第95話 俺と、結婚してくれ

 「――ふぅ……」 


派遣会社の女性営業が来た日の夜。俺は一人で薬局の天井を見上げながら深い溜め息を吐いた。


「また、薬局おまえと一緒に居られるんだな」


なんとなく哀愁を覚えながら、俺は誰も居ない店内に囁きかけた。


 たゆねさんが帰宅された後、すぐに火乃香ほのかも家に戻った。まだ俺と一緒に暮らせると分かり、「今日の晩御飯は腕を振るうから」と息巻いていた。

 俺も火乃香と暮らせるのは嬉しい。屈託のない笑顔を浮かべる義妹いもうとが愛しくて、俺は人目もはばからず火乃香を抱きしめた。「恥ずかしい」と照れながらも、抱きしめ返してくれたのが嬉しかった。


 それから午後の業務を終えて、泉希とアイちゃんは先ほど退勤した。今は事務所で帰り支度をしている頃だろう。

 アイちゃんはしばらくの間、たゆねさんの家で厄介やっかいになる事になった。知り合いに機核療法士きかくりょうほうしというAIVISアイヴィスの専門家が居るらしく、念のためアイちゃんをの検査をしてくれるそうだ。勿論アイちゃんには、今後もウチの従業員として勤務してもらう約束で。


 「それと、あの会社についても少し調べておきたいからね。もしまた同じようなことがあれば……」


と、含みのある笑みでたゆねさんは呟いた。意味深な言葉と横顔は怖くもあり頼もしくもある。彼女になら安心してアイちゃんを任せられるだろう。


「色々あったけど、一件落着だな」


全身の緊張が解けたよう、俺は足を投げ出し待合室のベンチに座った。白いだけの天井を、ただ呆然と一人見つめて。


 「――悠陽ゆうひ


その時だった。電源を落とした自動ドアを開けて、泉希が戻ってきた。私服姿で手には鞄を持ち、帰り支度を万全に整えている。


「どうした泉希。忘れ物か」

「あ、うん。ちょっとね」

「そっか。アイちゃんは?」

「帰ったわ。今日は片桐かたぎりさんの家に行くって」

「そうか」

「……うん」


まだ現実感が無いのだろう、どこか気の無い返事のまま泉希は俺の隣に腰かけた。


 「……ごめんなさい、悠陽」

「なんだよ、突然」

「私が羽鐘はがねさんの派遣会社を紹介しなければ、こんな事にならなかっただろうから」

「なんだ。そんなのお前が気に病むことじゃない。むしろ俺はお前に感謝してるよ」

「感謝?」


眉尻下げてバツが悪そうに泉希は尋ね返した。肩が触れ合う距離に居るせいか、彼女の姿が瞳に映るたびに鼓動が加速していく。


「俺はお前の御陰でアイちゃんと出会えた。あの時の広告が無ければ、今頃別の薬局に派遣されて廃棄になってたかもしれない。アイちゃんを救けられたのは、ほかでもないお前のおかげだよ、泉希」


にこりと微笑みかけるも、泉希はやはり項垂れる。そんな彼女が堪らなく愛おしくて、俺は思わず肩を抱き寄せた。

 瞬間、泉希の細い体が震えた。けれど彼女はすぐに身を委ねて俺の肩にそっと頭を預けてくれる。


 「けど、貴方は借金を背負うことに……」

「利子も担保も期限も無いんだ。そんなもん借金の内に入んねーよ。返済も俺のペースで良いんだし」


「かかか」と剽軽ひょうきんに笑ってみせるも、それは本心ではない。たゆねさんに融資してもらった金は無論、借金という認識だ。返済の緊迫感も多少はある。

 ただそれを差し引いても、他の誰かに借りるよりよほど精神的にも金銭的にも負担が少ない。それは紛れもない事実だ。


「だからもう謝らないでくれ。お前がそんな悲しい顔をしてると、俺も辛ェから」

「悠陽……」


丸めた背中に回した腕。そこにほんの少し力を込めれば泉希の熱が一層と伝わった。けれど彼女は嫌がる様子もなく、おもむろに鞄へと手を伸ばした。


 「これも、もう……要らなくなっちゃった」


寂し気な声と共に取り出したのは、役所で配布されている婚姻届。そこには俺と泉希の名前がキッチリと記載されている。書かれていないのは、保証人の欄のみ。

 その不完全な婚姻届を惜しむように見つめる泉希は、唐突と引き破ろうとした。

 

「待った!」


ビリッ……と耳障りな音が響く刹那。俺は彼女の手を掴んで止めた。端の切れかけた婚姻届をすぐさま取り上げ、俺はもう一度内容を改める。

 不思議そうに首を傾げる泉希を他所に、俺は大きく深呼吸してから彼女にそれを差し出した。


「コイツは、予定通り市役所へ持って行こう」


嘘も冗談もない本気の言葉。表情にも笑顔一つ浮かべない。そんな俺と婚姻届を、泉希は呆気に取られた顔で交互に見遣った。


 「ち、ちょっと待ってよ悠陽。薬局は無事だったんだし、羽鐘さんや火乃香ちゃんとも一緒に居られるんだから、もうそんな必要は……」

「必要かどうかじゃない。ただ俺が、お前のことを愛してるから」


唖然と俺を見つめる泉希。俺は返事も待たず彼女を抱き締めた。緊張しているのか、華奢な体はさっきよりも固く熱を帯びている。


「店も責任も義理も、そんなの全部関係ない。ただ俺はお前が好きだから。お前と一緒に居たいから。仕事だけじゃない、この先の人生をずっと……お前と一緒に歩んでいきたい。

 お前は俺のオアシスだ。心を潤してくれる泉だ。すぐにカッとなったり落ち込んだり、すぐ周りの皆を振り回しちまう。だけどお前が傍に居てくれるから、俺は優しくなれる」


抱き締めた身体を離し、泉希を真正面に見つめた。頬を桜色に染めて呆然とする彼女に、俺は包み込むよう白い手を握り締める。


「でもそれ以上に、俺はお前が好きだ。お前と一緒に居たい。仕事でも人生でも、俺の相棒パートナーはお前以外に考えられない」


なぜだろう。何も頭に浮かんでこない。なのに言葉が奔流ほんりゅうみたく、腹の奥底から湧き出てくる。


「俺と結婚してくれ、泉希」


そうしてあふれんばかりの想いが、荒波の如く泉希の心へ打ち寄せた。その飛沫が跳ねたか、彼女の目に大粒の涙が浮かぶ。

 けれど泉希は一瞬も目を離さず、真っ直ぐに見据えて俺を震える口を開いた。


 「や、やっぱり結婚とか……そういうのはまだ早いって言うか……も、もっと段階を踏むものだと思うの。それにこの薬局だって、前みたいにまた忙しくなると思うから……だから――」


言葉をつまらせしどろもどろに、泉希は赤らんだ顔で3度深呼吸した。それから一切視線を合わせず、俺の正面に身体を向ける。


「――だから、従業員が揃って薬局みせの運営が軌道になったら……その時改めて、またプロポーズしてほしい。それまでは……こ、恋人ってことで……」


綺麗な顔をグシャグシャにしながら、顔を赤く染めながら泉希は頷き微笑んだ。そんな彼女が堪らなく愛おしくて、俺はつい泉希を抱き締めてしまった。

 一瞬だけ戸惑いつつ、彼女も俺の背に手を回して強く強く抱きしめ返してくれた。


 どのくらいの時間が経ったろう、永遠にこうしていたい気持ちを抑え、俺は密着する身体を離した。

 そのままキスをしようと唇を寄せれば、呼応するように泉希もそっと瞳を閉じた。


 ――ガン、ガンッ!


けれど唇が触れ合う寸前。動かない自動ドアが叩くように打ち鳴らされた。何事かと驚いて体を離し、俺と泉希は閉じた自動ドアを振り返る。


 「すみませーん! 薬剤師の求人募集を見て来たのですけれどもー!」


ドアの向こうに見える人影。響く声から察するに、若い女性のようだ。


 「薬剤師の求人って、面接希望者ってこと?」

「まさか。こんな時間にアポも無く来ないだろ」


先程までの微睡まどろむような時間が一変して、俺と泉希は訝しげに互いの顔を見遣った。


 どうやらまだまだ、この店の面倒事は終わらないみたいだ……。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


ここまで読んで下さって本当にありがとう! でも朝日向調剤薬局のドタバタはもう少しだけ続くわ! 良ければこの続きも楽しんでね!

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