第89話 水城泉希(水)①

 私にとって彼は太陽だった。


 私が今私で居られるのも、彼がその眩い光で私を照らしてくれるから。

 だから私はこの店に残った。他の薬剤師や事務員らが辞めていく中で、ただ一人。

 どれだけ仕事が増えようと責任が増そうと、彼の傍に居られることが大切だった。むしろ他の女が消えて清々した。一人、また一人と従業員が辞めていくたびに彼は私を頼ってくれた。

 それが何よりも嬉しくて、何よりも幸せだった。 

 その現実が、彼を苦しめていると知りながら。



 ◇◇◇


 

 いつの頃からだろう。他人ひとと自分が違うことに気付いたのは。見た目や性別の話ではなく、もちろん内面的な意味で。


 他人と一緒に居るのが煩わしかった。他人に私のことを理解したつもりになってほしくなかった。


 だから私は、自分を語らなかった。


 『水城みずしろ』という苗字が母の姓であることも、父は私が幼い頃に家を出ていったことも。周りの人間は誰一人として知らない。


 母は女手一つで私を育ててくれた。そんな母が私は大嫌いだった。

 見栄や世間体を気にするくせ、男に媚びへつらうような仕草や態度。まだ子供だった私の神経はいつも逆撫でられていた。

 

 クラスの連中はよく自分達の母親の不満を漏らしていた。私にはただの自慢にしか聞こえなかった。その声が煩わしくて、私は自分の周りに見えない壁を作った。

 だけどその壁はガラスのようだった。向こう側は透けて見えて、音も完全には遮断出来ない。にも関わらず外界との接触は頑として拒絶する。


 最初は無色透明だった壁。だけど誰手入れなんて誰もしてくれない。気付けば段々と汚れていった。

 その汚れに比例して、私の心も腐っていった。

 まるで放置された水槽みたく、壁の中の私はの世界から存在を消していく。


 それでも私の肉体からだは生き続けた。


 生きるためにはかねが必要だ。金を稼ぐには仕事が必要。仕事にはスキルが必要だった。だから私は薬剤師という仕事を選んだ。世の為人の為だなんて、そんな高尚な理由は一切無い。

 大学は公立に行った。家にお金は無かったから、奨学金を借りてバイトもした。

 ただでさえ忙しい薬学生。私は部活もサークルも入らず、ひたすら勉強とバイトに打ち込んだ。

 友達は居なかった。作る気もなかった。作り方なんてとうの昔に忘れていた。

 実験とレポート、それにチーム授業が苦痛だった。班ごとにミーティングやオリエンテーションがあったけど、私は協調性を示さなかった。

 周りの視線が痛かった。

 それでも歯を食い縛って、私は死に物狂いで勉強とバイトに打ち込んだ。

 そんな時だった。


 母が亡くなったのは。


 交通事故だった。母は夜中に酒を飲んで酩酊し、車の行き交う道路へ千鳥足に飛び出したらしい。

 涙は出なかった。どころか保険金が入れば奨学金を返済できると思った。自分でも酷い娘だと思う。

 だけど涙が出るような思い出なんて、私の頭には一つも浮かんでこなかった。もうその頃には、私の心は濁り腐った泥水になっていたから。記憶の宝石は泥の中に埋もれていた。

 腐った泥溜まりには誰だって近付こうとしない。だから私に近付く人も、誰一人として居なかった。それで良かった。一人で生きていけるように私は薬剤師という道を選んだのだから。


 けれどそんな中で唯一人、朝日向あさひな先生……悠陽ゆうひのお母様だけは、私のことをいつも気に掛けてくれた。


 私の通っていた薬学部では、年に数回職業訓練のようなものがあった。仕事も出来ない学生に職場を見学させるのは薬局にとって迷惑しかない。

 インターン生と違い、実習を受け入れても薬局そこに入職するか分からないのだから。

 

 私の実習先は朝日向あさひな調剤薬局だった。


 薬剤師を始めとした従業員たちは、腫れ物にでも触るかのように私を扱った。でも朝日向先生だけは私のことをいつも気遣ってくれた。


 『何かあれば遠慮なく言うてね』

『困ったことがあればいつでも頼って』

『美味しい物でも食べに行こか』


仏頂面で可愛げもない私に、それでも先生は見限ることなく声を掛けてくれた。

 従業員らは口々に「怖い人だ」「人の心が無い」などと先生を小馬鹿にしていた。

 確かに朝日向先生は確かに厳しい人だった。でもそれ以上に優しい面も持ち合わせていた。他の職員はそれに気付こうともしないだけだ。そう思った。


 数年後。私は大学をストレートで卒業して、薬剤師の国家試験にも合格した。でも入社したのは、朝日向調剤薬局ではなく大手薬局チェーンだった。


 『泉希ちゃんはウチみたいな小さな店に来たらアカン。もし万が一どうにもアカンようなったら、その時はウチに連絡しておいで』


5回生の時、私はすでに朝日向調剤薬局への入職を断られていた。大学の先生からも「個人経営の薬局より大手や総合病院へ行け」と言われた。


 そうして私の薬剤師人生がスタートした。

 けれど上手くいかなかった。人間関係を理由に、私はたったの3か月で最初の会社を辞めた。

 次の会社も調剤薬局だった。けれど、また3か月と経たず辞めてしまった。理由は前と同じ。他人との関り方を知らなかった。


 職場を転々としながら、気付けば1年が経とうとしていた。履歴書の職務経歴欄が埋まっていくのと反比例して、私の自信は失われていった。


 「もう、生きてても仕方ないかな……」


そんな考えが頭を過ぎった時だった。珍しく携帯電話が着信を知らせた。恐る恐ると画面を見れば、そこには朝日向先生の名前が。


 「も、もしもし……」

『あー、泉希ちゃんー。久しぶりやねー。元気してるー?』


聞こえてきたのは先生の明るい声。途端、私の目から涙が溢れて止まらなくなった。嗚咽で真面まともに話すことも出来なかった私に、先生は何も聞くことなく朝日向調剤薬局への入職をすすめてくれた。


 そんな私の前に現れたのが、同じ時期に入職した朝日向先生の息子……朝日向あさひな悠陽ゆうひだった。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


薬剤師の受け入れ実習やインターン制度の受け入れ先は大手のチェーン薬局が殆どよ。私は家が近いという理由で朝日向調剤薬局を選んだわ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る