第92話 片桐たゆね
――
俺の答えはもう決まっている。
この店を売り払って、その金で俺はアイちゃんを買い取るのだ。
そして、
この方法なら誰かと離れ離れになることはない。きっとこれが、考え
もちろん泉希には何度も気持ちを確認した。だが俺と結婚する意志は変わらないと言う。思うところが無いと言えば嘘になる。けれど俺には、何を言う資格もない。
薬局は朝から重々しい空気満ちていた。
火乃香のシフトを外していて良かった。
会話などほとんど無く、地に足付かない心地のまま午前中の業務が終わった。アイちゃんと泉希を休憩に行かせ、俺は一人で締め作業をしていた。
「やあ店長さん。今日も薬を頂きに来たよ」
その時だった。普段と変わらない飄々とした笑顔で、たゆねさんが来局された。こんな日にお越しになるなんて、タイミングが良いのか悪いのか。
「こんにちは。でも、確か前回の処方分は2週間分だったはずですけど」
「今日は私の薬だよ。少し歯の治療をね」
たゆねさんはA5サイズの処方箋を差し出した。たしかに痛み止めと抗生物質が処方されている。
「この薬なら、丁度ウチにも置いてあります。ただ今は薬剤師が休憩に行ってるんで、少しだけお待ち頂けますか?」
「……何かあったのかい?」
カウンター越しのたゆねさんは、笑みを浮かべたまま鋭く問うた。俺の背中に冷たい汗が浮かぶ。
「な、何がですか。別に何も無いですよ」
「そんな顔と声で言われても説得力が無いね。私で良ければ聞かせてくれないか」
たぶん笑顔でも引き攣っていたのだろう。図星を突かれた俺は視線を泳がせ、鈍った頭で押し黙る。
「……実は――」
張り詰めた緊張感が飽和して、俺はたゆねさんに事の
派遣会社の倒産に伴いアイちゃんが廃棄処分にされること。アイちゃんを買い取るには1900万円という大金が必要だということ。
だけどそんな大金を用意できるはずもなく、回答期限の今日を迎えたこと。
アイちゃんを買い取る金策として、この店を大手調剤薬局チェーンに吸収合併……否、売却する提案を出されたこと。
吸収先の企業に迎えられるのは泉希だけで、俺と火乃香は解雇になる。けれど俺がこの薬局を失えば無職となり、火乃香の未成年後見人の資格も失う可能性がある。
そんな俺に、泉希が結婚という打開策を示してくれたこと。俺はその提案を、受け入れたこと……。
「――なるほど、そんな事があったんだね。教えてくれて有難う」
誰も居ない店内。たゆねさんは一度と聞き返すことなく俺の話に耳を傾けてくれた。難しい顔で何か考えているようだが、驚いている風はない。
「実は少し前から
「そうでしたか……」
あの時たゆねさんの話を最後まで聞いていれば……いや、聞いた所で変わりないか。どちらにせよこうなる運命だっただろう。
「ねぇ店長さん。一つ提案があるのだけれど」
「……はい?」
「そのお金、私に融資させてほしい」
俺は目を見開き、伏せていた目線を上げた。たゆねさんは普段の姿からは想像も出来ないほど真剣に、じっと真っ直ぐ俺を見つめている。
「融資って……」
「もちろんタダじゃないよ。二つだけ条件がある。一つは以前に渡した【異性に興味が無くなる薬】。あれを3人の前で飲むこと」
一体どんな条件かと思いきや、その程度であれば今までと何も変わらない。ただ泉希たちの前で飲む理由が分からない。
「店長さん。君は3人の女性を大切に想っているようだけど、それは性的な対象ではなく、ひとりの女性として愛しているのかい?」
「性的って……当たり前でしょう!」
「ならば例の薬を飲んでも、彼女達への想いは微塵も変わらないはずだよね」
そう言うと、たゆねさんは手提げポーチから見覚えのある眼鏡を取り出した。アイちゃんのと
「あの薬を飲んでなお彼女らへの好感度が変わりなければ私は融資をしよう。だが万が一にも服薬後に想いが消えるようなら、あのAIVISちゃんは私が買い取る」
「たゆねさんが……アイちゃんを?」
「ああ。そうすれば君は店を手放さずに済む。だが今までのように彼女を雇用することは認めない」
「それじゃあ、アイちゃんを見捨てるのと同じじゃないですか!」
「同じじゃないよ。AIVISちゃんは廃棄処分を
「でも、そしたらウチの店は……」
「潰れるかもしれないね。だけど従業員や義理の妹を性的な対象と見ている経営者の元に居るより、離散した方が彼女らも幸せだと思うがね? まして心から愛していない相手と打算だけで結婚するような男なら猶更ね」
「……っ!」
ぐうの音も出なかった。火乃香やアイちゃんのことは勿論愛している。性的な対象とも思っていない。けど泉希のことは……俺自身、心に
「なんなら
要するにあの薬を飲んで皆への好感度が下がれば、アイちゃんは廃棄処分にならずとも俺の元から離れていく。それは同時に店を手放すのと同義。
だけど火乃香の身は保証される。どころか俺の元に居るよりも良い暮らしが出来るだろうし、将来の不安も少ないはずだ。
薬剤師である泉希も、ウチみたいな個人経営の店に縛られることなく安定した大手の薬局で働ける。
「とはいえ選ぶのは君だ。薬を飲まず店を売って偽装結婚する道を選ぶのも自由。強制はしないよ」
そう言ってたゆねさんは小さく肩を竦めた。
薬を飲んで全てを手にするか、全てを失うか。それとも融資の話を蹴り、胸に疑念を抱いたまま店だけを諦めるか。二者択一の現状。だけど――
「……お願いします、たゆねさん」
――答えなんて、最初から一つしかない。
-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------
コンビニが時代と共にどんどん大手4社に統合されたように、調剤薬局でも大手の買収が進んでるの。でも大手で働くことが幸せとも限らないわよね。
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