第1話 「変化」


   1


「は、はっ!はっくしょん!!!!………あ、ごべん。あじがと」

 受け取ったティッシュで勢いよく鼻を噛み、ソラは腰に掛かっている布団を、ゆっくり肩まで引き上げた。

「大丈夫?風邪?明美さん呼んでこようか?」

 ティッシュ箱を手に、サクラが心配そうにこちらを見ている。

 冬野桜、濃淡の入った綺麗な栗色の髪に、一部不自然に短い前髪を除き、全体的にまとまったショートヘアによって、白く伸びる滑らかな首筋が強調されている。

「ううん、大丈夫。ありがとう冬野さん、それより……」

 ソラは、チラりとサクラの傍らにある文庫本へ目を移した。

 その視線に気づき、ハッとしたサクラは、すぐさまそれを手にし得意げにパラパラとめくり出す。

「そうだった、そうだった!だからね、やっぱり異世界転生ものの醍醐味っていうのは、この間話した壮大なファンタジー伝記物と世界観自体は似てるんだけど、こんな風になんの取り柄もなかった主人公に突如規格外の能力が目覚める、っていうこのギャップ?っていうのかなぁ、それが見てるともう……」

 サクラは、やや早口になりながら、文庫の内容をソラへ話し始める。

 彼女の話してくれるマンガやアニメの世界の話は、そのどれもが新鮮でとても興味深いものだった。

 自身の記憶がないソラにとって、手に入る情報は正直なんでも嬉しい。それこそ、どれが失った記憶を取り戻すきっかけになるかわからないからだ。

 しかし、そうでなくとも、サクラの話には、単純な情報というだけでなく話している本人の思い、熱量まで、頭だけではなく心へと届く。

 入院時、空っぽだったソラの中には、今やサクラの思いが、熱が、大半を占めている。

 だいぶ知識に偏りはあるが、それでも当時の彼を救うのに、それは十分過ぎるものだった。

 今となっては朝の恒例となりつつあるオタク講演会に、夢中になって耳を傾ける。

 しばらくすると。

「──はいはーい、みんなおはよう!そろそろお時間ですよー。起きてくださーい」

 勢いよく戸が開き、若い看護師が一人、病室の中へと入ってくる。手にはバインダーと人数分の検温器を持っていた。

 看護師に目を移すと、視界の端にはいつも通り、向かいのベッドの上で少女がひとり、誰とも目を合わさず下を向いて蹲っている。

 確か名前は……

「ほら川上さん!検温の時間ですよ。ここ、置いておくわね」

「………」

 腰まで伸びた艶のある黒髪。少女の視線は少し長めな前髪に隠れ、表情を読み取ることはできない。

 ベッドの脇のサイドテーブルに置かれた検温器を、ハルは無言で手に取り、そのまま静かに検温を始めた。

 明美は、ひとつ、行き場をなくした検温器を手でクルクルと回し弄んでいる。

「そういえば林原さんは?まだ姿を見てない、けど……まさか」

「……林原さんなら、私が起きたときにはもうここにはいませんでした」

 サクラは、どこかバツが悪そうに顔を逸らす。

「……今日もか。まったく、あの娘もまだここへ来たばかりだっていうのに、また回診をサボったりなんかして」

 明美は手にした検温器で眉間を軽く小突き、小さくため息をついた。

「どうせまた屋上ね。ありがとう冬野さん、分かりました。それじゃ、はいこれ」

 明美は検温器を手渡し、二人はそのまま、流れるように脇へと挿入した。

 少しして、アラームの鳴った検温器をサクラは明美へ手渡す。

「はい、冬野さんは平熱ね。もう慣れたと思うけど、ソラさんも終わったら見せてね。ああそうだ、どこか具合の悪い人いる?」

 明美は手にしたバインダーから顔をあげ、適当に各々患者の顔を流し見る。

 サクラはすかさず、ソラへ鋭い視線を向けた。

 しかし。

「大丈夫でーす」

 どうやらソラは意地でも申告しないつもりらしい。

 ──こっちは本気で心配してるのに!

 とうとう痺れを切らしたのか、サクラはおもむろに明美に向き合い高らかに挙手をしてみせた。

「あの、明美さん!ソラ君なんだか朝から風邪気味っぽくて!さっきもたくさんくしゃみしてて…」

「──あ!いや…」

 ソラによる咄嗟の介入も虚しく、明美による問診という名の詰問が始まった。 

「まったく、体調がすぐれないのならすぐ言ってくれればいいのに、ソラさん?」

 なんだかニマニマと少し嬉しそうに明美がこちらの顔を凝視してくる。

 ──冬野さんめ、余計なことを……

「……いや、もう治りました。その、朝起きたら、ここの窓が何故か開いてて、それで少し寒かっただけです」

 すぐ側にある上窓を指差し、ソラは心配ありませんと断言した。

「それに…」

 何かを言いかけ、必死に弁明しようとするソラを手で制し、明美はここぞとばかりに攻める。

「いーや!何かあったら大変です。身体の調子ひとつでココロも十分影響を受けるんですから!すぐお薬を用意します。ですから今日こそ採血、受けてくれますよね?」

 明美は少々強引に、ソラへ未だ終わっていない検査の続きを促した。

「ま、待ってください!今日は本当に勘弁してください!本当に風邪なんて引いてないんです!……それに、ほ、ほら!熱もありませんし」

 ソラは脇から検温器を取り出し、いそいそと明美へ差し出した。

「……はぁ、36度2分。平熱ね」

 少々食い気味に検温器の表示を確認し、今度はサクラと共に再び小さなため息をついた。もう付け入る隙はないようだ。

 ただ、明美には今日簡単には引き下がれない訳があった。

「全く、もう小さな子供じゃないんですから。いい加減、警察の方からも催促がきてます!なので、明日!明日には必ず採血、受けてもらいますからね」

 ベッドの隅に置かれたハルの検温器を回収し、明美は踵を返す。

「はい……あの!明美さん……いつもありがとうございます」

 一度振り向き、明美は優しく微笑む。

「……本当に明日、受けてもらいますからね。あ!それと、川上さん?」

 不意を突かれ、ハルは身体をそのままにピクリと反応する。

「このあとカウンセリングの予定だから、先生と部屋で待ってるわね。もし来れたら来てちょうだいね」

「………」

 結局、最後までハルからの返事は無く、明美の気配は消え、戸の閉まる音だけが病室内に残された。


「……はぁ」

「……まだ、採血怖いの?」

 サクラが再び、不安そうな目でこちらを見てくる。

「……こわい、んだと思う。なんだか嫌な予感がするっていうか、うまく説明できないけどこう、未知の恐怖っていうか」

 自他共に納得のいく説明ができず、目に見えて慌てるソラ。

「……でも、少し変」

 不意にサクラが、くすくすと優しく微笑む。そう、時折見せる不安げな顔は彼女に似合わない。いつまでもこうして笑ってくれればそれだけでいいのだ。

「だって、ピアスなんて開けてるのに、今更採血が怖いっていうのがすごく不思議、ってあれ?外しちゃったの?ピアス」

 サクラが、ソラの耳をまじまじと見つめる。眼には、穴の空いた耳たぶだけが映っている。

「別に、記憶喪失になってから開けたわけじゃないし、それに!外したのだって、昨日君がゲイだなんだって僕を小馬鹿にするから」

 ソラは視線の注がれる右耳を弄りながら、目を逸らし、恥ずかしそうに不貞腐れる。

「こ、小馬鹿にしたつもりは全然なくて。ただ、前に学校の男、子が…」

 途端、サクラの身体はみるみる硬直し、肩は上下し呼吸が浅くなっていく。

 かと思えば、突然血相を変え、自身の腕を抱きその場でまた動かなくなってしまった。俯いたその顔はただ正面のみを見つめ、何かに怯えている様にも見えた。

「──冬野さん?大丈夫!?息…ゆっくり、そうだ!深呼吸して!」

 サクラの肩を揺らし、強く問いかける。瞬間、肩へ置いた手の付け根をサクラに強く掴まれる。

 数秒と経たず、気を持ったサクラはそれから数回、ゆっくりと深呼吸をした。

 顔色もだんだん元へと戻り、表情も、糊が取れたようにほぐれていく。

「……冬野さん、落ち着いた?お水、もらってこようか?」

 今度はソラが、サクラの顔を心配そうに見つめる。

「……ごめんね。もう大丈夫……なんだか急に気持ち悪くなっちゃっただけだから」

「………」

 深く突っ込まれたく無いのか、サクラの素っ気のない態度が図らずも二人の会話を途切れさせた。

 ソラは咄嗟に声を掛けることが出来ず、下を向き、沈黙を貫く事しか出来なかった。

 

 その後、時間は正午を過ぎ、もうすぐ昼食時かというところで、この潰れてしまいそうほど重い雰囲気を打ち破ったのは意外にも、サクラの方だった。

「……ねえ、これの話、もう少ししていい?まだ、ちょっと話し足りないの」

 恥ずかしそうに顔の目から下を本で隠し、上目でサクラはモジモジとしている。

 そんなサクラを見て、緊張の糸がほぐれたのか、ソラは盛大に吹き出し、表情を綻ばせた。

 そして。

「僕も、もう少し『異世界なんちゃら』の話、聞きたかったんだ」

「『異世界転生』だよ。さっきの話、ちゃんと聞いてたの?そういえばソラくん、所々上の空だったしなぁ」

「いや!きいてたきいてた!もっと聞きたいなぁ。『イセカイテンセイ』の話」

「ほらぁ、もうイントネーションがちがうー!」

 お互いに向き合い、くすくすと笑う。

 まだ少し開いていた二人に距離は完全に消え、サクラによるオタク講演会熱弁モードは夕食時になっても続いた。

 その後、すっかりしなしなになったソラをよそに消灯時間を過ぎても尚、飛んできた明美さんに叱られるまで、その弾けるような声が途絶えることはなかった。


   2


『ソラ…の……方…………………ないの?』

『……………だとしても…………私………』

『………………………………………信じて』

 

 周囲は闇に包まれ、身体は愚か、精神までもが虚空に漂っている様な、そんな浮遊感を覚える。

 遠くで声が聞こえる。頭に靄がかかっているように、正しく認識することができない。

 しかし、この身へ注がれた声の、そのどれもが皆、必死に答えを求めている。

 知っている人か、はたまた知らない人か。ただ、そんなことは関係ない。

 

 自分の居場所など、世界にはどこにもない。そんな根拠のない不安感に怯え、日々を過ごす。

 決して、分かり合える日は来ない。

 一方的な理解は、結果相手に大きな畏怖を与え、とても歩み寄るための材料にはなり得なかった。

 でも、そんなどうしようもない僕にも、ただ一つ求め続けた、伸ばし続けたその手を。

 その手を強くとってくれた人がいるのだ。

 感覚などない。しかしココロで強く拳を握りしめる。

 本当はもう分かっているのだ。自らの成すべきことを。

 

 ──ここは一体どこなのか。

   重要なことではない。

 ──自分は一体誰なのか。

   これも重要なことではない。

 ──自分のことがよく思い出せない

   そんなことはどうでもいい。

 ──ただ……ただひとつ。たったひとつだけ、僕にとって大切なこと……

 ──あのときの、選択を。

 

「──僕は」

 

「……きて……起きて!ソラくん!」

 耳元に響く大声にソラは飛び起きた。

 次の瞬間、朦朧とした意識に喝を入れるかのように、誰かに腕を強く掴まれた。

 それこそ寝起きでまだ夜目が辛うじて効くとはいえ、近くで声をかけてくれなければ、おそらくこれがサクラだと容易に認識出来なかっただろう。

 それほどまでに、辺りは薄暗く、気持ちが悪いほど静かだった。

「……ふ、冬野さん、なんで……い」

「うわーん!……やっと起きてくれたぁ」

 腕へと縋りつき、震えるサクラの手を握る。頭の中に、あのとき見たサクラの生気の失われた顔がよぎった。

「……冬野さん、どうかした?怖い夢でも見たの?」

「ちがうよ!ソラくん、気づかないの?起きたらベッドがなんだか変で、それに、この部屋も!」

 ソラは咄嗟に辺りを見回す。相変わらず薄暗かったが、先ほどに比べれば、シルエットなどは大部見えるようになった。

 しかし、暗がりに見える部屋の全体像は、雰囲気や間取りなど病室にほとんど相違はない。辛うじて分かるのは非常灯の灯りが見えないことのみ。しかしそれは単にただの病院側のミスということもあり得る。

「とりあえず電気、つけてみようよ、いつまでも暗いままじゃ冬野さんも怖いでしょ?」

 小さく返事をしたサクラの手を強く握り直し、立ち上がるためベッドに手をつく。

「ん?」

 ──手のひらにシーツではない慣れない感触、これは編み目だろうか。確かめるように何度も撫でる。

 ……植物か何かで編まれた敷物のようだ。おそらくこの下の地面の硬さを和らげるためのものだろう。

「……ちょっときて」

 ソラはサクラを連れベッドから飛び退き、壁や床など、辺りを手当たり次第手探りで触れていく。

 そして。

「……このベッド、それに周囲の壁や床。全部石で出来てる。もちろん照明らしいものもないし、この扉は開かない」

 少し湿った木製の扉に手を添え、状況を整理する。

 石で覆われた部屋。見当たらない照明器具に、閉ざされた木製の扉。

 ──ここまでくると断言せざるを得ない。ここは、昨日まで過ごした病室ではない。


「……ここ、どこだろう」

「も……もしかして、誘拐、されちゃったとか」

 サクラの手が、僕の手を強く握る。

「大丈夫だよ。今の所近くに人の気配はないし、なにかあっても必ず、僕が守るから」

「ありがとう、ソラくん」

 繋がれた手に、熱が込もっていく。足りない五感を補うよう神経は過敏になり、次第に手は汗ばんでいく。

 表情は見えない。しかし、この熱は決して一方的なものではなかった。

 互いに距離を縮める。耳へと伝わる相手の息遣いはより鮮明になり、不意に空の頬にサクラの手が触れた。

 心拍数はみるみる上がり、呼吸は荒くなっていく。膨れ上がった感情は、とうとうピークへ達した。

「……ソラくん」

 次の瞬間、部屋へと届く小さく短い揺れと共に、天井から砂や小石がパラパラと降ってくる。

 ハッと我に返り、お互い照れ隠しか手を離したのも束の間。

『ぐおおおおおおおぉおおおおおおおぉおおおおおおおおおぉおお』

 号哭が響く。この部屋を含め周辺の大地全体が大きく揺れる。

「きゃああああああああ」

 ソラたちは情けなく壁にもたれかかり、耳を塞ぎ、耐えることしか出来なかった。ここにいるのが地震慣れをした日本人でなければ天変地異だなんだと騒ぎ出すに違いない。それほどまでに大規模な揺れ。

 仮に飛行機の離陸を間近で体験すれば、こんな具合になるのだろうか。否、響く重音はともかく、飛行機程度では決してこんな揺れは起こらないだろう。

 そんな大きな揺れも束の間、爆発的な熱風とともに、目先の壁は消し飛び、そこから強い光が差し込んだ。

 思わず手を振り上げ、光源から眼を庇う。

「なんだ!?なにが起こって……」

 徐々に視界が開く。吹き飛んだ壁からは、温かい太陽の光と心地良い風が爽やかな草の香りを運んでくる。

 数分の末、ようやく太陽の光に慣れた二人の目に映ったのは、悠然と大空を翔る、巨大な翼を持ち口元に炎を纏った、巨大な赤竜の姿だった。

「ド……ドラゴン………?」

 

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異世界幻想記(仮) @sensei4242564

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