第122話 泉希とさくらのエトセトラ③

 「――う~ん……」


大きなチョコレートケーキを半分ほど食べ進んだ私は、徐にフォークを置いた。


 「どうかされましたか、水城みずしろ先生!」


テーブル席の向かい側。フルーツタルトを切り分ける桜葉さくらばさんが、突然頭を抱えた私を案じる。


「別に、大したことじゃないから」


少し疲れた声でそう答えると、私は鞄の中からピルケースを取り出した。

 たまにあることだ。片頭痛などではないけれど、妙に頭の痛くなる時がある。

 だがそれもすぐに収まるので、わざわざ痛み止めを飲む必要は無い。けれど折角のケーキを前にして、浮かない顔をするのは違うと思った。


 「おや、お薬ですか?」

「うん、ちょっとね」


手の平サイズのケースから出したのは、『ロキソニン錠』という解熱鎮痛剤と、胃粘膜保護のための『レバミピド錠』という薬。軽い頭痛くらいなら、この二つですぐに収まる。


 「むむっ! そのお薬は知っていますよ! 私もよくお世話になっていました!」

「そう。まあ一般的よね。本当はイブプロフェンの方が良いって分かってるけど」

「そうなのですか?!」

「……え?」


首を傾げる桜葉さんに、私も怪訝な表情で返した。てっきり「そうですね」などと肯定が返ってくると思ったから。


 「こちらのお薬は何ですか?」

「ん? ああ、レバミピドよ。胃粘膜保護のお薬。NSAIDSエヌエスエイドは プロスタグランジンを低下させるでしょ?」

「イネンマクホゴ……ははーん、つまり先生は胃も痛いと! ストレスは健康の大敵ですよ!」

「別に胃が痛くて飲んでる訳じゃないわよ。まあ、ストレス源は目の前に居るけど」

「なななんと! ストレスとは目に見えるものだったのですか!」


わざとらしく驚きながら、桜葉さんはキョロキョロと辺りを見回した。『ストレスが花粉みたく宙を舞っている』という冗談だろうか。

 ジャブのような厭味を意にも介さない彼女。私は溜め息混じりで薬を飲んだ。


 昔観たテレビドラマに、記憶喪失の青年を主人公に描いたものがあった。青年は自分の名前も過去の出来事も何一つ記憶がないのに、趣味の単車バイクや本職の料理に関することだけは覚えていた。


 桜葉さんも恐らく似たような症状なのだろう。


 思えばそのドラマの主人公も底抜けに明るい性格で、自分に死の危険が迫ろうとも決して動じない強い精神の持ち主だった。


「記憶喪失になれば、頭痛やストレスともオサラバ出来るのかしらね」

「むふっ! ふぁにかふぉっひゃいまひたか!」


フルーツタルトを口一杯に頬張る桜葉さんに、私は「飲み込んでから喋りなさいよ」と苦言を呈し、眼の前のチョコレートケーキにフォークを入れた。


 「そういえば、桜葉さん」

「はいな!」

「貴女、悠陽ゆうひの事が好きなのよね」

「モチのロンです!」

「でも記憶が無いんでしょう? なのにどうして好きだって言えるのよ」

「たしかに記憶はありませんでした! ですが以前の私が残してくれた写真や日記を見ていると不意に胸が熱くなり、先輩のことだけは少しずつ思い出せたのです! それ以来先輩の事を考えずに居られなくなりました!」


喜色満面。一点の曇りもなく桜葉さんは答えた。

 彼女の言葉に嘘は無い。彼女の主治医の言い分では日常生活に関することは体が覚えているらしい。 

 ということはつまり、彼女の中で悠陽との日々が『日常』であり『生活の一部』だったのだ。

 それくらい二人は同じ時を過ごした。

 彼女は私の知らない悠陽を知っている。

 悔しかった。羨ましくて、堪らなく苦しかった。


 「それに、こうすることが以前の私の願いかと思いましたので!」


だけどそんな黒い感情を沸き立たせる私に反して、桜葉さんは変わらない笑顔を向けてくれる。

 敵わないと思った。彼女のひたむきさ――真っ直ぐで純粋な想いは誰にも手折ることは出来ない……そう思った。


「……桜葉さん」

「はいな!」

「少し、話をしない? 今の悠陽のこと教えてあげるから、代わりに昔の悠陽のことも教えてよ」

「モチロンですとも!」


口元にクリームをつけながら、彼女は陽気に笑い返してくれた。


 桜葉さくら。

 私とは違う人種。


 今までの私ならバリアを作って、彼女という個性を見下し避けていた。


 だけど私は、友達かのじょから学んだ。

 だから今は、上を向ける。


 彼女に教わった、向日葵のような笑顔で。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


その分野で活躍する人が専門用語を「当たり前」のように使うのと同じで、薬剤師は一般人では常用しない文言も日常的に使うわ。現役の薬剤師にとって薬に関することは「常識」であり「体に染みついた普通」なのよね。

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