第93話 ちょっと待ってもらおうか

 「――これでいいの、兄貴?」

「ああ。ありがとう火乃香ほのか


たゆねさんの提案を受け入れた俺は、火乃香に連絡を入れて冷蔵庫にある【異性に興味が無くなる薬】を取ってきてもらった。

 栄養ドリンクを持ってくるという意味不明な指示を受けた上、待ち合わせた場所は薬局ではなく近くのコンビニ。おまけにたゆねさんと二人きりだったから、火乃香は訝し気な様子だった。


 「ありがとう義妹いもうとちゃん。悪いが君は先に店舗の方で待っていてくれるかな」

「え、でも……」

「俺からも頼むよ火乃香。これから派遣会社の人が来るし、先に行って泉希みずきとアイちゃんに声をかけておいてくれ」

「……わかった」


明らかに何か言いたげな様子だったが、火乃香は喉の奥に押し留めてひとり薬局へと向かった。


 「では私達も行こうか、店長さん」

「……はい」


たゆねさんに促され、俺は例の薬を飲んだ。まだ体に変化を感じないが、火乃香の後を追うよう俺達も薬局へと向かう。

 薬の効果が表れるまでは数分のラグがある。その間隙かんげきを利用して、俺が泉希たちに抱いている想いの差を測ろうという考えだ。

 緊張感と焦燥感を胸に抱きながら薬局に入ると、3人が待合室に集まっていた。


 「何してたのよ悠陽ゆうひ。もうすぐ派遣会社の営業ひとが来る時間なのに。それにそちらの方、患者様の片桐さんよね。どうして患者様と一緒に居るの?」

「すまない水城先生。今は何も聞かず、彼に皆と握手をさせてあげてほしい」


不安気な面持ちの泉希に反して、たゆねさんは平静に言葉を並べた。

 3人は疑念を抱きつつも、たゆねさんの隣で頷く俺を見て渋々と提案を受け入れてくれた。

 皆は俺の前に並んで、たゆねさんは徐眼鏡をかけた。例の【好感度測定眼鏡こうかんどそくていめがね】だ。

 見覚えのある泉希は訝しく眉を寄せるも、俺は何も答えなかった。ただ今はたゆねさんが説明した通り、泉希、火乃香、アイちゃんの順番に握手を交わしていく。


 『朝日向あさひな店長。何故握手を所望されるのですか』

「もしかして兄貴、『さよなら』のつもり? まだそうなるって決まったワケじゃないじゃん!」

『火乃香さまの仰る通りです。なにより弊社と御社との派遣契約が解除されるには、まだ数日の猶予があります。いささか時期尚早じきしょうそうかと』

「そうじゃないよ。ただ、ちょっとな」


曖昧あいまいな答えしか返さない俺に怪訝な表情を浮かべながらも、3人は深く追求しようとはしない。恐らく俺が皆との別れを惜しんでいる……そう考えているのだろう。

 まるで通夜のように静まり返る店内。俺達も意図せず気持ちが沈み視線が下がってしまう。そんな俺達の様子を、たゆねさんは【好感度測定眼鏡】を装着したまま観察し続けている。


 「……ふむ」


握手から数分後。小さく息を漏らし、たゆねさんはそっと眼鏡を外した。薬の効果が表れて、彼女達への好感度が表示されたのだろう。

 その結果如何いかんでは、俺は全てを失ってしまう。

 まるで判決を待つ被告人のような心境。ゴクリと固唾かたずを飲んで、俺はたゆねさんの言葉を待った。


 ――ウィイイ……。


だがその時。店の自動ドアが開かれ、くだんの女性営業が現れた。


 「おせわになっております、朝日向あさひな様」


相変わらず恰幅かっぷくの良い体を揺らしながら、女性営業は厭味いやみな微笑を浮かべている。

 予定よりも来る時間が早い。まるで待ちきれないと言わんばかりの振る舞いが一段と腹立たしい。

 とはいえ追い返す訳にもいかず、たゆねさんからの判決を聞かないまま店の待合室で話を進めることとなった。

 俺、泉希、火乃香、そしてたゆねさんが横一列にベンチへ座り、その向かいに女性営業が腰を降ろした。相変わらずアイちゃんを隣に立たせて。


 「それでは先日の御回答を伺い致します。羽鐘はがねの派遣契約終了を受理頂くのか、それとも羽鐘を御買取り下さるか」


女性営業はニヤリと粘り気のある笑みを浮かべた。苛立つ気持ちを必死に抑え、代わりに両の拳を固く握りしめる。


「羽鐘さんは――アイちゃんは僕にとって掛け替えのない存在ヒトです。見捨てることは出来ません」

「左様でございますか。では、羽鐘を御買取り頂くということで宜しいですね」

「……はい」


まるで俺の返答を知っているみたく、女性営業は肥えた口角を一段と持ち上げた。


「ありがとうございます。なお御支払いは一括払いとなりますが、もしもまだ御用意いただけていないようなら代替案としてこちらの店舗を――」


こちらの返答も待たず女性営業は大きめの鞄からA4サイズの封筒を取り出した……その瞬間。


 「ちょっと待ってもらおうか」


たゆねさんが、会話の流れをき止めた。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


実際のM&Aは仲介業者が間に入って、売り手と買い手の意志を折衝してマッチングさせるの。立地などの条件が良ければ複数の企業が手を挙げるわ。

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