第87話 私と、結婚して
派遣会社の倒産に伴う、アイちゃんの廃棄処分。それを回避するための吸収合併提案を受けてから、今日で丸一週間が経過した。
回答を明示する期限が明日に迫っている。けれど俺は、未だ結論を出せずに居た。
この一週間で俺なりに策を練ってみたが、当然と1900万円もの大金を用意するなんていう神業は成し得なかった。
◇◇◇
「わたしの事なら気にしなくて良いから。兄貴の思うようにやったらいいよ」
火乃香は愕然と言葉を詰まらせた。けれど直ぐに笑顔を浮かべて、俺を励ますような言葉を掛けてくれる。
「でも……出来ることならこのまま兄貴と一緒に暮らしたかったかな」
その想いを漏らしたと同時、火乃香の目からは涙が零れ落ちた。それでも俺を心配させないよう懸命に笑顔を浮かべる火乃香に、俺はただ彼女を抱き締めてやることしか出来なかった。
叶うことなら、俺もこのまま火乃香とずっと一緒に暮らしていたい。それは嘘偽りない俺の本心だ。
◇◇◇
「アタシはええよ別に。今はもうアンタが責任者みたいなもんやねんから。アンタが決めな」
意外なことにオフクロもあっさり承諾してくれた。だがあの薬局はオフクロが立ち上げたもの。以前も『自分の子供みたいなモンや』と話していたから、
「アンタが薬学部を辞めた時から、いつか売らなアカン日が来ると思ってたし」
けれど俺が帰る間際、オフクロは悲し気にポツリと漏らした。俺は何も答えられず、逃げるように愛犬のキキちゃんを抱き上げた。
◇◇◇
『申し訳ございません、
業務を終えて退社する間際、今日もアイちゃんは俺に頭を下げてくれた。あれから毎日、アイちゃんは俺に謝ってくれる。その度に俺は「アイちゃんは何も悪くないから」と笑って答えた。だけど、上手く笑顔を作れている自信は無かった。
『何度も申し上げますが朝日向店長。私の事などお気になさらず、どうかこちらの薬局運営を続けては頂けませんか』
無表情ながら、その声には何処か悲壮感が浮かんでいるように思えた。もし俺がアイちゃんの立場でも同じ事をいうと思う。
「大丈夫だよアイちゃん。仮に売らなくても薬剤師が足りない今の状況での継続は難しいし。それに、俺には秘策があるんだ。だからアイちゃんは、なんにも心配しなくていいから」
出来る限りの平常心でそう言うと、俺はアイちゃんを後ろ姿を見送った。
秘策なんてもちろん嘘だ。そんなものがあれば俺もここまで悩みはしない。せめてもの救いは回答期限が金曜日に定められたこと。前日の木曜日が午前のみの業務で終わるから、CLOSEした店内で、ひとり静かに心の整理が出来る。
「……
いつか本当に【
結局、店を手放すより他に無いから。
アイちゃんを諦め店の運営を継続しようと、
もちろん薬剤師の募集は続けているから、採用の可能性はある。けれどあまりに運任せだし望み薄。博打に出るよりも、確実にアイちゃんを
「もしかすると、交渉次第で次の会社に引き抜いて貰えるかもしれんしな……」
なんて有りもしない妄想を呟いて、俺は自嘲気味に笑った。そうでもしないと潰れそうだったから。
――コンコン。
と、その時。施錠している自動ドアが軽快にノックされた。患者様だろうか。
「
だが、動かない自動ドアから響いたのは
「どうした、忘れ物か」
「ごめんなさい。ちょっと、貴方に話があって」
どことなく神妙な泉希の雰囲気に、俺は嫌な予感を覚えた。アイちゃんの件もそうだが、真剣な顔で『話がある』と言われる時はやはり悪い事の前触れだから。
「悪いけど泉希、今度にしてくれ。アイちゃんの件で明日にはあの営業担当に答えを出さなきゃいけないからさ。だからそれが終わってから――」
「悠陽」
何を言われるか分からない恐怖に視線を逸らすも、泉希は詰めるように俺の名を呼ぶ。鬼気迫るその声に振り返れば、泉希は熱の
「私と、結婚して」
「……え?」
あまりにも意外かつ唐突な言葉に、俺は間抜けな声顔を返すことしか出来なかった。
-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------
大手企業が個人経営の薬局を吸収合併するのはよくある話なの。調剤報酬という薬局の法定収益が減額されて、個人経営は昔より難しくなったの。
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