第94話 2000万円以上の価値

 こちらの返答も待たず、女性営業は大きめの鞄からA4サイズの封筒を取り出した――その瞬間。


 「ちょっと待ってもらおうか」


たゆねさんが、会話の流れをき止めた。皆の視線が彼女へ向けられて、俺は緊張に固唾を飲む。なにせ、たゆねさんの言葉が、俺とこの店の運命を決めるのだから。


 「その金、私が代わりに支払おう」


頼もしい微笑を浮かべながら、たゆねさんは女性営業からA4封筒をひったくった。二人は互いに笑っているものの、そこには牽制と怒りの色が伺える。


 「恐れ入りますが、どちら様で?」

「この薬局をかかりつけにしている唯の患者さ。まあ、つい今しがたこちらの薬局のスポンサーになったけどね」


その瞬間、俺の体は天にも昇る心地に包まれた。『スポンサーになった』ということは、たゆねさんの御眼鏡に叶ったという事だろう。

 俺の皆への想いは、純粋なものだった。それを意識した途端一気に瞳孔が開いて、歓びのあまり目尻には涙が浮かんだ。


 「スポンサー様が羽鐘の代金をお支払いに?」

「なにか問題が?」

「……いいえ。弊社は誰方様からお支払い頂いても問題御座いません」

「なら決まりだね」


どこか歯切れ悪く答えながらも、女性営業は苦みのある笑みで返した。

 どこか殺伐としながらも話は進み、たゆねさんは自身の経営する会社から、薬局ウチに融資をしてくれるという形となった。

 話の途中で1900万円だったはずの買い取り額に手数料だ何だと言い加えられ、何故か2000万円にまで増えてしまった。けれどたゆねさんは「構わない」と二つ返事で承諾し、おまけにその場で小切手を切るという離れわざも繰り出した。


 それでも難癖なんくせつけてゴネる女性営業に、流石のたゆねさんも呆れた様子で溜め息を吐き、一枚の名刺を差し出した。それを受け取ると同時、女性営業の顔から血の気が引いて悲壮と驚愕の色が浮かんだ。

 後から聞いた話だが、たゆねさんの会社は有名なグループ企業の一つらしい。そのネームバリューで無言の圧力をかけただろう。


「これで羽鐘は御社に権利が譲渡されましたので、お好きにお使い下さい」


慌しく立ち上がった女性営業は、吐き捨てるようにそう言って店を飛び出した。

 まるで敗戦試合みたく背中を丸めて、スゴスゴと退散していく後ろ姿。俺は心の中で「ざまあみろ」と呟いた。本当に胸のすく思いだった。

 

 「ね、ねえ悠陽ゆうひ。これ、どういうこと?」


状況が飲み込めず呆気に取られる泉希みずきたちに、俺は事情を説明した。もちろん薬のことや好感度の件は伏せて、たゆねさんが融資をしてくれたことだけ。

 すると泉希を筆頭に、皆は喜びと驚きを織り交ぜながらも、各々たゆねさんに感謝を述べた。


 「なーに。私はただ店長さんの心意気に打たれただけさ。君達が彼に好意を寄せているのも今なら頷けるね」


そう言って、たゆねさんは恩に着せる風も無くあっけらかんと笑ってくれた。


 「ところで、水城先生」

「はっ、はい! なんでしょうか!」

「処方箋の薬、貰ってもいいかな?」

「……あ」



 ◇◇◇



 「――たゆねさん。本当に有難うございました」

「なーに、これくらい何でもないさ。普段薬を処方してもらっている御礼だよ。君には個人的にも世話になってるしね」


処方箋薬の調剤を終えて店の表まで見送り、改めて俺は頭を下げた。薬を入れた袋を掲げ、たゆねさんは優しく微笑み返してくれる。


 「それにあの金はあげた訳じゃなく融資だ。無理のない範囲でいいから、ちゃんと返してくれよ」

「はい、もちろんです。ところで、たゆねさん」

「なんだい」

「さっき言ってた『もう一つ』の条件ってなんですか?」

「ん? ああ、君には今まで通り私の実験の手伝いをしてもらいたいんだよ。評価と検証だね」

「……それだけですか?」

「そうだけど、どうかしたかい」

「そんなの今までと同じじゃないですか! 何の条件にもなってません!」

「同じじゃないよ。バイト代は借金の返済分に回すから、実質タダ働きだ」

「だからって、そんなことで2000万なんて大金をどうして……」

「以前にも話したと思うけれど、私はAIVISアイヴィスの専門家だ。彼女たちを悪人に利用されるのが、ただ単にがたいのさ」


声を荒らげる俺に反し、たゆねさんは至って冷静。彼女はくるりと俺に背を向けて、朝日向あさひな調剤薬局の看板を見上げた。


 「まあ、敢えて言うなら私がこの店を気に入っているからさ。君が努力して培ってきたもの、そして君の真っ直ぐな想い。私がそれに2000万円以上の価値を見出した……それだけのことだ」


爽やかな顔でそう言うと、たゆねさんは身を翻して颯爽と薬局を後にした。


 まるで映画の主人公みたいな後ろ姿に、俺は頭を下げる事しか出来ないでいた。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


この御話では契約の取り交わしについて簡素に書いているけど、本当は物凄く手間と時間が掛かるの。因みに羽鐘さんは資産扱いになるわ。

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