第91話 水城泉希(水)③

 次の日から、私に対する悪口は減った。代わりに悠陽ゆうひの悪口を耳にするようになった。私への嫌がらせは全て彼に向けられた。


 「朝日向あさひなさん」

「ん……なんですか水城みずしろさん」


しばらく経ったある日。業務を終えた頃に私は悠陽に声を掛けた。ひどく疲れているのか、彼は眼の下に濃いクマを作っていた。


「貴方、皆から良く思われてないわよ」

「知ってますよ」

「その割に落ち込んでいる風には見えないけど」

「どうして僕が落ち込むんですか」

「感情に任せて、あんな風に噛み付いたじゃない」

「別に感情任せじゃないです」

「だったら余計に馬鹿よ。私の事なんて放っておけば良かったのに。一緒になって私の悪口を言っていれば、こんな事にはならなかったでしょ」


少しだけ語気を強めて私は彼を横目に睨んだ。頑固とも思える彼の態度がかんに障った。けれど彼は尚も不貞腐れたように眉根を寄せる。


「それは出来ません」

「どうして」

「だって俺は、水城さんの事を本当に素敵な人だと思うから。自分の気持ちに嘘は吐けないです」


ニッと白い歯を見せ、私を心配させまいと彼は笑いかけてくれた。その笑顔が温かくて優しくて、私の胸がまたドキリと波を打った。途端に顔が熱くなって、思わず目を逸らしてしまう。


「なっ、なによそれ。そんな意味の分からないことで自分が不遇な目にあっていたら世話も無いわね。私に向いていた敵意が、今は全部貴方に向けられているんだから」

「それならそれで良いです。水城さんが、少しでも働きやすくなってくれたなら」


そう言って彼はまた笑った。だけどその笑顔に、普段の快活さが無かった。疲労感を浮かべつつ無理して笑いかけている……そんな雰囲気だった。


 その日から少しずつ、私は悠陽のことを目で追うようになった。彼の事がとても気になった。

 恋愛的な意味よりも彼の変化が目についた。日を追うごとに、段々と目付きが鋭く口調も厳しいものになっていった。

 朝日向あさひな先生の体調不良や処方箋しょほうせん枚数の減少、人手不足が重なって、彼は精神的にも肉体的にも追い込まれていた。

 せっかく雇った新人職員もすぐに辞めてしまった。それが他の従業員らのイジメによるものだと知ってか知らずか、悠陽は「僕に管理能力が無いせいだ」と自分を責め続けた。

 誰よりも真っ直ぐで誰よりも不器用な彼は、従業員たちの厭味や妬みも真正面から受けていた。次第に彼の口調や目付きが厳しく変わり、皆は彼を怖がり忌避するようになった。


 「貴方は、まるで砂漠の太陽ね」


ある日、私はポツリと悠陽に告げた。彼は鋭い目つきで私を睨み語気を強める。


「少しでいいの。ほんの少し、光を弱めるだけで。私がこの薬局に入職した頃の貴方は、もっと笑顔が多くて言葉遣いも穏やかだったわ。もう一度あの頃の貴方に戻ってみたらどうかしら」


その言葉が功を奏しか、悠陽はどこか吹っ切れたように以前の彼に戻った。そして前以上に私を頼り私との距離を縮めてくれた。


 水が高所から低所へ落ちるとき、高低差が大きいほどに強いエネルギーを生む。私が彼を好きになるのにも時間は要らなかった。

 彼と言葉を交わすたび、彼に目が合うたび、彼の声を聞くたび、私は朝日向あさひな悠陽ゆうひに惹かれていった。


 ドス黒く汚れた私の水槽は徐々に姿を消し、足元に広がった。そしてその水は彼という太陽に浄化され、少しずつ透明な泉へと変わっていった。


 

 ◇◇◇



 「――みずきさーん」


そんなある日、彼は唐突に私の事を名前で呼ぶようになった。昨日まで『水城さん』と呼んでいたから驚いた。


「前にも言ったでしょ。私の苗字は『みずしろ』。『みずき』はファーストネーム」

「良いじゃないですか、名前で呼んでも」

「良くないわよ」

「どうして」

「どうしてって……とにかく、私は認めないから」


危機感も緊張感もなく言った悠陽は、私の答えにムムッと唇を尖らせる。


 それでも私は答えない。

 理由は単純。恥ずかしいから。


 彼に名前を呼ばれる度に顔がにやける。

 彼に名前を呼ばれる度に頬が熱くなる。


 気分が舞い上がって浮足うきあしだつ。

 心がくすぐったくて手が震え出す。


 本当は、悠陽にかばってもらった時から、頭の中は彼のことで一杯だった。おかげで調剤の仕事がしばらく手に付かなかった。

 彼が私を頼ってくれるのが嬉しかった。

 彼が私の事を心配してくれるのが嬉しかった。

 困っているのは理解してる。一刻も早く従業員を雇わなければ、また以前のようになりかねない。

 彼のために人を雇いたい。その思いに嘘は無い。だから羽鐘はがねさんの所属する派遣会社を勧めた。


 それがまさか、こんな結果になるだなんて思いも寄らなかった。申し訳ない、叶う事なら時間を巻き戻したいという思いで圧し潰されそうだ。

 それでも彼は私を責めたりしない。その優しさがより一層と私の心を締め付ける。いっそ罵倒してくれた方がどんなに楽だろう。


 私は決めた。私は私の全てを彼に捧げる。

 たとえこの身がどうなろうと、彼を不幸にはさせない。太陽がなければ何も生まれないように、彼の笑顔は皆の心に幸せを生み出してくれるから。


 でも本当は……私が彼と結ばれたいだけ。


 悠陽を不幸のドン底に落として彼を自分のものにする為の口実を作り、尚も私は彼と二人きりの時間を願ってやまない。


 私という水槽はもう無くなった。けれど私という泉は取れることのない汚れを奥底に抱えたまま。


 キラキラと輝く神泉は水面みなもの景色。


 悠陽という太陽が無ければ、彼に照らされていなければ……私はまた、私に戻ってしまうだろう。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


小児科さんの処方箋枚数が減少した理由はドクターが御高齢になったことと、近くの小児科が若い女性の先生に代替わりしたことが主な理由よ。

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