えたよ? その手を最後まで取らなかったのは、キミじゃないか」
リーラは最後、戻ってくる気はないかと尋ねた。そこで降参でもしてくれたら、マスターに事情を話し、このまま仲間を継続するつもりだったのだ。
「残念だよ」
煙と共に呟かれた言葉は、まるで独り言のようだった。
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