第136話 さくらと悠陽の高校生活⑤
――変わった名前だ。
それが
苗字も名前も『桜』だなんて、随分と華やかで明るい名前だ。彼女の性格や見た目とはまるで正反対のイメージ。
まあ、名前に関しては俺も人のことを言えた義理じゃないけれど。
「俺は
「あ、よ、よろしくお願いします……!」
慌てて頭を下げた桜葉さくらは、勢い余ってテーブルにおでこを打ちつけた。眼鏡の奥に涙を浮かべで「痛い」と額を抑える姿に、俺は思わず笑ってしまった。そんな俺に釣られたか、彼女も照れ臭そうに微笑みを浮かべる。
学校で笑うのなんて、いつ以来だろう。
毎日が憂鬱で仕方なかった。
家に帰ってもその感覚が尾を引いていた。
生きること自体楽しいと思えなくなっていた。
下校を告げるチャイムの音が、今日ばかりは恨めしくて仕方かった。
「わ、私、放課後は毎日ここに来てるんです」
帰り際、桜葉さくらがボソリと呟いた。
俺に向けた言葉なのだろう。
だけど正しい応え方が分からなくて、俺は黙って頷くことしか出来なかった。
約束にならない約束。
それでも俺は、翌日も図書室へと出向いた。彼女に勉強を教えてほしかった。
でもそれは建前で、本当はただ彼女と言葉を交わしたかった。
彼女に会いたかった。
宣言通り、桜葉さくらは放課後の図書室に居た。昨日と同じ窓際の席で、独り本を読んでいる。
「ここ、いい?」
「あ、ど、どうぞ!」
挨拶にならない言葉を交わして、俺はまた
「昨日は、どうも」
「あ、い、いえ……」
「それで、あれの続きなんだけど、いい?」
「は、はい! どうぞ……」
俺と彼女の個人授業……なんて恋愛映画のタイトルみたいに甘酸っぱい青春ものじゃない。ただ教科書を開いて教えてもらう事務的な会話。
それでも俺は、この孤独な毎日に僅かばかりの希望を見出していた。
最初は花びら舞い散る並木道や絶景のスポットに憧れていた。
だけど本当はそうじゃなかった。
誰も居ない公園で、ひっそりと佇む一本の桜木があればそれで良かった。
けれど同時に不安もあった。この
そんな不安を胸に抱きながらも、俺と彼女の放課後は一日また一日と積み重なっていった。気付けば一学期の期末試験を終えていた。
嬉しい事に、俺の成績は少しだけ上がっていた。
「ありがとう。君のおかげだよ」
「い、いえ。先輩の実力です」
その頃には俺と彼女の距離は多少縮まって、会話も幾分スムーズになった。相変わらずさくらは目線を伏せ気味で上目遣いだけど。
「もう、夏休みだね」
「そ……そうですね」
試験が終わって間もないというのに、俺とさくらは図書室に来ていた。試験終了日にさえ
「
「あ……い、いえ。私、祖母と二人暮らしなので」
「そうなんだ。親御さんは?」
「あ、今は海外で仕事を」
「へー、どんな仕事なの」
「私もよく知らないんですけど、世界中をあちこち飛び回ってるみたいで。だから私、親とは小学生の頃に会ったきりなんです」
「ふーん。なんか冒険家みたいだな」
「あ、そんな感じです」
俺の冗談に彼女も乗っかって、クスクスと二人して笑い合った。
「あ、あの、先輩は……?」
「ん?」
「先輩は……夏休み、どうされるんですか?」
「俺も特に予定はないよ」
「そ、そうなんですか」
「うん。ウチの親、薬屋をやっててさ。自営業だから夏休みとかも有って無いようなモンなんだよ」
「お薬屋さん……ちょ、調剤薬局ですか?」
「そうそれ」
「じゃあ、先輩が跡を継がれるんですか」
「どうだろ。俺はあんまりその気は無いんだけど……てゆーか、俺の頭で薬剤師とか無理だろ」
「そ……そんなことないです!」
ガタっと勢いよく立ち上がるや、桜葉は前のめりに顔を近づけた。
「あ……朝日向先輩、本当はすごく努力家だし、一生懸命だし、優しい人だから、きっといい薬剤師になれます!」
「お、おう……」
迫真の様相で高らかと言い放つ彼女に、俺は気後れして言葉を詰まらせた。
前のめりでテーブルに手をついた桜葉も、はっと我に帰って頬を赤く背中を丸めた。いつもより利用者が少なかったことが唯一の救いか。
「……さくら」
「は、はい」
「俺、夏休みも
「え?」
「薬学部、本当に目指してみようと思うから。それにはまず学校を卒業しなきゃだし、良ければまた俺の勉強を見てくれないか?」
「は、はい! 喜んで!」
にこりと明るく、朗らかにさくらは笑った。
少なくとも俺が見た中で、一番に良い笑顔だった。
まるで桜の花のように可憐で美しく、そして儚い。
「私も、毎日来ます。きっと、必ず……」
その声は舞い散る花弁の如く繊細で静かだった。
だけどその言葉は天を目指す大木の幹みたいに力強くて、俺は彼女の名前の本質を垣間見た。
そんな気がした。
-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------
まさか悠陽が薬剤師を志した理由が桜葉さんだったなんて驚きね。てっきりお義母様の後を継ぐために薬学部に行ったのかと思ってたわ。
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